第四話 手からこぼれる打ち上げ花火

手からこぼれる打ち上げ花火①

 お盆休みを終え、久々に会社に出勤した。

 夏休み分を取り戻すかのように、朝いちから会議が詰め込まれているスケジュール

を目にして、私は自分の頬をぴしゃりと叩いた。

 後ろから声がした。

「気合い入ってますね」

 振り向くと、新津さんが笑顔で立っていた。

「はい、これお土産です」

「ありがとう。あっ、ラングドシャ。このお菓子、美味しいよね」

 お濃茶ラングドシャ、京都マールブランシュの代名詞的お菓子だと思っている。こ

の時まで、新津さんが京都出身だということは知らなかった。

 確かに、思い起こせば新卒らしからぬ落ち着きぶりや振る舞いを考えると、小さい

ころから日本舞踊など習い事をやっていそうだ。

 別の人の所へお土産を持っていこうとする彼女を呼び止める。

「はい、私からもお土産」

「ありがとうございます。おがどら、面白い名前ですね」

「単なるどらやきなんだけどね」

「私、和菓子好きなんです。今日のお昼にさっそくいただきます」

 ああ、この子はなんて良い子なんだろうと思う。いずれジョブローテーションで営

業局から違う部署へ移るかもしれないが、彼女を営業から離すことがもったいなく思

ってしまう。

 始業時間とともに始まった会議は白熱した。秋の終わりから冬にかけてのキャンペ

ーンについてのコンペを新津さんが持ってきて、そのプロジェクトのストプラとして

アサインされた。得意先のオリエンやプレゼンの日にちをすり合わせただけだが、上

司の熱の入りようときたら尋常ではなかった。

 遅いお昼ご飯は、同じく会議が詰まっていた理沙とビルの外のお店で取ることにし

た。理沙が時々利用している中華のお店だった。彼女は汁なし坦々麺を、私はマーボ

ー豆腐を注文した。

 不意に理沙が言う。

「今年、花火大会には行った?」

 私は首を横に振る。

「行かないの?」

「行く予定なし」

「誘ってくれる人は?」

「誰もいない」

 理沙はあからさまなため息をつく。

「八月でさ、ほとんどの花火大会が終わってしまうから行った方がいいよ。雫はさ、

たまにはエモい体験したほうがいいよ」

 彼女が口にしたことは正論だ。

「そうだけど。理沙は行くの?」

「行くよ」

「誰と?」

「坂上くんと」

「誰それ?」

「グループ会社の社員さん。何度か仕事一緒になって、先日花火に誘われたんだ」

「へ~、理沙もやるじゃん」

「えへ」

 無邪気に笑う彼女を見て、私はほほ笑んだ。直近の理沙は割とポジティブな言葉を

発することが増えて感心していたが、その理由が分かって嬉しかった。

 先日俊さんと一緒に帰った日から、私は自分の気持ちに向き合った。

 自分の気持ちに向き合うことは前の彼氏にフラれてから避けていた。凍り付いた心

を彼のせいにして、再び恋することから逃げていた。また自分が傷つくことが怖かっ

た。だけど、心を凍らせたのは私自身だと分かった。自分を守るために恋心を凍らせ

て、誰かに恋することから逃げていた。

 俊さんと走りにいく度に、凍った心が解け始めているような気がした。春の温かさ

が積もった雪を徐々に解かすように、私の心から雫が滴っていた。

 ――私は俊さんが好きなのかもしれない。

 藤木さんのように、はっきりとは言えないけど、そう思うだけで胸の奥が温かくな

るのを感じることができたし、また一つ自分が変われる機会を掴みかけているように

感じた。

 注文した料理が運ばれてきた。彼女は汁なし坦々麺に、酢を二回ほど回し掛けた。

ここのお店でのルーティンなのだ。そして、美味しそうに麺をすする。

 もぐもぐしながら彼女は言う。

「ねえ、本当に誰もいないの?」

 私はごはんを飲みこんでから言う。

「誘ってくれる人なんていないよ、もう」

 テーブルに添えてあるラー油をマーボー豆腐に二回ほど掛けた。

 そして、私は思い切りむせた。


     ☆


 八月中旬の土曜日の昼前だった。

 今日も俊さんと早朝から多摩川サイクリングロードを走り、往復一○○キロ以上を

走り終え、土手で寝転がって休んでいた。

「もう一○○キロは余裕で走れるようになったんじゃない?」

「そうだね、脚は疲れるけどお尻や膝の痛みは出なくなった」

「じゃあさ、今後どうしたい? レース出たいなら山に連れて行こう考えているんだ

けど」

 どこに連れて行くとか考えてくれるのは嬉しいが、私は花火に連れて行ってほしい。

「秋に私が出れるようなレースってあるの?」

「あることはある」

「じゃあ、今年中に一回はレースに出てみようかな?」

 この時は俊さんが言うレースとは、ヒルクライムレースとも知らずに返事をしてし

まった。

「じゃあ、今度山に走りに行こう」

「サイクリングロードじゃダメなの?」

「ダメっていうわけじゃないけど、レースに出るなら山を走るのが一番の練習になる

からね」

 私はよく知らないまま、空を見上げながら「へえ、そうなんだ」と返事をした。

 しばらく寝転がりながら風に当たる。真夏日だから風も熱い。だけど、無風よりま

しで、少しでも風が吹いてくれるだけで暑さが柔らぐ。私は暑いのが苦手だから、ど

ちらかというと早く秋が来てほしい。

 私は俊さんが花火に行きたいのか知りたくて、訊いてみる。

「俊さんは今年花火大会に行った?」

「いや、行ってないね」

「行かないの?」

「猫とまたたびとレースで行く日がないな」

 私はサングラスの下で、目を細める。

「そんなに毎週忙しいの?」

「そんなことはないけど。どうしたの急に?」

 私は心の中でため息をつく。

 ――私から言わないとダメか。

 土手から上半身を起こす。

「私、花火大会に行きたい」

「いいけどさ、いつの花火大会?」

 すんなりオッケーを出されて、私は小躍りしてしまう。

「今日か来週の土曜日」

 今日は鶴見川の花火大会、来週はちょっと遠いけど相模原の花火大会がある。

「両日とも猫とまたたびの営業日だよ」

「えっ、なんとかならないの」

「俺一人だけお店の営業を抜けるのはできないよ。お店自体を休みにしないと」

「じゃあ、休みにしようよ」

 私にしては強引だった。ここまで強引な要望を口にしたのは、初めてかもしれない。

「もう営業するって告知出したったしな~」

「猫とまたたびなんだから、気まぐれで休みにしてもいいじゃん」

 私の押しに驚いたのか、俊さんは上半身を起こした。

「分かった、拓さんに来週休みにしたいと打診してみるよ。ちょっと待ってて」

 そう言って、彼は背中のポケットからスマートフォンを取り出して電話をかけ始め

た。

「もしもし、拓さん」

 うんうん、と何度か頷く。

「いや、ちょっとお願いがあって。来週のオープンを取りやめにできないかな」

 再び彼は頷く。

「花火大会に行きたいんだ」

 私は拓さんが承諾してくれることを心の中で祈る。

「うん、雫ちゃんと」

 ちょっと、なんでそこ素直に名前を出す。横から思い切り彼のわき腹を小突きたく

なる衝動に駆りたてられる。

「うん、ちょっと待って」

 俊さんはスマートフォンを耳から離し、私に言う。

「拓さんがさ、みんなで行かない? だって。それじゃダメ?」

 私は頭を抱えたくなった。せっかく俊さんと二人で花火大会に行くことを思い描い

て、あと一歩のところで実現しようとしているにも関わらず、皆で行くとはどうする

私?

 ひとまず拓さんが言う皆とは誰だろう?

「みんなって誰?」

 俊さんはスマートフォンを耳に当て、言う。

「拓さんは誰を誘うつもり? うん、分かった。ちょっと待って」

 俊さんはスマートフォンを離して言う。

「藤木さんと穂乃香さんと雪奈さんだって」

 ベストではないかもしれないが、私の知っている方々だからいいだろう。私は指で

オッケーサインを出して、俊さんに見せる。

「皆で行っても構わないって。うん、拓さんありがとう。じゃあ、後でね」

 彼は通話を終えて、スマートフォンを背中のポケットにしまった。そして、私の気

持ちなど微塵も察してないような笑顔で言う。

「良かったね、拓さんオッケーしてくれて」

 小さくため息をつく。きっと俊さんは私が花火を見たいだけ、と思っているのだろ

う。だから、藤木さんは「頑張りや」と言ったのかもしれない。無愛想な上に鈍感な

んだ。

 ――生活者のインサイトを探る仕事してるんだから、私のインサイトにも気づけ。

 心の中で愚痴る。

 俊さんは立ち上がり、言う。

「そろそろ帰って猫とまたたびに向かうわ」

「うん、今日もありがと」

「まだ暑いから、熱中症に気をつけてな」

「分かった」

 私たちは手を振って別れる。

 細かな気配りもできるのに、女の子の気持ちには鈍感なのかもしれない。だけど、

私はその鈍感さにほほ笑んでしまう。

 なんとかチャンスはできた。あとは私次第だ。

 ――頑張れ、わたし!

 なんだか今日も藤木さんと話したくなる。

 私は土手から立ち上がり、多摩川の上に広がる青空に背伸びした。

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