さよならシリウス
クリオネ武史
さよならシリウス
1
「私の将来の夢は、世界でいちばんのアイドルになることです」
何枚にも連なって書き込まれた作文用紙を広げ、大きな声でそう話した。小学五年生の幼い身体を包み込むかのように広い教室。周りの視線など気にならなかった。胸を張って堂々と憧れを口にしたあの日を、私は未だに覚えている。
先生に「舞ちゃんなら大人気のアイドルに絶対なれるよ!」と拍手され、照れくさくも嬉しくもあったあの日。
呪いのように、私の脳裏から離れてくれない。
2
人々と電光の熱気に満ちた渋谷。その地下にある人目につかない小さなライブハウス。埃っぽいステージの空気を吸いながら、私は今日も歌って踊る。
黄色。私に与えられた特別な色のリボンが、跳ねるたびに胸元で揺れる。この衣装が、私を非日常な存在に着飾ってくれるのだ。取って付けたように目立つ安っぽいフリルさえも、この身に纏えば愛おしい。
私は、アイドルだ。ステージの光とファンの歓声を浴びれば、私は私ではなくなり、十舞酔(つなし まよい)というアイドルになれる。
「みんな! 今日も私たちおむしゅびのライブに来てくれてありがとう!」
そう声を出したのは、私が所属する六人組女性アイドルグループ『おむしゅび』のセンター・梅星ゆめちゃんだった。彼女の言葉に応えるように、ファンはペンライトを旗の如く掲げる。その光の波に、黄色は少ないように感じた。
私はステージの端っこで、一生懸命にファンのみんなに手を振った。目立たない私ができる最大限のアピールだった。頭の中では、今日〆切の課題まだ終わってないなぁとか、今月の生活費大丈夫かなぁとか、そんなことばかりだったのだけれど。
煌々と私たちを注目させる照明が目に痛かった。
3
今日もまた無事にライブが終わり、外に出る。もう夜に呑まれて薄闇が広がっていた。さっきまでの会場内での熱気が嘘かのように、冷たい風が吹いていた。努力の代償として流れた汗とレッスンで痛めた足首が風に冷やされる瞬間は、心地良い。
大学の課題が未だ終わっていないことを再び思い出し、億劫になる。毎週土日は丸一日ライブで予定が埋もれてしまうのだ。それだけ活動に時間を費やしても中学生のお小遣い程度しか給料が出ないが、それでも満足だった。アイドルをしている自分が誇らしくて、愛おしくて、大好きだから。「山下舞」という名前を捨てて生きていくことを、私は覚悟してここまで来たから。
悲しいことに、私はお世辞にも人気メンバーとは言えない。でも、そんな私にも少なからずファンはいる。握手会やチェキ会であたたかい言葉をかけてもらうたびに、アイドルである自分を肯定された気分になった。私が幼い頃アイドルからもらった元気を、今度は私がみんなに与えられる存在になっている。それが、生きがいだ。
「ねぇ、舞酔ちゃん。今日はもう帰る?」
そのふわふわとした声に呼び止められ、振り返る。グループ内で三番目に人気のメンバー・おか花ちゃんだった。私にとっては、彼女は仲の良い唯一のメンバーだ。
「うん。課題が終わってないから帰るところだよ」
「じゃあ駅まで一緒に歩かない? 話したいこともあって……」
「もちろん! 一緒に帰ろ!」
私が快く頷くと、彼女はガラス玉みたいに輝く大きな目を細めて笑ってくれた。ミルクティー色の髪に、雪が降ったみたいに白い肌。可愛いの一言に尽きる容姿だ。おか花ちゃんの小さな歩幅に合わせて、夜の渋谷をゆったりと歩く。もう夜だと言うのに、街中は色とりどりの光を放っていた。それは昼間の太陽光よりも眩しく、熱く感じる。
「そういえばさ。タラ子ちゃん、先週のレッスン来なかったじゃん? あれ、彼氏とデートに行くって理由でサボったんだって。アイドルなのに彼氏作るなんて信じられない」
「そうらしいねぇ。私は昨日、しゃけぴーがファンの人とホテル街に消えていくところを見ちゃったよ。見間違いであってほしいけど」
「若芽ちゃんは……運営さんにバレて注意されたのに、まだパパ活辞めてないんだって」
タラ子ちゃん、しゃけぴー、若芽ちゃん。『おむしゅび』のメンバーだ。みんな、裏ではアイドルとしては駄目なことをしている。駄目なことをしていても、彼女たちはファンの心を掴んで離さない。おかしな話だ。ファンに見せる表の部分だけ、ピカピカでキラキラ。本物の金じゃなくても、金メッキの加工が施されているならば、見た目が金ならば、それで満足なのだろうか。
「はぁ。なんでうちのメンバーってみんなプロ意識に欠けるんだろう」
「……プロじゃないからかもしれないね」
おか花ちゃんが消え入りそうな声でそう呟いた。
「地下でも地上でも、アイドルである事実は変わらないのに。そんな子たちが大人気アイドルになれるわけなくない? お遊びなら、生半可な気持ちでやっているなら、アイドル辞めちゃえば良いのに。本気でやっている人に失礼だよ」
強気な口調でそう吐いたが、正直これは自分に言い聞かせるための都合の良い言葉でしかなかった。そんな子たちが大人気アイドルになれるわけない、というよりも、なってほしくない、という醜い願望に近かった。真面目にアイドルをやっている私ならいつか報われるって、私は間違っていないって、正当化するための言葉だった。
「……ね、そうだよね。アイドルなんか……さっさと辞めちゃえば良いのに」
おか花ちゃんが珍しく「アイドルなんか」って、少し否定的な言い方をした。アイドルへの想いは私以上にあるような子だ。何かしっくりこない感覚がした。
「ねぇ、そういえばおか花ちゃんの話したいことって何?」
「……あー、それねぇ。ごめん、今日はやっぱり良いや。ホント、すごいくだらないことだから気にしないで!」
「そう言われると逆に気になっちゃうじゃん」
「ホントにどうでもいい話なんだって! ほら、そんなことよりさ、見てよ。あの広告。舞酔ちゃんの大好きな愛美ちゃんだよ!」
おか花ちゃんがそう言って指差した先に目をやると、渋谷駅前の大きな広告看板に、愛美ちゃんが写っていた。来週発売される新曲のCDの宣伝だった。
愛美ちゃんは、私がアイドルに憧れるキッカケとなった張本人である。小学生の頃、テレビで観た愛美ちゃんの太陽みたいな笑顔と可愛らしいパフォーマンスに心を奪われて、私はアイドルを志すようになったのだ。彼女に少しでも近づくために、彼女と肩を並べるために、私はアイドルの世界を生きている。
駅に着くと、おか花ちゃんとお別れだ。私は東横線に乗り、神奈川の辺鄙な土地へ帰る。安い家賃で女子大生が一人暮らし。夢見た明るい生活は、今の私にはない。
「舞酔ちゃん、じゃあね」
手を振って笑うおか花ちゃんの声色が細かに震えている気がした。普段よりも少し悄悄とした様子に違和感や心配は覚えたものの、その日は早く帰って課題を終わらせることしか考えられなくて、自分のことで手一杯で、見て見ぬふりをしてしまった。
それが、いけなかったのかもしれない。
おか花ちゃんがアイドルを辞めるということを知ったのは、その一週間後だった。
4
おか花ちゃんが、グループから脱退する。それだけではなく、アイドルの世界からも、いなくなる。そこまでは、運営スタッフさんから説明された。全ての理由は本人の口から聞かなければいけないと、私は思った。
「おか花ちゃん、どうして辞めるの?」
声の主は私ではなく、梅星ゆめちゃんだった。
彼女の卒業ライブは二週間後。あまりにも唐突な脱退の発表と卒業ライブで、メンバーもファンも動揺を隠せなかった。全てが急である。なるべく早く辞めたいという強い意志を感じざるを得なかった。
卒業ライブまでは、普段通りおか花ちゃんもレッスンに参加する。今日もそうだ。おか花ちゃんも、練習着を着てレッスン室へと来てくれていた。
気まずい雰囲気はあったが、ゆめちゃんの直球すぎる一言でむしろ息がしやすくなった気もする。引退理由など、みんなが聞きたかったことだからだ。
「あはは、よくある理由だよ」
おか花ちゃんはどこか吹っ切れたような表情で、でも呆れたような態度でもあって。温厚で優しくて仲間想いな彼女にしては、少し投げやりにも感じた。
「……モラトリアムが終わって、現実を見る時が来たの」
おか花ちゃんは詳しく話してくれた。理由は複数あった。大学との両立が難しいこと。時間と金銭に余裕がないこと。親に活動を反対されたこと。明るい未来が見えないこと。
人気メンバーのおか花ちゃんでさえも引退という選択をしてしまう、世の厳しさを痛感してしまった。それと同時に、ギクリともした。他人事とは冗談でも思えなかったのだ。
私たちはただ、誰かにとっての夢に、希望に、生きがいになりたいだけなのだ。夢を追いかけているだけなのに、その夢が我が身を苦しませ、現実へと引き戻す。こんな恐ろしいことがあって良いのだろうか?
ただ、おか花ちゃん本人が思ったよりも涼しそうな顔をしているのが、納得いかなかった。あれだけアイドルを好きだったのに。誰よりもアイドルとしての意識が強かったのに。トップアイドルになることが夢だと、大きな瞳を星のように輝かせていたのに。
おか花ちゃんの胸の奥深くに触れたかったが、私がそれを知ってはいけないような気がして、語ってくれた以上の詮索はしなかった。
ゆめちゃんは、おか花ちゃんの前では強気な姿勢だったが、彼女がグループを抜けることに関しては残念そうだった。少なくとも、私にはそう見えた。
それ以外のメンバーは、おか花ちゃんの脱退など遠い過去のように、自分の日常に戻っている。彼氏とお寿司屋さんに行くとか、イケメンのファンはすぐ繋がれて楽だとか、お茶しただけで三万円もらえるとか、くだらない話をしていた。なぜ、おか花ちゃんがアイドルを辞めて、この子たちがアイドルを名乗っているのだろうか。
帰り道でも気が晴れなかった。つま先から百足が這い上がってきて、首を伝って、頭の中に侵入して、その無数の細い足に脳みそを撫でまわされているようだった。焦りや不安が霧のように目の前にかかって、視界を遮る。ああ、こんな日はさっさと寝てしまった方が良い。
「ただいま……」
誰もいない1Kの我が家に帰宅を告げる。しっかりと戸締りをしてから電気を点け、靴下を床に脱ぎ散らかす。疲れのせいか、小さなあくびが出てしまった。着替える間もなくベッドに飛び込むと、柔らかな布団に重い体が沈んでいく。
よいしょ、と体勢を変えてからスマホを確認する。友達はいないから、メッセージの通知は企業の公式アカウントからだけ。田んぼだらけのド田舎から上京してきて、アイドル活動に時間を費やしている私に、都会で友達なんかできるわけがなかったのだ。
変に真面目だった私は、高校までは親の言う通りに勉学に励んだ。そのおかげで都内のそこそこ有名な女子大に通えている今の私がいるのだが、アイドル活動に熱中しすぎているせいで、成績は芳しくない。
「やば、単位落としてる」
今日で二学期の成績が出た。大学のポータルサイトにアクセスして成績を確認したところ、いくつか単位を落としていた。どれも必修科目ではなかったのが不幸中の幸いだ。ただ、学費を出してくれている親への罪悪感や、大学生活をまともに送れていない自分への嫌悪感は拭えなかった。そういえば、口座残高も数千円だったな。また性懲りもなく親に仕送りを頼む羽目になるのか。親不孝である。情けないものだ。
「私、このままで良いのかな」
その日からおか花ちゃんの卒業ライブが終わるまでの二週間は、あっという間だった。私は、いつもなら余裕で踊れる振り付けを間違えて、ソロパートの歌詞を忘れて、笑顔を作るのが下手になっていた。パフォーマンスに支障が出ている理由は嫌でも理解している。活動に影響が及ぶほど、私は焦っているのだと、腹が立つほどに自覚している。なのにどうしようもできなくて、余計に苦しかった。
おか花ちゃんの卒業ライブの記憶はあまりない。お疲れ様って声をかけた気がするだけ。卒業後に連絡は入れなかった。幸か不幸か、向こうから連絡が来ることもなかった。
5
おか花ちゃんが『おむしゅび』を脱退してから一カ月が経った。グループ内では元々おか花ちゃんとしか親しくなかった私は、ずっと肩身が狭かった。間違いなく私は『おむしゅび』というアイドルグループに所属しているし、大学にも通えているし、帰る家もある。それなのに、世界の終末のような絶望感と虚無感が私の神経系を揺さぶって離さないのだ。
最近は夢をよく見る。奇怪なモンスターが襲ってくる夢。夢の中で殺される弱々しい私は、必ずアイドルの格好をしていた。
おか花ちゃんが脱退してから、ライブに足を運ぶファンの数が目に見えて減った……にも関わらず、タラ子ちゃんもしゃけぴーも若芽ちゃんも、相変わらずの素行だ。彼女たちに焦りはないのだろうかと、疑問に思う日々である。
このままではきっと『おむしゅび』は消えてしまう。今はまだ彼女たちの金メッキはピカピカに輝いているが、遅かれ早かれ、いつかそのメッキは朽廃して剥がれ落ちてくるだろう。そうなった時に悲しむファンの人たちを、私は見たくない。
このままで良いわけがないのだ。このままじゃダメだ。私は私が十舞酔でいられるこのグループが好きだ。このグループを愛してくれるファンのみんなが大好きだ。
今までの軌跡なんてなかったかのように、あっけなく消えていくアイドルグループは目も当てられないほどある。アイドル戦国時代、なんてよく言われているが、言い得て妙だと私は思う。どれもが滑稽なほどに薄命なのだ。
『おむしゅび』をここで終わらせたくない。守りたい。私は大切な居場所を守るために、この未熟な手を伸ばすのだ。
6
「ねぇ、みんな。話があるんだけど……」
日曜日の午後八時。ライブ終了後の楽屋。薄汚れたスツールと、動作音の目立つ小型扇風機。陰鬱とした湿っぽい空気が粘りつくように私たちを取り巻く。さっきまでステージ上でキラキラを振りまいていた光源たるアイドルの姿はどこにもない。
「え、急にどうしたのツナマヨ~」
「深刻そうな顔じゃん。何? ツナマヨも脱退したいとか言い出さないでよねぇ」
手入れのされていない曇った鏡で化粧直しをするタラ子ちゃんとしゃけぴーが、そう言葉を返してきた。ツナマヨは私のアダ名だ。真剣に話を聞こうという態度ではない。
「ゆめちゃんいないけど良いの? さっきコンビニに行くって言って出かけちゃったよ。すぐ帰ってくると思うけど。ゆめちゃん戻ってくるまで待つ?」
若芽ちゃんはそう言ってくれたが、ゆめちゃんは不在でも良いだろう。むしろ、ゆめちゃんのような完璧で人気のアイドルに私の本音を聞かれることの方が恥ずかしい。
「ううん、みんなだけに聞いてもらえれば良いや」
勇気を出すって、こんなにも難しいことだっけ。けれど、私が声をあげないと何も変わらないと思う。良い方に転ぶか、悪い方に転ぶか。分からない。分からないが、想いを吐き出さないと、私は前を向いて人生を歩めない。
静かに太い息を吸って、小さく吐く。想いを伝えよう、と覚悟を決めた瞬間に、防波堤が壊れてしまったかのように、言葉がこぼれ出てしまった。
「ねぇ、みんな。最近……アイドルとしてのプロ意識が、低いんじゃないかな。恋愛禁止のグループなのに彼氏いるって普通にルール違反だし、ファンの人との不貞行為なんて運営にバレたらおしまいだよ。パパ活だって次またバレたらグループ解散とかになるかもしれないよ? ファンのみんなが悲しむ顔なんて、見たくないでしょ! お願い、みんなもっと危機感を持って。私たちはアイドルなんだよ。堂々とアイドルでいようよ。私はもっと真剣に活動したい。みんなともっと大きくなりたい。ねぇ、私たちこのままじゃ、トップアイドルになんてなれないよ!」
気づけば私は泣いていた。頭に小石を何発も投げられたみたいな感覚だった。いわゆる酸欠状態なのかもしれない。視界はまるで炎天下の陽炎みたいに揺れていて、ここが現実であることに違和感を覚えてしまうほどだった。
少しの沈黙。はぁ、とため息がひとつ、後にふたつ、聞こえた。
「……あのさぁ、ツナマヨ。確かにうちらはアイドルだよ? アイドルだけど、それ以前に一人の人間なわけ。恋愛したいし、性欲だってある。それの何がいけないわけ?」
「しゃけぴーに全同意。そもそもプロ意識って何? うちら、ただの地下アイドルだよ。陽の光を浴びない存在なの。プロじゃないの。したくなくても、アイドルだけじゃ生活できないからパパ活してるの。綺麗事だけ並べないでよ」
「そもそもうちら、アイドルは趣味でやってるみたいなところあるからね。トップアイドル? むりむり! 笑わせないでよ。みーんな、遊びでやってるの。オタクが悲しむとか知ったこっちゃないよ。なんか必死すぎるんだよね。ツナマヨも、いなくなったおか花ちゃんも。温度差を感じるっていうか……ぶっちゃけ浮いてるし、引くわ」
呼吸が浅くなっていくのを感じる。思考がホワイトアウトしているせいで、目から出るそれを止ませることができなかった。
今、私の目の前にいる者たちが「アイドル」だと考えると、何もかもが馬鹿らしくなってしまった。私が憧れてきたアイドル像とかけ離れたメンバーと、この先もやっていけるわけがない。こんな向上心のないグループにいても、私はトップアイドルにはなれない。私はただ、世界でいちばんのアイドルになりたい、それだけなのに。
あれ、私は何のために、今ここにいるんだっけ。
「え、何、どうしたの、この空気」
声のした方へ目をやると、そこにはゆめちゃんがいた。コンビニから帰ってきたのだろう。ゆめちゃんは驚いた表情をしつつも、私の醜い泣き顔で何かを察した様子だった。
「……ごめんなさい。私、おむしゅび抜けます」
考えるよりも先に口がそう動いていた。私はグループを守りたかっただけだ。だが、死んだ卵を温めていても意味がないと、気づいてしまった。彼女たちを紛れもないアイドルと呼称するのなら、私はここにはいられない。
脱退宣言はその場の勢い半分、本気半分だったが、駆けつけた運営スタッフにも事情を話し、正式に脱退することがその場ですぐに決まった。誰も引き止めてはくれなかった。ゆめちゃんが少しだけ悲しそうな顔をしているように見えたのが嬉しかったけれど、私が都合良くゆめちゃんの表情を解釈しただけかもしれないから、やっぱり私は自分本位なのだ。
7
同じ日の夜。やるせなさに疲弊した私は、ただスマホの画面を指でなぞることしかできなかった。自宅だというのに、居心地が悪くて仕方ない。早く別のアイドルグループに所属したいと考えても、実現性が低いように感じて、やる気の欠片も出なかった。
ふと、SNSのトレンドに「愛美ちゃん」の文字を見つける。今の自分にとっては、もはや愛美ちゃんが唯一の心の拠り所だ。しかし、SNS上の空気は異様であった。
それもそのはずだった。
【スクープ! 大人気アイドル・愛美、番組Pとラブホで淫らな行為! 隠れてファンへの暴言も? キラキラした愛美の真っ黒すぎる裏の顔!】
さながら野次馬だらけの火災現場である。愛美ちゃんは、週刊誌に撮られて大炎上していた。人気番組のプロデューサーとラブホテルへ行き、枕営業をしたらしい。それだけでなくファンの悪口も常日頃から吐き出している、といった内容だった。
――なるほど。これが現実だ。これこそが、私が夢を言い訳にして目を逸らしてきた現実だ。ずっと憧れで心の支えだったアイドルまでもが醜かったのだ。アイドルの世界とは、悪辣で非道で汚穢なるものなのだ。本気で活動している者が馬鹿を見る、そんな世界。
私はもう、普通の女の子に戻って良いのかもしれない。大学とバイトを頑張って、友達と青春を楽しんで、良い企業に就職して、誰かと付き合って、結婚して、子どもを作って。そういう普通の幸せを手にしても、良いのかもしれない。いや、そもそも、私は最初から普通の女の子だった。素人のくせに一丁前にプロ意識を語る、偉そうな無名のアイドル。それが私だ。生まれた時から現在までずっと、特別な女の子なんかでは、なかったのだ。
全てが潮時だ。私はもう、ただの「山下舞」として人生を歩んでいく。
8
私が脱退を決めたあの日から、一カ月が経った。時の流れはあっという間で、気がつけば十舞酔の『おむしゅび』卒業ライブ当日である。同時に、私にとってはアイドルという存在への執着をも捨てる日で、わずかな緊張が四肢を束縛していた。
「……十舞酔。愛称・ツナマヨ。この名前とも、今日でお別れかぁ」
ステージの袖で、ぽつりと呟いた。それがゆめちゃんに聞こえていたようで「アンタがいないと寂しくなるわね」と言ってくれた。あの強気なゆめちゃんが素直に寂しいって言葉にしてきたのがおかしくって、私は思わず笑ってしまった。
「ふふ、ありがとう。他のメンバーとは気まずいまま今日を迎えちゃったけど、尊敬しているゆめちゃんにそう言ってもらえたなら、十舞酔は幸せです」
これが私のアイドルとしての最期の舞台だ。これが終われば、私はもう二度とアイドルを名乗ることはない。今まで培ってきた全てをぶつけて、最高の晴れ舞台にしよう。
「では、行ってきます!」
そう言ってステージに踏み込むと、決して多いとは言えない数のお客さんが、黄色のペンライトを光らせてくれていた。熱を帯びたスポットライトが、いつにも増して目に沁みた。黄色のバルーンや造花で飾られた狭苦しいステージは、チープなくせに私とファンのみんなを一体化してくれるから、嫌いじゃない。
卒業ライブのためだけに作られた衣装のスカートが風を含んで花びらみたいに舞い踊る。マイクを握る左手、ファンサに費やす右手、慣れないヒールに戸惑う両足、汗で濡れた額、自然といつにも増して上がってしまう口角。ファンのみんなの顔や声を目の当たりにしただけで、水のベールが眼界をぼやかしてきちゃう。大好きが止まらない。
自信を持って言おう。今の瞬間だけは、私は特別なアイドルに違いない!
「舞酔ちゃんの笑顔が僕にとっての日々の原動力になっていたよ。元気をくれてありがとう! これからも大好きです!」
「舞酔ちゃん、本当にアイドル辞めちゃうの? あ~、ダメだ! 泣かないって決めてたのに、やっぱり寂しいなぁ……私、絶対に舞酔ちゃんのこと一生好きだもん」
「ツナマヨが決めた道なら応援するのが真のファンだよな! アイドル辞めても俺たちにとっては永遠のアイドルだ!」
ライブ終了後のチェキ会で、ファンのみんながそんな言葉をかけてくれた。春の陽気なお日様みたいな、軽いのに心強い羽毛布団みたいな、お母さんと手を繋いだ時の体温みたいな。そんなぽかぽかした温かい気持ちで胸がいっぱいになった。
「ねぇ、舞酔ちゃん。私もチェキ一枚撮ってほしいな」
その声の主を私は思わず二度見して、変な声を出してしまった。
「ほえっ、お、おか花ちゃん! 来てくれたの!」
「久しぶりだね。全然連絡できなくて、ごめんね。舞酔ちゃんがアイドル辞めるって知った時、すごく驚いた。連絡しようか迷ったけど、せっかくなら卒業ライブの日にお話したいと思ったから……」
おか花ちゃんは、今は就活に向けて頑張っていること、バイト先で好きな人ができたこと、アイドルを辞めたのは後悔していないことを話してくれた。心の底から今を謳歌しているといった清々しい様子だった。
「舞酔ちゃん、今度はただの女子大生二人として、ご飯でも食べに行こうよ」
アイドルを辞めても相変わらず可愛い容姿のおか花ちゃんは、そんなことを言って帰って行った。もちろん、二人でハートを作った可愛いポーズのチェキを撮影してから。
私は間違っていなかった。少しの間でも、正真正銘アイドルとしてファンのみんなを幸せにできていたのだから。それだけで、今日までアイドルをやってきて良かったと思える。同時に、私のアイドルとしての役目は、ここで完全に終えられたとも思う。未練も遺恨もない。胸の中にあるのは確かな達成感と、小学五年生の頃から今日までの自分への感謝の気持ちだけだった。
「アイドル、最高に楽しかったです! みんな今までありがとう! 大好きだ~!」
月並みな言葉だが十分だろう。私が十舞酔として叫ぶ最後の一言としては、これくらいが相応しいに違いない。透明なしずくが湧いてくる情けなさすらも、心地良かったのだ。
9
小さな部屋で、にぎやかな音をこぼしている。『おむしゅび』の代表曲の音源だ。無機質な冷たいクローゼットに、ステージ衣装をそっとしまう。薄明の光線がほんの少し射し込むくすんだ部屋の中。その煌びやかな衣装の黄色だけが、ひときわ輝きを放っていた。冬空に浮かぶシリウスのように。
さよならシリウス クリオネ武史 @minamoto0720
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