三幕-③
「っああ――!」
落ちていくなか、遮二無二ふりまわした手に、横から突き出るように生えていた植物が引っ掛かった。
ほとんど無意識にそれを強く掴むと、尊の身体は急停止した。
「……!」
掴んだそれは樹から垂れたツタのようなものから、長い草の束などが集まったものだった。中には棘が生えているものもあり、尊の手にはこれまで感じたことのない鋭い痛みが走った。
激痛に苦悶の表情を浮かべる尊。しかし、今この手を放すわけにはいかなかった。緩めるどころか、さらに力を込めて握り込む。
その行動は意識してのものではなく、危機的状況に生存本能が勝手に反応したようなものだった。
これまで以上の痛みに襲われることとなってしまった。見ると、手の内側からはダラダラと血が流れ落ちてきていた。
このまま手を放してしまいたい気持ちが沸き上がる一方で、それをすると確実に死ぬことの恐怖が尊を押しとどめた。
しかし、それも長く続かないだろう。全体重を傷ついた手が支えているのだ。棘はなおも尊の皮膚と肉を引き裂いていく。
打開策を考える余裕もない。こんな状況だろうが、亡者たちの声が止むことはないのだ。
再び耳にはあの声がいくつも重なってきた。
(もう……)
握力よりも気力が限界に近づき、尊はいっそ手を放して楽になろうとした。
何をここまで頑張る必要があるだろうか?
周りの人間が次々と死んでいく中で、自分はよくやったではないか。
だんだんと、死ぬことへの許容が高まってきたとき、掴んでいたツタやら草の束がガサッと音を立てて沈み込んだ。
どうやら、自分が踏ん張ったところで結末は変わらないようだ。
諦観から尊の口元には自然と笑みが浮かぶ。
「そうか……最初から――」
そう呟き、体から全ての力を抜こうとした時だった。
尊の手首を何者かが力強く掴んだ。そのおかげで、すんでのところで落下を免れていた。
「三道!」
視界に入ったのは頂上で待っているはずの伊神だった。
「伊神さん!」
落ちなかったことと伊神の顔を見たことで一瞬安堵した尊。そのため、身体から力が抜け、全体重の負担が伊神の右腕一本にのしかかった。
「……!」
声は発さなかったが、伊神の表情に余裕はない。
とはいえ、尊が体重をかけられる場所もないため、今は伊神に頼ることしかできなかった。
「なん、なん、だよ……!この、状況は……」
「……ぇえと」
なんとかこの状況を伝えようと思うが、尊の口からは間の抜けた声しか出てこなかった。
「そんな声出すんじゃねえよ……!」
「でも……伊神さんも」
尊の全体重を片手で支えているだけでも相当な負担だが、伊神が身を乗り出している場所も悪かった。崖付近の竹藪で、踏ん張れるような体勢を取ることができない。尊もどこかに足を引っかけたかったが、そんな場所も無い。
このままでは、二人とも崖下に落ちる可能性もある。
「元刑事なめるんじゃねえ!」
そう言うと伊神は歯を食いしばり、一気に尊を引き上げた。
「すみません、助かりました……」
尊は近くの枝に手を伸ばし、地面を踏む。
「……良いってことよ」
伊神は肩で息をし、その場に座り込んでいた。俯いていたので表情は分からないが、かなり無理をしたことが分かる。
しかし、九死に一生を得たとはいえ根本的な解決には至っていないことに尊は気付く。
死の間際からの生還ゆえか、少しの間だけ気にならなかった亡者の声が再び聞こえ始める。手が足が、彼らに絡めとられていく。
「うわぁっ!」
尊は思わず手を振り回した。その様子を、疲れた表情の伊神が見つめている。
「なんだ……?ここでも霊ってのが見えるのかよ」
顔を覆った手の隙間から、尊は怯えた表情で伊神を見据えた。
本当に見えないのか?
額から汗を流す疲れ切った顔は、嘘を言っているものではなかった。
それが今は羨ましく、嫉妬にも似た怒りさえ湧きかけた。が、それすらすぐに失せていく。
「伊神さんは、どうして、ここに来たんですか……」
理由は何だってよかった。ただ、誰かと会話をし気を紛らわしていなければ正気を保てない気がしたのだ。
「そりゃぁ、お前の悲鳴が聞こえてきたからな……。むかし警察なんてやってるとな、人間のマジの悲鳴っていうのが分かるようになる。お前のさっきの悲鳴は、後先無くなった人間の声に間違いなかった」
だから来た。
そこまで言うと、伊神は立ち上がって周囲を見回す。息も整いはじめていた。
「ひとまず下りるか」
そう言うと、伊神は尊の手に目をやった。少なくない量の血が地面へと垂れている。それがなくとも、「この山に収穫はない」というのが伊神の今のところの感想だった。
ある種の興奮状態だったのか、伊神の言葉で傷を意識し始めると、再び鋭い痛みが尊を襲ってきた。
「……いいえ」
一瞬悩んだが、尊はこの山に残る決断をした。
「お前がそう言うならかまわねえけどよ」
疲れた顔で伊神は首を振る。
幸い、日が落ちるまではまだ時間があった。
(でも、どうする)
亡者と傷とでとっくに余裕はない。視界に入ってくるものも、先ほどより異常な景色が広がり始めている。
しかし、その中に八尺様はいなかった。
沈黙が怖かった。静かな山の中で、ずっと耳元でボソボソと何者かが呟いている。
「伊神さんは、どうしてまだ"牛首病院心霊事件"を追っているんですか?」
結局、伊神との会話で気を紛らわすことしか思いつかなかった。
「そんなもん……今は関係無いだろ」
「事件はもう解決扱いされているじゃないですか。そんな事件、たった一人で解決できるんですか?」
伊神は心底嫌そうな表情したが、尊の切羽詰まった様子を見て観念したように口を開いた。
「解決できるかどうかじゃねえ。俺が納得してないから勝手にやっているだけだ。警察を辞めたのもな」
「それって、仲間の無念を晴らすとか、そういうやつですか……」
「それもある」
尊は力なく笑った。
口ではなんと言おうが、伊神は霊的な存在を認めている。尊はそう感じた。亡くなった人の無念を晴らすなど、霊魂の存在を信じていなければ考えることすらしないはずである。
ここに来て伊神も普通の人間だと思ってしまった。そんな者に、自身の問題を解決することは決して出来ない。それが分かってしまったから尊は笑った。
ただ、伊神の言葉はまだ終わっていなかった。
「しかし、一番大事なのはそこじゃねえ。事件を解決したところで、死んだ人間は生き返らないからな」
「……じゃあ、なんで」
「さっきも言っただろ。俺が納得してないから、やりたいから勝手にやっているだけだ」
「変わっていますね」
「変わってんのはお前の方だろ。目にも見えねえものにどれだけ怯えてるんだ?」
その時、尊は妙な違和感を覚えた。
「いいか?俺は神も仏も、ましてや幽霊なんてものはこれっぽっちも信じちゃいない。けどな、"人の心"ってもんは信じてんだよ」
伊神の顔や声は真剣なものではあったが、どこか大げさに強調しているようにも聞こえた。それが伊神の照れ隠しのようなものであると尊は理解する。
「あの時……お前が病院に飛び込んできた時。お前が嘘をついていないことが分かった。それだけ必死だったんだろう」
その言葉で尊は、入院していた伊神のところへ無理やり押しかけた時のことを思いだした。確かに、あの時は生きるか死ぬかの瀬戸際だった。
ただ、同時に先ほどの違和感が大きくなることに気付く。
「八尺様なんてものはどうでも良いが、あの時のお前は信用できる。あと、依頼金はちゃんともらう」
それが、伊神が付き合う理由だという。
「……伊神さん」
「今度は何だよ」
尊は、ようやく違和感の正体を突き止めた。伊神と会話をしていると亡者の声が聞こえてこないのだ。
これは気がまぎれるだとか、そんなレベルでないことはすぐに分かった。そもそも、気がまぎれる程度であれらの声は遮断できない。
そのおかげか、尊はすぐにそれを利用することを思いついた。このような前向きな考えが浮かんだこと自体が、その証明ともいえる。
「俺の耳を塞いでください」
「はぁ?」
限界ギリギリの状況の中、尊は必死の形相で伊神を見上げた。
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