第39話


牧田と野口の作業は、気が遠くなるような地道なものとなった。




細かい数字を見て、そのなかで不自然なところを計算して確認していく。


野口は初日に監査部から数字の見方のレクチャーを受けたので、それを牧田に伝える。




二人とも経理畑の経験がなく、慣れない作業に手こずった。




モニターには、数字がぎっしり。


数字とにらめっこし、早三回目の徹夜。




昼間は通常業務をこなし、夕方から神奈川支社に再出社して、そのまま朝まで調査する。




早朝に一度家に帰り、シャワーを浴びてから仮眠を1時間とり、昼の仕事に戻る。




もちろん夜中に途中で2時間程度仮眠している。


しかし、疲労と部屋の乾燥で、朝方近くには牧田の化粧はすでにヨレヨレになっていた。


曰く、こんなにすっぴんに近い、それも酷い化粧で、人に顔を晒したことはない。




「絶対にこっち見ないでよ」


「・・・もう化粧とればいいんじゃねーの。


塗ってるから崩れるんだろ」


「はぁ?


眉毛がなくなるのよ、私に死ねっって言ってるの?」


「・・・・・お前、まだ生きてるぞ」


「見るなって言ってるでしょ!」


「痛って、ハイヒールで蹴るな!」




二人とも、眼精疲労が限界だった。




朦朧とし、血走った目で、お互い寝落ちしそうになったとき無駄口を叩く。




「お前、なんでそんなに頑張るの?」


野口は不思議だった。


牧田のようなビジネスライクな女が、プライベートの時間を犠牲にして上司を救おうとしていることが。




「副社長は、新人時代にお世話になったのよ。


新人で初めて担当した役員が、セクハラするやつでね。隙あれば二人きりになろうとするような。ケツ触ってくるのよ。


その時は健気な可愛い新人時代で誰にも言えなくてね。


そんな時、まだ秘書課の課長だった松坂さんが、その役員と会わないように采配してくれてね。助かったわ。」




誰にも話したことのない昔話だが、疲労で思考停止した今、口からスルスルと言葉が漏れる。




「それから、松坂さんとは仲良くなって、奥さまもとても面倒見の良い方で家で何度もご飯をごちそうになっているのよ」




なるほど、それなら失脚させたくないだろうな、と、ぼーっとした頭で納得する。




4日目の夜、やっと明らかな不正を見つけることが出来た。


数字の解離が大きく、会計に慣れている人が見れば一目瞭然だった。




ここからは、反撃だ。




不正はすぐに会社の幹部に報告された。


野口には、他にも反撃のカードが揃ったという情報が来ている。


奈津美達が何かしていたようだ。


詳細は明らかにされていないが、いつも通りグレーなことをしたのだろう。




松坂副社長を救いたい幹部が、大株主の上位数名への根回しを早急にした。


役員の交替の可能性を、内密にそれとなく伝える。


株主にとっては役員の北野はどうでも良い人物だったらしく、反対はなかった。




そして、牧田は今銀座のバーにいる。


北野に雇われている悪徳弁護士と二人きり。




悪徳弁護士はでっぷりしたお腹の中年で、仕立ての良いグレーのスーツを、シワシワにして下品に着こなしている。




「北野さんのことで話があるというから、どんな人が来るかと思えば、こんな美人と会えるなんてね」




「先生、助けてくださいな」


牧田は、北野の秘書の振りをして、訴えられる可能性が高いこと、警察にマークされていることから、助けて欲しいと嘘をつく。


もちろん、この弁護士は裏切ると予想して。


弁護士のプクプクして長い指毛のある手の甲に、ネイルの効いた人指し指と中指で撫でる。




バーという空間は、場所に酔い、気を大きくする。それは、日頃抑圧している人の方が顕著に隙を産む。




膝を擦り当てて、甘い声でおねだりすると、バーコードの頭には汗がじんわり浮かぶ。


牧田は、自分の知り合いの弁護士に頼むため、北野から手を引くようにお願いする。




しかし、この悪徳弁護士、さすがに警戒心は一級品だった。


悪いことをしてきた人生の賜物だ。


家族もおらず、不正もなく、何も弱みがなかったからこそ、牧田がこうしてハニートラップをしかけている。




悪徳弁護士のくせに、「クライアンントを裏切れない」と一度は言ってきた。




が。


そこは、牧田が抱きついて「ね、先生お願い、個室でお話したい」と、暗に意味を含ませて囁くと、「じゃあ、ベッドの中でなら」と落ちた。




(・・久々に脱ぐか)




そして、ホテルに着いた時、メールが鳴る。


松坂副社長から、今すぐ来て欲しい案件がある、時間がないから急げ、という内容だ。




牧田は悩む、せっかく上手くいきそうなのに、と。


しかし、優先順位は決まりきっている。




「ごめんなさい、すぐに帰らないと。


仕事の呼び出しだわ。」




一度白けたら、二度のチャンスはないはずだ。


せめてもの置き土産として、弁護士の頬にキスをして、一人引き返した。




夜分に会社に戻ると松坂が待っていた。


急ぎの案件は、なんてことない、明日の食事会の打ち合わせだった。


いつも全てを任せてくれるのにこんなことで呼び出しは珍しいな、と思ったが、辞任を考えているのかも、とも勝手に想像でき、切ない気持ちになった。




3日後、例の悪徳弁護士からのメールで、手を引いたことを牧田は知る。


食事の誘いと共に。


もちろん丁重にお断りしたが、弁護士としてはやり手である。縁が切れない程度のメールを返した。




松坂副社長を陥れた北野の過去の犯罪は、速やかにマスコミにリークされ、週刊誌に掲載された。




予定どおり株主達から退任要求が出て、北野の脱却により、松坂副社長の人事はうやむやになることで残留が決定した。




これで、鶴安商事に平穏な日々が戻った。

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