手からこぼれる打ち上げ花火②

 翌週の土曜日、私は淵野辺駅でみんなの到着を待っていた。

 駅の階段を下りて、右手に見えた街路樹の下で待つことにした。相模原の花火大会

は神奈川県で有数の大会らしく、私の周りには浴衣姿の人々が大勢バスを待っていた。

 今日の花火大会は私が立案したため、集合時間や場所、そして会場までのルートや

利用交通機関など、全て私が調べて参加者に通知することになった。

 幸いなことに、食べ物は拓さんと俊さんが猫とまたたびで作ってきてくれる。拓さ

んのことだ、恐らくワインも数本持ってくるのだろう。藤木さんが飲み足りないと言

わないように、今日は私もワインを一本持ってきていた。

 巾着からスマートフォンを取り出して、時間を確認する。画面には一六時五○分と

表示されていた。一七時過ぎのバスに乗りたいから、できれば時間通りにみんな着き

ますようにと心の中で願う。

 待ち合わせ時刻ちょうどだった。駅の階段から見慣れた顔が目に飛び込んでくる。

浴衣姿の藤木さんが笑顔で手を振ったので、私も手を振り返した。

「お待たせ~、待った?」

「いえ、先ほど来たばかりですから」

 藤木さんだけでなく雪奈さんも浴衣で、拓さんと俊さんも浴衣姿だった。思わず彼

女の浴衣に目が止まる。白い生地に淡い水色や紺色の朝顔が咲き乱れている浴衣は、

お団子ヘアの彼女の雰囲気にとても馴染んでいた。

 私の様子を不思議に思ったのか、藤木さんは言う。

「どないしたん?」

「あっ、いえ。藤木さんの浴衣が素敵だなと思って」

「何言うとんねん」

 彼女は嬉しそうに私の腕を叩いた。

 思ったよりも強くつっこまれて、少し腕が痛い。腕を摩りながら、感じた違和感を

口にする。

「あれっ、穂乃香さんは?」

「あ~、彼女な風邪こじらせてな、今日来れん言うとたわ」

「そうですか」

「残念やけど、風邪じゃしゃーないしな。揃たし、行こか」

「はい」

 私たちは花火大会会場の方面に向かうバス停に並ぶ。花火大会の開始時刻まで二時

間ほどあるにも関わらず、バス停には長い列ができていて、一巡目でバスに乗れるか

判断がつきにくい微妙な位置だった。

 空はまだ明るかったけど、灰桜色が空を染め始め夕暮れの近づきを表し初めていた。そんな空の色に呼応するかのように、どこかの木にとまって鳴いているヒグラシの音は物悲しげに聞こえた。微かに変わりゆく季節の気配を探すように佇んでいるのは私だけかのように、駅周辺の人々はこれから始まる花火への期待感で高揚するように会話を楽しんでいるように見えた。

 突如、私の肩に誰かの手が乗った。

「なんや、感傷に浸っとるんか。どないした?」

 藤木さんだった。

 私は首を振る。

「なんでもありませんよ。ただ、夏が終わる前に皆で花火大会に来れてよかったな、

と思ってただけです」

 藤木さんは肩に置いた手を離し、私の首に腕を回して囁く。

「ほんまは、俊さんと二人で来れたらよかったのにな」

 彼女のほほ笑みは、私を慰めているように見えた。

「穂乃香さんが来れんから、うちらを気にせず二人で消えても構わへんで」

 そう耳打ちして、彼女はへっへっへと笑った。

 バスが到着する。バスはみるみると浴衣姿の人で埋まっていく。私たちは辛うじて

一巡目に乗ることができ、私は胸を撫で下ろした。

 三○分ほどバスに揺られただろうか、目的の停留所にバスが止まると、全乗客が一

気に降りてバスは運転手だけになった。役目を終えて走り去るバスは、なんだか満足

げな表情をしていたように見えた。

 バス停からは人の流れに身を委ねるように、同じ方向に向かって歩いた。花火大会

の会場まで人の流れが続いているだろうから、途中で道に迷う心配は皆無だった。

 花火大会の会場である河川敷に着くと、運よく五人が座れるスペースが目に入った

ので、見つけた場所まで早歩きで向かいシートを敷いた。そして、私は拓さんたちに

場所を知らせるために、大きく右手を振った。

「拓さーん、ここでーす」

 四人とも既に大部分の場所が埋まっている状況を目にしたためか、確保した場所に

歩いてくる時の表情は安堵しているように見えた。

「雫ちゃん、ありがとう」

 拓さんは荷物を置きながら、私に言った。

 本来なら数時間前から私が場所取りをしておくべきなのだが、しなくても適当な場

所を見つけられるやろ、と藤木さんに止められた。単なる彼女のポジティブさから出

た言葉ではなく、暑い中待って体調を崩さないようにと私への配慮から出た言葉だと

感じている。

 俊さんは拓さんとお昼に作ったおつまみが入ったタッパーをエコバッグから取り出

し、次々と蓋を開け始めた。その横で雪奈さんがプラスチックのワイングラスを準備

し、藤木さんはワインボトルを開け始めた。

 以前、藤木さんから拓さんたちはホームパーティーをよく開いていたと聞いた。こ

の連携は、長年やってきたホームパーティーで培われた連携なのだろう。彼らの中に

私を加えてくれたことに喜びを覚え、お腹のあたりがくすぐったくなった。

 待て、と言われている犬のように藤木さんはそわそわしながら「飲もう、飲もう」

と言い、ワインを注いだグラスを皆に配る。

「じゃあ雫ちゃん、お願い」

「へっ」

「今日の主催者やろ」

「じゃあ」

 一瞬空に視線を向ける。だけど、良い掛け声は何も思い浮かばなかった。

「今日は猫とまたたびをお休みにしてまで、私のわがままに付き合ってくれてありが

とうございます。花火見ながら、拓さんと俊さんの料理を楽しみましょう。それでは

乾杯」

 プラスチックのグラスだから、私たちはグラスを軽く当てて乾杯をした。温度管理

されたレストランのワインも美味しいけど、お店のテラスなんか比較にならないほど

解放感溢れる場所で口にしたワインは、普段とは違う景色を私に見せてくれた。その

味わいを生み出したのはワインそのものだけでなく、茜色に染まりゆく黄昏時の空、

河川敷の香りを纏った風、花火を待つ人々の熱気なのかもしれない。

 私と同じ気分なのだろうか、雪奈さんはうっとりとした表情でワインを見つめてい

た。

「雪奈さんと一緒に食事をするのは初めてですね」

「そうだね。雫ちゃん、いつも猫とまたたびに来てくれてありがとう」

 拓さんを手伝っているだけの立場、営利目的でお店を開けているわけでもないのに、ありがとうと笑顔で言う彼女を率直に素敵だと思った。

 きっと優しさの数だけ、女性の表情が生まれるんだ。

 その後、最初の爆音が弾けるまで雪奈さんと話し続けた。それはまるで地元に帰省

して数年ぶりに会った友達と、夜中まで話しに夢中になるような盛り上がりだった。


 歓声と共に、空に色鮮やかな光が咲いた。

 円卓に座るように向かい合ってた私たちは、一斉に川に体の向きを変える。大きな

花火が夜空に咲くたびに、辺りから歓声が上がる。

 私は小さい頃に大曲で見た花火を思いだす。小さかったためか、見上げる空一面に

花が咲き乱れ、空に作られたお花畑のように見えた記憶。

 大人になって、お酒を片手に友達と夜空に咲く花火を見上げる。昔も今も、こうや

って人は夏の夜空に咲く花火を目にしながら、過ぎゆく夏を楽しんだんだ。街はコン

クリートジャングルと化した近代の夏は人間にとって苛酷になった分、昼間よりは涼

しさを感じさせてくれる風に当たりながら、花火に心躍らせることはこの上ない娯楽

に思える。

 空に大輪の花を咲かせる花火を掴むように、空に手をかざす。次々と打ち上げられ

ては空で弾け光る花火が、私の手からこぼれているように見えて、私はほほ笑む。

 俊さんが言う。

「そうやると、花火が違って見えるの?」

 私は手を空にかざしたまま言う。

「こうしてね手をかざして花火を見ると、手の上で花火が弾けているように見えるん

だ。一斉に何発もの花火が打ち上がると、花火が手からこぼれたように見えない?」

「どれどれ」

 俊さんは私の真似をして、しばらく空に手をかざしていた。

「ほんと、なんか不思議な感覚」

 不意に彼は言う。

「花火、誘ってくれてありがとな」

 彼が発した言葉が爆発音に打ち消される。

「え、なんて言ったの?」

「なんでもない」

 花火は小休止を迎え、その言葉だけがしっかりと耳に届いた。

 ――気になるよ。

 空は完全に鉄紺に染まり、花火の光がなくなると河川敷は夜に包まれる。地上には

花火を撮影しようとしているスマートフォンが、あちらこちらで光っていた。

 私の前には、拓さんと雪奈さん、そして藤木さんが並んで座っていた。ワインに酔

ったのか、藤木さんは拓さんに寄りかかるように座っていた。

 ほほ笑ましい光景に、私は口角を上げる。

 ――藤木さん、良かったね。

 私は雪奈さんに目を移す。花火の光で露わになる横顔は、聖母マリア像のように穏

やかな表情に見えた。

 そして、横にいる俊さんに目を移す。夜空を同じ鉄紺の浴衣に身を包み、まどろみ

の中にいるような目をしながら、夜空を眺めていた。私は花火よりも、あと数センチ

手を動かせば届く距離にある彼の手が気になって仕方がなかった。でも、私の手を彼

の手の上に重ねて、拒まれるのが怖くて手を動かせない。周りに誰がいようとも、藤

木さんのように拓さんに寄りかかる勇気が私にもほしかった。

 きっと、拓さんも藤木さんの気持ちに気付いているんだ。そして、雪奈さんの気持

ちにも。だけど、今日は花火の影響か、三人の後姿を目にしても不思議と悲しくなら

なかった。ずっとこの時間が続けばいいのに、と思った。そうすれば、二人はずっと

拓さんの両脇にいることができるのに。

 私は私でやるしかない。

 思い切って俊さんの手に指を重ねようとした時だった。

 彼は膝を抱え体育座りに体勢を変えた。私は花火の爆発音に合わせるように、ため

息をついた。その後は、やけに花火の弾ける音が胸を叩いているかのように感じた。


 火薬の匂いが風に乗ってくる。

 一瞬の静寂に包まれた会場は拍手喝さいに包まれた。拍手が終わると、来場者は次

々と立ち上がり、感想を口にしながらシートをたたみだした。

 私たちも立ち上がりシートをたたんだ。そして、すっかり空になったタッパーを片

づけた拓さんが言う。

「僕らも帰ろっか」

 私たちは再び人の流れに乗って帰路につく。

 猫とまたたびで飲むよりも楽しかったのだろうか、前を歩く藤木さんは酔いからま

だ醒めてないような歩き方だ。安心できたのは、藤木さんの脇を拓さんが抱えていた

からだ。

 分かる気がする。普段、猫とまたたびでは拓さんと杯を交わすことはできない。も

しかしたら、一緒にお酒を飲むことが久々だったのかもしれない。まだ、彼女の中に

恋する乙女の心が残っていて、今日は歯止めが効かなかったとしても共感できる。

 藤木さんは言う。

「帰りって、どれくらいかかるのやろ」

「一時間以上かかると思いますよ」

 私の回答に不満を口にするかと思ったら、彼女は「そんじゃ、人が少なくなるまで

飲もう飲もう」と言いだした。

「もうお酒ないからさ、今日は帰ろう」

 拓さんは優しい口調で藤木さんに語りかけた。バス停に向かう最中、ずっとそんな

やりとりが続いていた。

 しばらく歩いた時だった。本流に支流が合流するように、私たちがあるくメインの

流れに脇から人が合流する地点にさしかかった。突如、私の斜め前を歩く女性が躓い

たのか道で転んだ。私は彼女の手から落ちた荷物を拾って渡す。

「大丈夫ですか?」

 転んだ彼女は言う。

「あ、ありがとうございます。大丈夫です」

 人の流れは止まってくれるはずもなく、彼女が歩き始めるまで私たちを避けるよう

に人が流れる。

 再び歩き始めると、前を歩いていたはずの拓さんや雪奈さんがいなくなっていて、

代わりに知らない人の背中になっていた。きっと、私が立ち止まったことに気付かず

先に行ってしまったのだろう。

 私は歩きながら、前方に視線を向ける。背の高い男性が壁になって、拓さんや雪奈

さんが着ていた浴衣の柄が見当たらない。辺りを見回しても、人をかき分けて進める

ような状況でもなかった。

 ――横断歩道で止まったら、連絡しないと。

 花火大会後の帰路の人ごみでは、人は大勢いるのに寂しくなってしまう。不安感か

らくる寂しさだろうか、それとも皆と離れ離れになってしまった状況からくる寂しさ

だろうか。どちらにしても、無性に寂しい。

 それと、私が行こうと言いだした花火大会なのに、みんなを案内できなくなってし

まった申し訳なさも心を暗い色に染める。色鮮やかだった心の色も、花火が終わった

夜空のように冷たく暗く染まってしまったように感じて、夏の夜なのに身震いするよ

うな冷たさを感じた。

 人の流れは横断歩道で止まる。

 信号が青に変わる前に、私は俊さんに連絡しようと思い、巾着からスマートフォン

を取り出す。LINEを立ち上げて、皆とはぐれてしまったから先に帰ってほしいと

メッセージを打ち込み、送信した。すぐ返信がくることを期待して、信号が変わるま

での間スマートフォンを立ち上げたままにする。

 だけど、信号が青に変わっても返信はこなかった。

 私は心の中でため息をついて、歩き出す。横断歩道を半分ほど渡った時だった。後

から誰かに手首を掴まれた。あまりにも咄嗟のことに声も出せず、ただ後を振り返る

ことしかできなかった。

 私の手首を掴んでいたのは、俊さんだった。もう訳が分からなくて、はぐれてしま

って寂しくて、まさか私を探してくれた嬉しさに思わず涙が出てしまう。

 俊さんは手首を握っていた手を離し、何も言わず私の右手を握る。そして、私をど

こかに連れていくように歩きだした。

 私は左手で頬を拭う。涙を拭った人差し指は、少し風に当たってひんやりした。で

も、右手は俊さんの左手の温もりで熱いくらいだった。まるで、合わせた手のひらの

中で花火が咲いているようだ。

 もうこのまま二人で歩き続けてもいい。バスに乗らずに、淵野辺駅まで歩いてもい

いとさえ思えた。ようやく彼と手を繋ぐことができて、手の温もりを直に感じること

ができて、私は思った。

 この温もりは、未来の温もりであってほしい。

 手をつないだまま、彼の名前を呼んで言いたかった。

 ――俊さん、大好きだよ。

 私にとっての魔法の言葉。私の心を動かす魔法の言葉。そして、彼の心も。

 時間よ止まれ。そして、今を二人だけの空間にしておくれ。今なら分かる気がする。未来を信じてなければ、この言葉は言えない。藤木さんはどんな未来が待ち受けていようとも、それを信じているんだ。

 だから、私も信じよう。自分の未来、そして自分を信じるんだ。

 俊さんは前を向いたまま言う。

「お待たせ」

 彼の肩越しに見えたのは、拓さんたちだった。

 私は言う。

「ごめ……」

 言い終わる前に、藤木さんが私に抱きついてきて言った。

「良かった、心配したんやで~」

 まだ酔っているのか、力強く私を抱きしめられた。そして髪を撫でる。

「心配かけて、ごめんなさい」

「ううん、無事でなによりや」

 藤木さんの腕がほどかれると、拓さんは言った。

「バスも来たし、帰ろうか」

 私たちは頷いて、バスに乗り込んだ。

 バスはドアを閉め、重たくなった車体を頑張って動かした。

 手すりを握りながら目を瞑る。俊さんと一緒に夜空に手をかざし、手からこぼれる

ように咲く花火が頭に浮かぶ。頭にしっかりと焼きつけるように鮮明に思い出す。

 そして、もう一つ。

 俊さんの手の温もりを思い出す。

 今日は魔法の言葉を彼に届けることはできなかったけど、確実に凍った私の恋心が

解けていることを実感した。

 私は右手の手のひらを見つめ、そして手を握った。

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