三幕-②
「……やっぱり駄目か」
伊神は手に持っていたスマホをポケットにしまった。
田舎の、しかも山の上という条件から電波が届かないであろうことは想定していた。全く通信できないわけではなかったが、ほとんど使いものにならない。
自身のポケットWi-Fiも繋がらず、外への連絡はできそうになかった。
「まったく……」
大きくあくびと同時に身体を伸ばすと、伊神も山を降りることを考え始めていた。
(そうなりゃ、この件ともおさらばだ)
幽霊だの霊現象だの、果ては八尺様などという土着の怪談話にまで付き合わされるとは思わなかった。
普段ならここまで面倒を見る伊神ではないが、前日に泉帆から「最後まで結末を見届けること」と念を押されている。自宅の住所を教えキーまで渡した手前、しばらくは泉帆に逆らえるはずもない。
ダルそうに山を降り始める伊神。
その時だった。下の方から誰かの叫び声が聞こえてきたのは。
「……三道か?」
確かに聞こえた人間の悲鳴に、足が勝手に反応する。伊神は先ほどとは打って変わった表情で、声がした方へ走り始めていた。
もう一度、霊が見たい。そう願った時、尊の両眼から白く大きな手が離れていくのが見えた。泉帆が言っていたことを思い出す。八尺様は背後で尊の両目を隠していたというのがようやく理解出来た。
すぐさま背後を振り向くが、そこに夢で見たような八尺様の姿はなく、ただ、山の木々と空が映るだけだった。
「……」
それだけだった。
そのはずだった。
木と空が見えるその視界に、これまで無かった違和感があったのだ。
それが何なのか。分かった瞬間、尊は視線を落とし、八尺様に願ったことを激しく後悔した。
「!」
ただ、視線を落としたそこにもそれはあった。
思わず後ろを振り向くと、そのまま尊はうずくまってしまう。
冷や汗が全身に流れる感覚があった。激しい腹痛でその場から動けなくなった時を思い出す。
しかし、状況はそれとは似ても似つかない。
限られた視界のなか何とか落ち着こうとしたとき、尊の足首を掴む青白い手が見えた。その瞬間、尊の目は大きく見開かれ絶叫する。
透けて見える。曖昧な存在。
そんな不確かなものではない。
確実に、何かを訴えるかのような力でもって自身の手首を掴む何者かの手。生気を感じられないその手の冷たさは、尊自身の体温を奪い去るかのようだった。
「……ひ……っ」
その感触に、尊は声にならない声を上げる。
想像だにしていなかったからだ。霊が見えるのはまだしも、それに触れられるなど。
だが、想定外の出来事はまだ終わらなかった。
「たすけて……」
耳元で確かにそう聞こえた。そこを見ずとも分かる。この世ならざる者の声。
八尺様の声(のようなもの)は確かに聞いてきた。が、今耳元に聞こえたそれは、八尺様とは明らかに違う。
感情を伴っている。助けて、と。その行為を尊に求めている。
無論、その理由は尊が見えているから。
泉帆も語っていたが、霊を見ることができる人間が最も気を付けていることは、「霊に見えていると気付かれること」だ。
尊は、覚悟を決める暇もなかった。
見えていることがバレてしまえば、その人間を放っておくはずがない。
「たすけて」
「こっちに来て……」
「痛い」「怖い」
「死ね」
突如、耳元で聞こえたその怨嗟の声に、とうとう尊は耐えきれなくなった。
「うわあああああああああ!」
と叫び声を上げると、そのまま走り出してしまう。
「来るな!触るな!」
走りながら手を、足を、何かから払いのける。バランスを崩しその場に倒れても、すぐに起き上がって走るのを止めなかった。
既に、発狂寸前まで来ていた。
この感覚は味わったことが無い。未知の体験が、尊の冷静さを一瞬で奪った。
「なんで……!どうして!」
なぜ触れる?
幼い頃、霊を触れた経験は無い。それは触ろうという選択肢を取らなかっただけかもしれないが、まさか出来るとも思っていなかった。
霊とは曖昧な存在ではないのか。自分の足首を掴んでいたのは間違いなく人間の手ではなかった。正者の手の色ではないうえ、おそろしいほど冷たかった。
まるで、こちらの生気を吸い取ってくるかのように。
そして何より。
反応してしまった。
霊感のある人間ならば、絶対にしないだろう。尊は、後悔と同時にあれらからはもう逃げられないと確信していた。
だから闇雲に走ってはいるが、解決する方法など思いもつかない。それに、走ったところで相手は人間ではない。声も、冷たさも、今もずっと身体にまとわりついてきていた。
しかも、その数はどんどん増えてきている。
「はぁ……!はぁ……ぁつ!」
今も視界の端々に、この世のものではない何かが見えていた。
(おかしい!子供の頃は、こんな……)
こんな数の霊を見たことはなかった。
どこに目をやっても、必ず視界に捉えられる。そして徐々に気付き始めたが、人の形をしていないものも中にはあった。
霊というにはあまりに異形。どちらかといえば"妖怪"に近い見た目。
ただ、不思議なことに、そういった妖怪に似た存在は尊には無関心なようだった。
それがキッカケになったかは定かでないが、尊は少しだけ冷静さを取り戻した。
(俺にまとわりつくものとそうではないもの……)
少なくとも、その二種類が視界にいるのだ。見える霊は、全てこちらに敵意か救いを求めてくるものとばかり思っていたぶん、その気付きは新鮮だった。
そして、その僅かばかりの余裕が、尊の次なる行動を決定する。
「その力に頼るしかないよ」
泉帆の言葉がよみがえる。
(そうだ……この力を使って八尺様の祠を探し出そうとしたんじゃないか)
当初の目的を思い出し、尊は走るのを止めた。その途端、身体のあちこちに悪寒が走る。次いで耳元では聞き取れないくらいの亡者の声。
幾分慣れてきた。いや、慣れるしかなかった。全身を何かが這いまわるような感触。耳には確実に、何者かの息遣いが聞こえている。
そんな状況のなか、尊は頼った。その力に。
祠の場所が別の次元にあるのだとしたら、今頼るべきなのは"目"。恐怖を抑え込み、尊は両眼を大きく見開き、その視界を広げる。
しかし、数えきれないほどの霊で邪魔されて、ほとんど何も捉えられない。
「……くそっ」
必死の決意で目を開いたのに、それが無駄であったことに落胆する。すると、一気に体から力が抜け寒気が走る。
(まずい)
尊は何とかその場に踏みとどまる。どうやら、自分がネガティブな気持ちになると、霊たちはこちらに入りやすくなるようだ。
その時、聞き慣れた音が聞こえてきた。怨嗟の声が渦巻くなかで、それを縫うように、はっきりとその音だけが耳の奥に響く。
「ぽ、ぽ、ぽ」
(八尺様!)
かつては恐ろしく思えたその声が、今この状況に限っては、神からの啓示のように思えた。
すぐさまその音の方へ顔を向ける。
視線の先、そこは道などではなく、竹藪となっていた。
八尺様が出している音がはっきりとその場所から聞こえたわけではない。尊はおおよその方向を向いただけにすぎない。
しかし、その竹藪こそが目指すべき場所だとはっきり理解できた。
夢の中でしか見たことがない、白いワンピースと帽子を被った姿。黒く長い髪の毛。なによりその身長の高さ。
八尺様が、竹藪を指さしている。
何の迷いもなく、尊は一心にそこへ走った。
不思議と、さっきまで聞こえていた声も聞こえない。縋りつかれ、重たかった脚も軽じる。
ただ、自分の「はっ、はっ」という息遣いだけが耳に入る。
わずか数秒のことだが、この直線こそが、ここに来たゴール――最終直線のようだった。
(やっと終わる!やっと!)
自然と笑みがこぼれる。
竹藪が眼前に迫ると、尊は力強く地面を蹴り、その中へと飛び込んでいった。
「え?」
ガサッという音と、竹藪が身体に当たる感触を経ると、すぐに開けた場所に出た。
しかし、目の前には竹藪どころか何もなく、ただ広々とした空が広がっているだけであった。
直後、感じたことのない浮遊感が尊を襲う。
思い切り踏み出した足。それが今は空中を空しく蹴るだけの状態になっていた。
下を見ると、地面は目が眩むほどの位置にある。このまま落下すれば、まず間違いなく死ぬ。
(どうして……!)
声にならない声を上げ、尊は先ほど見た八尺様を思い出す。
竹藪に向かって走り、指さす八尺様の隣を横切る時、その顔を尊は視界の隅に捉えていた。
八尺様は笑っていた。
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