まるで魔法のような言葉⑥

 青空に浮かぶ雲をかき分けるように進む太陽。

 猛暑がおさまり、ようやく爽やかな夏を感じられる気温になった土曜日だった。私

と俊さんは土手に寝転がり、風にあたりながら空を眺めていた。

 早朝に待ち合わせして多摩川サイクリングロードを一緒に走った。一緒に走ったと

いうよりも、初めて挑戦する一○○キロライドに付き添ってくれたと言った方が正確

だろう。サイクリングロードを往復して約一○○キロの道のりは、さすがに疲れた。

 肌に滲み出た汗を風が奪い取ってくれる。走り終えたばかりだからだろうか、夏の

風でも心地よく感じられた。疲れた背中の筋肉を伸ばすように、手足を思い切り伸ば

す。

 私の横で組んだ腕を頭の下に敷いている俊さんが言う。

「今日は来るの?」

 猫とまたたびに来るの? と彼は訊いてるのだが、来るのかと訊かれたのは初めて

だった。春頃とは違い、猫とまたたびに行くのが楽しみで楽しみで仕方がない、とい

う気持ちは芽生えなくなった。別に猫とまたたびが嫌いになったわけでも、藤木さん

たちが嫌いになったわけでもない。ロードバイクに乗るようになってから、疲れて外

に出るより家で体を休めることを優先したまでだった。

 気持ちが固まっていないから、私は答える。

「どうしよっかな」

 それからあてもなく涼しげに流れていく雲に目を移す。普通の雲は私たちに何も干

渉せず、遠いどこかに流れていく。いずれは消えゆく運命でも、ただただ風に身を任

せ、どこかにたどり着く。

 ――たまには来なよ。

 私は俊さんの口からそのような台詞が出てくることを望んでいるのかもしれない。

たまには私をどこかに運ぶ風を吹かせてほしい。

 一方で、雲と違い私は自分自身が望む場所に自らの足で行ける。きっと風は吹かな

い、だから私は言う。

「今日は行こうかな」

「そっか。藤木さんが喜ぶと思うよ。俺はお店の準備があるからそろそろ行くわ」

「うん、私はもう少し休憩してから帰る」

「分かった。気をつけて帰れよ」

「うん」

 土手の上に倒して置いてあるバイクを起こし、彼はゆっくりとペダルに足を置き、

パチンとクリートを嵌めた。

 彼が走り始める前に、私は手を振って言う。

「俊さん、今日もありがとう。気を付けて」

 私の言葉に振り向いた彼は、手を振って返してくれた。そして、左足もクリートを

嵌めて、サイクリングロードを走り去って行った。

 後姿を眺めながら思う。きっと俊さんは、私を単なるねことまたたびの来店客の一

人としか考えていないのだろう。私と彼の間には、藤木さんたちのように長年の付き

合いで築いた関係性もないし、運命的な出会いのようなインパクトもない。ロードを

初めて一緒にライドをする分、来店客から友達になれた程度だ。

 彼の後姿が見えなくなって、私は再び土手に寝転がり空を眺めた。

 風に乗って、藤木さんの声が流れてきたような気がした。

 ――拓さんが好きやねん。

 心を揺さぶる素敵な言葉。だけど、どこか悲しげで儚い響きを纏った言葉。

 私はこれまでの人生の中で、人の心を揺さぶる言葉を一つでも言っただろうか。誰

かの心を動かし態度を変容させる、そんな仕事をしているにも関わらず人の心を動か

した出来事は思い浮かばない。ロジカルにストラテジーを組めたとしても、私にはエ

モーショナルな要素、いわゆるエモい体験が少ないのかもしれない。

 仕事にかまけて、周りに鈍感でいて、ただひたすら満足いく仕事を成し遂げるため

だけに時間を泳いでいた。ボロボロの私に幻滅してほしくなくて、会うことを避けた

彼を傷つけたくなくて、会えない時に電話もしなかった。彼と過ごした中で感じた数

えきれないほどの喜びを、ありがとうの一言に凝縮して表すこともしなかった。

 ――傷つきたくなかったのは、私だったんだ。

 空を眺めながら過去のことを色々考えて、何になるというのだろう。それに当分は

誰かに恋をすることは怖かった。また傷つくことが怖くて胸の奥の恋心を凍らせた。

だけど、最近凍った心から雫が滴り落ちる音が聞こえる気がした。

 上半身を起こし、私は両頬を叩いた。

 未来に怯えてどうするんだ。望まない未来が待ち受けていることに怯えるんじゃな

くて、思い描いた未来を実現するために頑張らないでどうするんだ。

 ヘルメットを被り、バイクにまたがりクリートを嵌めた。

 足は疲れていたけど、力強くペダルを踏みこんだ。


 木の温もりを味わうようにドアの取っ手を握る。

 ドア越しでも伝わってくる楽しげな店内の雰囲気。ドアから微かに響く笑い声は、

私をほほ笑ませてくれる。やっぱり私は猫とまたたびが大好きなんだ。

 一思いにドアを引いた。

「こんばんは」

 猫のようにドアの隙間から顔を覗かせると、目に飛び込んできたのはいつもと変わ

らぬ光景だった。キッチンに立つ二人、カウンターの奥に座る二人、そして雪奈さん

の笑顔が出迎えてくれた。

 雪奈さんが私を案内しようとする前に、藤木さんの言葉が飛んできた。

「ニヤニヤしてないで、はよ座り」

 そう言って、彼女は私がいつも座るカウンターの真ん中の席をポンポンと叩く。傍

から見たら、これから説教でも始まりそうな雰囲気かもしれないが、彼女の目は家出

したと思っていた猫の帰宅を出迎えた時のような目をしていた。

 開店直後に訪問したから、店内には番犬とジェリーさん以外の来店客はいなかった。

「待ってたで」

 ああ、たぶん俊さんから今日は私が来ることを聞いたのだろう。

「お久しぶりです」

「ほんまやな。少し焼けたんちゃう?」

 穂乃香さんが言う。

「最近毎週多摩川沿いを走っているので、少し焼けたかもしれません」

 私はどちらかというと日に焼けづらい体質で、焼けたら黒くなるより赤くなるだけ

のことが多い。改めて腕を見ると、サイクルジャージの袖の境目で肌の色が少し変わ

っていた。変わっていたといっても、ほんの少しだ。穂乃香さんは看護師だから、人

の体の変化に気付きやすいのかもしれない。

「俊くん、真夏の炎天下に雫ちゃんをゴリゴリ引きずり回したらあかんで」

「そんなに引きずり回していませんよ」

「雫ちゃん、最近何キロ走った?」

「今日は一○○キロ走ってきました」

「一○○キロ! そりゃ頑張ったな~」

 穂乃香さんは続ける。

「一○○キロは引きずり回しすぎちゃうんか?」

「そんなことないですよ」

 俊さんは平然とした表情で言う。彼にとっては普通の距離かもしれないけど、私に

とっては未知の距離だったし、両脚と臀部の筋肉疲労ははんぱなく、家からここまで

来るのに脚が重くて苦労した。

「俊くんの物差しで言ったらあかんで。まあ、雫ちゃん頑張り屋さんやから文句言わ

ずに走ったかもしれんけど、もう少し段階踏んで走らなあかんで」

 穂乃香さんの言葉に、俊さんは反論せず苦笑いしただけだった。そんなことしてな

いよ、と言った風な目で穂乃香さんを見て、俊さんは野菜を再び刻みだした。

 俊さんが何も言わないので、私が口を開く。

「私が一○○キロにチャンレジしたいって言ったんです」

 穂乃香さんは首だけを私に向けた。

「なら、いいけどな」

 私は胸を撫で下ろし、雪奈さんにアペロールソーダを頼んだ。

 すぐに目の前にオレンジ色のアペロールソーダが置かれる。グラスが置かれた瞬間

に合わせるように、藤木さんが「何食べたい」と言ってきた。

 私は素直に言う。

「肉が食べたい」

 穂乃香さんが言う。

「ええやん、夏にはやっぱり肉やな」

 賛同してくれて素直に嬉しかった。

「拓さん、今日は肉で頼むで」

 藤木さんは威勢よく拓さんにオーダーを告げた。

 私は最近一つの変化を実感していた。仕事に忙殺されている間、私の体は食べたい

ものを明確に要求しなかった。疲れた体と脳を動かすために、なんでもいいから空腹

を満たすために食べていたようなものだ。帰りのコンビニで棚に残っている商品から

目についたものをあまり考えずに手にとっていた。

 最近ロードバイクに乗るようになったからだろうか、私は体が欲している食べ物を

言葉にすることができている。なんだか陸上部に属していた高校生の頃を思い出す。

部活を終えて家に帰っては妹とともに、母に何が食べたいとか言ってたっけ。もうす

ぐ晩ご飯できるし、作っている最中だから明日ねと言われた記憶が蘇った。

 母のごはんは美味しかったな~と、思い出してほほ笑む。

「なんだか嬉しそうやな、雫ちゃん。ええことでもあったんか?」

「穂乃香さんが肉に賛同してくれたので、嬉しくて」

「なんや、彼氏でもできたんかと思ったわ」

「そんなわけないでしょ、藤木さん」

 藤木さんは私の頬をつねりながら言う。

「もうちょい自信持ちや。あんたなー、綺麗で性格もそこそこいいんやから自信持て

ば彼氏の一人や二人、すぐにできるで」

「いひゃいよ、ふひきひゃん」

 藤木さんは、これで勘弁しとくと言ってようやく手を離してくれた。

「なあ俊くん、そう思わんか?」

 キッチンで何かを切っている俊さんが顔を上げて、藤木さんに向く。

「何がですか?」

「聞こえんかった? 雫ちゃんは綺麗やから自信持てばすぐに彼氏できるっちゅう話

や」

「そうですね」

「それだけ? 冷たい返事やな。本当にそう思ってる?」

「思いますよ」

「もうちょい気の効いたこと言われへんかな」

「すみませんね」

 俊さんは視線をまな板に落とし、再び何かを切り始めた。私は中腰になってキッチ

ンを覗き込む。彼が格闘していたのは鶏の脚だった。

「雫ちゃん、俊くんはどうや? 彼女募集中やで」

 バスケでパスを受け損なって、胸にボールがぶつかったような衝撃を覚える。その

せいか、何も言葉が出てこない。なんでこの人はいつも私の頭の中を覗いたかのよう

な台詞を言うのだろう。

 私は気が抜けたように、ストンと椅子に腰を下ろす。

「あ~、年上はあかんかー」

 いや、そうじゃない。

「分かるわー、俊くん自転車ばっかやってるし、無愛想やしね」

 穂乃香さんが追い打ちをかけるように言った。

 ここで違うと言えれば、どんなに楽になれるのだろうか。仕事では考えていること

をはっきりと言えるのに、恋愛のことになるともどかしいくらい心の内を言葉として

表現することができなくなる。

「俊くん、雫ちゃんに嫌われとるちゃうん?」

「せやな、たぶん敬遠されとるで。今日もぎょうさん引きずりまわしたしな」

 ああ、もう。藤木さんと穂乃香さんに悪意がないことは知っている。俊さんを攻撃

したい意思もない。ただからかっているだけだ。単にからかっているだけなら私は横

で笑っていられるけど、これは私の恋愛に関わることだ。

 私は俊さんに視線を向ける。二人のちょっかいに苦笑いしていたけど、彼は何かを

言おうと口を開きかけた。彼が言葉を発する前に、私は立って口を開いた。

「違います」

 雷鳴が轟くように、他の音をかき消すように、私の声が店内に響いた。

 みんながゆっくりと私に視線を向ける。

「私は俊さんを嫌ってなんかいません。それに年上は恋愛対象でないと考えてもいま

せん。むしろ私は」

 その時だった。入口の扉が開いて、シャリンシャリーンとピラーが鳴った。心地よ

い音色に隠れてしまったが、みんなが息を飲んだ様子だったことが分かった。

「いらっしゃいませ」

 雪奈さんの言葉に、私は席に座る。ふーっと長く息をはいて、うっすらと小さな水

滴がつき始めたグラスを持ちあげ、アペロールソーダに口をつけた。美味しい。

 グラスを置いた時、耳元で藤木さんが囁く。

「さっきはごめんな」

「いえ」

「せやけど、そやったんか」

「えっ」

 藤木さんは笑って私の肩をポンポンと叩いて「頑張りや」と小さな声で言った。私

は彼女のオニキスのような黒い瞳をまっすぐ見つめる。目は口ほどに物を言うではな

いけど、その目は嬉しさを物語っているようにキラキラ輝いていた。

 一方でその目の輝きは、私の気持ちを見抜いていたよと主張しているようにも見え

た。彼女には私が抱き始めている想いを知られたかもしれない。そのことは、この先

プラスに働くのか、マイナスに働くのかは分からない。

 根拠はなかったが、藤木さんは純粋に私を応援してくれるように感じていた。

 安心したのか、妙に空腹感が強まる。食べ物を欲する胃の叫びを聞きとったのか、

雪奈さんが三人分をひとまとめにしたサラダを持ってきた。

 私は雪奈さんからボウルを受け取って、藤木さんと穂乃香さんのお皿にサラダを取

り分ける。二人は揃っておおきにと言って、皿を受け取った。

「今日は拓さんお得意のルッコラと生ハムのサラダやな」

 穂乃香さんはフォークで生ハムを持ちあげ、嬉しそうに口に運んだ。

 私も自分の分を取り分け、いただきますと言って口に運ぶ。ずいぶん大きな生ハム

だな、と思ったが、サラダに盛りつけられた生ハムは桃を巻きつけた生ハムだった。

生ハムの塩分、桃の甘み、ルッコラの苦みが口の中で合わさる。ドレッシングはオリ

ーブオイルベースだけど、絞られたライムの果汁が爽やかさを醸し出していた。

 まだ空席が目立つ店内、カウンターの端で三人とも無言でサラダを味わう光景を傍

から見たら少々異様かもと思いながらも、ほほ笑みながらひたすら食べ続けた。


 五分も経たないうちに、取り分けたサラダのお皿は空になった。

 お腹に穴が空きそうなほど感じていた空腹感が少し和らぎ、次の料理を待ちわびる

気持ちを宥めるようにアペロールソーダを一口飲んだ。たぶん同じ気持ちなのかもし

れない、藤木さんと穂乃香さんもグラスを持ち、ワインを口に流し込んでいた。

 二人がワイングラスを置いた時だった。そよ風に押されるように、お店の扉が優し

く空いた。ふんわりとした髪を鎖骨の辺りまで伸ばして、漂っている気品が目に見え

るような女性が顔を覗かせていた。雪奈さんはいらっしゃいませと言って出迎える。

そして、私の二つ隣の席に案内された。

 カウンター席は六席ある。奥から二席は藤木さんと穂乃香さんの指定席であるかの

ように扱われ、私はたいてい奥から三つ目に座る。何度か入口に近い席に座ったけど、それ以外はこの席に座っている。

 雪奈さんと彼女のやり取りが耳に入ってきて、彼女は初めての来店だと分かった。

 藤木さんがぼそっと小声で言う。

「また、導かれたか」

 独り言のような口調だった。

 藤木さんの強引な押し? で初めて俊さんにパスタを作ってもらった時だった。彼

女はこのお店に引き寄せられるようにやってくる女性の話をしてくれた。私もそのう

ちの一人だと言われた。心が疲れて、力なく風に流されるようにここにやってきて、

拓さんたちの優しさが込められた料理を口にして、再び旅立ちを決意するかのように

帰宅していくようになる女性たちの話だ。

 藤木さんの言葉が気になって、先ほど来店した彼女に視線を向ける。キッチンから

拓さんが「どんな気分ですか?」とちょうど訊いている場面だった。

 星が最も美しく輝いて見える群青色の夜空のようなワンピースは、彼女の肌の白さ

を引き立てていた。少々痩せている体型の影響だろうか、どこか悲しげな雰囲気を纏

っているように感じるのは私だけだろうか。

 仕事柄、つい人を観察してしまう。いけないいけない、と思っていたタイミングで、扉が空いて立て続けに二人が二組ずつ入ってきて、カウンター席後の二つのテーブル席に案内された。カウンターの二席以外の席が埋まり、お店には活況が増してきた。

 勢いづいた来店の流れは止まらなく、男性が一人入ってきて、雪奈さんに案内され

てカウンター席の端に腰を下ろした。その様子を見た藤木さんが言う。

「朝日やん、久しぶりやな」

 カウンターの端に座った男性は、ペコリと会釈をするだけだった。

 私は訊く。

「お友達ですか?」

 藤木さんは首を横に振って言った。

「友達ちゅうか、飲み仲間? 雫ちゃんがここに来ない間、通い出したんや。まあ、

いつも一人で来とるから、お客さん少ない時とか話しかけたりしとるだけや」

 頭の中で藤木さんがワイングラス片手に絡んでいる姿が思い浮かんだ。

 一つ気になったことがあった。ここのお店に来たお客さんに対して、話しかけるの

は雪奈さんか拓さんだ。だけど、カウンター席の座った男性には真っ先に俊さんが話

しかけていた。

 藤木さんと穂乃香さんは顔を赤らめながら何やら話している。二人はすぐに酔っぱ

らうが、私が素晴らしいと思う点は、二人は酔っても大声で話すことをしない点だ。

きっとお店の雰囲気に配慮しているのだろう。私には話しかけてきたけど、むやみや

たらに他の来店客に関わらないことだ。

 ――この人酔っぱらうと可愛い女の子に絡むんだよね。

 拓さんの言葉が頭の中で蘇り、私は思ったことを訂正する。

「はい、どうぞ」

 私たちの前に焼かれたジャガイモが乗ったお皿が置かれた。

「肉料理に時間がかかりそうだから、それ食べて待ってて」

 キッチンから拓さんが申し訳なさそうに言う。

「拓さんのペースで、構わへんで」

 穂乃香さんと私の気持ちを代弁するかのように、藤木さんが言った。

「おお、ハッセルバックポテトやな」

 穂乃香さんはニコニコしながらジャガイモにフォークを刺して、自分のお皿に乗せ

た。

「ハッセルバックポテト?」

 私は繰り返す。

「せや。スウェーデンの家庭料理なんやけど、おしゃれに見えるやろ」

「そうですね。なんだかアコーディオンみたいです」

「別名、アコーディオンポテトや」

「詳しいですね」

「拓さんの受け売りやけどな」

 そう言って、穂乃香さんは笑った。

 私たちはハッセルバックポテトを食べながら、店内の雰囲気も味わう。賑やかにな

った客席、キッチンでは一秒でも早く料理を提供しようと拓さんと俊さんがリズミカ

ルに包丁やフライパンを動かす。そして、出来上がった料理を雪奈さんが優しい風の

ように滑らかに席まで運ぶ。

 文庫本を開いて料理を待っていたカウンター席に座る女性のところに、雪奈さんが

料理を運んだ。私は拓さんがどんな料理を作ったのか気になって、なんだかくすぐっ

たい。

 拓さんはカウンターの女性の前に立ち、口を開く。

「人参とジンジャーのスープです」

 えっ、と声をあげた女性は何かに驚いている様子だった。

「人参なのに、赤くない」

「はい。鎌倉野菜にはカラー人参というのがありまして、今日はえんじ色の人参を使

ってスープにしてみました。冷めないうちに召し上がってみてくだしさい」

 女性は文庫本を脇に置いて、スープスプーンを手に取った。

 知り合いでもない方の食事姿を見るのはよくないと思い、私は視線を戻す。目に飛

び込んできたのは、空になったハッセルバックポテトの皿だった。

「えっ、もう全部食べてしまったのですか?」

「そうや。雫ちゃん、ぼーっとしとるからや」

「そんな~」

 私はうなだれるように肩を落とす。二人は空気を入れ過ぎた風船のように、急に笑

顔が弾けた。

「ジョークやジョーク。ほら、ちゃんと雫ちゃんの分はあるねん」

 そう言って、穂乃香さんは脇から取り分けたポテトのお皿を私の前に置いた。

 私をからかって無邪気な笑顔を見せる二人。彼女のその笑顔の裏側にある成就され

ない想いを考えると、息が苦しくなるようだ。

 そんな息苦しさを誤魔化すように、私はフォークに刺したポテトを口に運んだ。


 肉料理を食べ終えたころには、店内に空いている席はなくなっていた。

 今日の肉料理はチキンティッカだった。藤木さんと穂乃香さんは辛い辛いと言いな

がら食べていたけど、私は平気な辛さだった。正直、虎ノ門のインド料理屋のチキン

よりも美味しいと思える味だった。

「ちょっと拓さん、辛すぎや」

 穂乃香さんは不満を口にしていたが、怒っている様子は見受けられなかった。

 拓さんを擁護するわけではないけど、私は言う。

「インド料理屋で口にするチキンと、辛さは大差ないと思いますよ」

「雫ちゃんは辛さに強いんちゃう?」

「そんなに強くはないですよ」

「なら、北極食べたことある?」

「北極って、なんですか?」

「なんや、ないんか。激辛ラーメンのことや」

「あっ、蒙古なんちゃらというラーメンですか?」

「せや。今度行くか?」

 辛い辛いと言う割には激辛ラーメンを食べに行っているとは、穂乃香さんの思考が

読めない。

「じゃあ、今度連れてってください」

「よっしゃ」

 小柄で可愛らしい彼女と威勢がいい口調のギャップの大きさに、思わずほほ笑む。

とは言っても、穂乃香さんは私よりお姉さんだから口に出しては言えない。

 私は前髪を持ちあげて、額にうっすらと浮かび上がった汗をハンドタオルで拭いて

いると、穂乃香さんはバッグを持って立ち上がり椅子をしまった。

「雫ちゃん、またな」

「用事でもあるのですか?」

「せや。知り合いが家に来るんや」

「そうですか、また」

 私は手を振って彼女を見送った。

 彼女を送りだした扉が静かに閉まると、藤木さんは言った。

「雫ちゃん、もう一杯飲もうや?」

「ええ、そうしましょうか」

 雪奈さんと呼んで、藤木さんはスパークリングワインを、私はアペロールオレンジ

をそれぞれ頼んだ。

 藤木さんは味見をするようにスパークリングワインに口をつけて、すぐに離す。

 その様子を見てから私は言う。

「もう、どれくらい経つのですか?」

「ん?」

 彼女は不思議そうに私の方を向いたが、また前を向いてグラスに口をつけた。

「せやな、もう三年くらい経つかもしれんな」

 何かを懐かしむような目をして、彼女は言った。

 私が具体的に言わなくたって彼女は分かってくれる。それに、拓さんが目の前にい

るこの状況で、拓さんへ片思いをし続けてどれくらいなのかなんて訊けやしない。

「アクションは起こさなかったのですか?」

 彼女は首を横に振る。

「そんなにシンプルな問題ちゃうねん」

 そう言って、藤木さんの視線が彼女に向けられる。

「やっぱりそうでしたか」

「気づいとったか」

「ええ」

 私は小声で続ける。

「時々雪奈さんが拓さんに向ける視線が、藤木さんと似たような目をしていたので、

恐らくそうだろうと思っていました」

 彼女は私の髪を撫でる。姉が妹を褒めるような撫で方だ。

「私もな直接訊いたわけではないけど、そう思うとる」

 目の奥が熱くなる。想いが雫となって目からこぼれおちる。

「なんで雫ちゃんが泣くのや」

「だって、悲しすぎます」

「アホやな」

 そう言って、藤木さんは私の髪を再び撫でる。優しく撫でる。

「藤木さんには幸せになってほしい。でも、雪奈さんにも幸せになってほしい。でも

私は何もできないし、何も言えない。こんなの悲しすぎるよ」

 私たちのセンシティブな話を包み込むように、店内は活況に満ちていた。その状況

に助けられているようで、思い切り藤木さんと話してもよいと思わせてくれた。

「ありがとな」

 私は首を振る。

 彼女に何もしてあげられていない。何も役立てていない。

「でもな、私は今のままでええんや」

 素直に彼女の言葉の意味が理解できなかった。外に出れば頭上に浮かぶ夏の大三角

のように、ベガとアルタイルでいることを望んているとでも言いたいのだろうか。夜

空に手をかざせば、手の中に納まるように見える大三角でも、やっぱりベガとアルタ

イルは一六光年も離れている。

 彼女は続ける。

「三年の間な、何もしなかった訳でもないんや。友達の紹介とか飲み会で知り合った

人とつきあってみたりした。でもなうまくいかんかった」

「そうだったのですね」

「せや、性格やライフスタイルが合わんかった」

「てっきり三年間、ずっと想い続けてきたのかと」

「私、そんな風に見えるか?」

「見える見えないじゃなくて、藤木さんの性格を考えるとそうかな、と思って」

 彼女はふーっと息をはいて、スパークリングワインで喉を潤した。

「雫ちゃんの言うとおりかもしれんな。想いにけじめをつけて出会った人とつきおう

たりしたけど、心のどこかで彼への想いが消えずにおったのかもな」

「告白はしないのですか?」

 私は思い出す。

 ――拓さんが、好きやねん。

 私の心を揺さぶった魔法のような言葉。短くて力強い言葉。大好きな相手の心に届

けたい言葉。

 藤木さんは、ほほ笑んで言う。

「ええんや。今のままでええんよ」

「どうして。彼女のためですか?」

 彼女は首を横に振る。

「彼女のためちゃう」

「じゃあ、なぜ。藤木さんの考えが分からないよ」

 私のアペロールオレンジのグラスに入ってる氷は、既に半分ほど解けていた。

「私のはな、ちょっと恋愛とはちゃうねん」

「恋愛とは違う?」

 私は繰り返す。

「恋愛だったら相手と付き合うとか、結婚するとかゴールがあるかと思うけど、私は

な彼と付き合うとか考えておらんのよ。そりゃ付き合えれば嬉しいかもしれないけど、なんと言うか、私は彼を尊敬しとるから、その彼を好きでいる状態で十分なんや」

 いつから彼女は彼と一緒になることを諦めたのだろう。綺麗な思い出だけを胸に抱

き、生きていくことに安心感を覚えたのだろうか。

 彼女にとって拓さんはアルタイルでよいのだろう。鉄紺の空に浮かぶ、決して手が

届かないところに気高く孤高に輝く存在でよいと思っているようだ。

 一方で雪奈さんも同じ想いを胸に抱いてるのかもしれない。

 きっと二人は、三人で一緒にいたいと願ってしまったのだ。魔法の言葉が幸せを手

繰り寄せると同時に、誰かを傷つけることを分かっているから発せられずにいるんだ。

 私は外に出て、夏の大三角に向かって叫びたかった。

「それでも悲しすぎるよ」

「せやな。この歳にもなって、と思うかもしれんけど、この先も私たちは踏み出せず

に今の関係を続けるかもしれんな」

「彼が他の誰かと結婚しても?」

「うん、気持ちは変わらんかもな」

「共感できないよ」

 彼女はニッと笑った。

「世の中、こういうマイノリティもおるんよ」

「その気持ちは否定はしません。だけど、やっぱり大好きな藤木さんには幸せになっ

てほしいから」

「おおきに。その気持ちだけで十分や。私は私の幸せの形を探すから、今はとりあえ

ず雫ちゃんは自分の幸せを頑張って掴むことや」

 藤木さんは私の肩を二回ほど、ポンポンと叩いた。

 昔、発荷峠展望台で見た夜空を思い出す。アルタイルには手が届かなくとも、ベガ

の周りにはこと座の星々が隣り合うように輝いている。彼女は理想に手を伸ばすこと

を避け、理想を守ることを選んだ。きっと、それが彼女にとって最良なんだ。

 その道を選んだ彼女に幸せが訪れますように、と祈るように私はアペロールオレン

ジを飲み干した。

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