まるで魔法のような言葉⑤

 仕事を終えてオフィスビルを出た時には、既に二○時を回っていた。

 外は気分が悪くなるほど蒸し暑く、今晩は熱帯夜だから覚悟しろよと私たちに嫌が

らせしているような夜に感じる。歩くだけで汗がにじみ出てきそうな空気が纏わりつ

くが、私は気にせず小走り気味にビジネスタワーのスタバに向かった。スタバに着い

て店内を見回す。会社員で埋め尽くされていても、俊さんはすぐに見つけられた。

「すみません、お待たせしました」

「おお、来たか。お疲れ様」

 私が遅れたことを気にする素振りも見せず、俊さんは読んでいた本から顔を上げた。私は向かいの席にバッグを置いてカウンターに向かい、アイスのソイラテを注文して席に戻った。

 バッグから折りたたんだフェイスタオルを取り出し、顔を仰ぐ。ほどよく冷房が効

いた店内の空気が頬に当たって気持ちがいい。ソイラテの容器を持ちあげ反時計回り

に回すと、ジャラジャラとクラッシュアイスがぶつかる音がして、なんだか涼しいそ

よ風に心が冷やされるようだ。一口飲んで体の中にも冷たさを送ってあげる。

 私の様子を楽しそうに見ていた俊さんが言う。

「少しは落ち着いた?」

 口に含んだソイラテを飲み込んでから頷く。

「はい、大丈夫です。わざわざ虎ノ門まで来ていただいて、すみません」

 今夜は俊さんにレクチャーをしてもらう日だった。半ば強引に藤木さんがレクチャ

ーを組んでくれたのだが、今では彼女の強引さに感謝している。そして、レクチャー

することを受諾してくれた俊さんにも。

 私は改まって言う。

「はい。今日はよろしくお願いします」

 彼はそんなに畏まらなくてもいいよ、とは言ったけどやっぱり畏まってしまう。

 私は急いでバッグからノートを取り出す。顧客先に行くときも、社内ミーティング

の時も、いつも使っている第二の脳のようなノートだ。だから、このノートが机の上

に現れると気持ちが引き締まる。頭のスイッチが切り替わって、店内の喧騒が小さく

なっていくのを感じた。

 耳に届いたのは、俊さんからの質問だった。

「雫ちゃんはさ、広告会社のストプラの役割ってどう考えている?」

 私は先輩から教えてもらった役割、実務をこなして実感した役割を話す。

「リサーチから生活者のインサイトを発見し、広告ターゲットを決めて、コミュニケ

ーションのコンセプトを策定するのがストプラの役割だと思ってる」

「まあ、だいたい広告会社のストプラの役割はそんなとこだよね」

 彼は続ける。

「しっかり役割を認識していて、雫ちゃんはどうして上司が唸る戦略を立てられてい

ないと思うの?」

 上司から直接言われたことはないけど、自分でもある程度目星はつけている。

「たぶん、先輩たちに比べて私が見つけるインサイトがいまいちなんだと思う」

「インサイトね」

 俊さんはソイラテの容器を手に取り、一口飲む。

「これまで関わったキャンペーンをいくつか教えてよ」

「はい」

 私はノートをめくり、ストプラになってから関わったキャンペーンを説明した。

 その説明で一○分以上が経過する。レクチャーと聞いたので、私ばかりが話す形に

なってしまい、何だか違和感を覚える。カウンセリングされているようで戸惑った。

 私の話を聞いて、俊さんは顎に手を添え唸った。

「なるほどね」

「何か分かったの?」

「雫ちゃんの戦略は、上司が言うように及第点ではあると思うけど秀逸ではないかも

しれないね。まあ、戦略は決まった答えがあるわけではないから気を悪くしないで」

「うん、それは分かるよ」

 会社の上司以外の人に私の上司と同じ意見を述べられて、やっぱり少しはへこむ。

「何がいけないの?」

「俺が思うには、仮説を導く力」

「仮説構築力ということ?」

「うん。生活者インサイトの仮説を立てるスキル。このあたりって、プランナーの経

験やスキルで優劣が分かれるんだ」

「一生懸命に考えるだけでは、ダメなの?」

「ダメというわけではないけど、限られた時間の中で最も効果が上がりそうなインサ

イトを見つけ出すには、単に一生懸命考えるだけでは難しいかな」

「確かに、そうだよね。コンペのオリエンからプレゼンまで時間は限られているし、

効率よく的確にインサイトを発見する感覚が必要なんだね」

「そうだね」

 私には何が足りていないのだろうか。その事を考える時間を今後作らないといけな

い分岐点に立っているのかもしれない。

 ソイラテを一口飲む。豆乳の甘さとエスプレッソの苦みが混ざり合って、舌の上を

滑らかに流れていく。ソイラテが体に入った分の空気が出て行くように、軽く一息つ

いた。

「戦略策定って、奥が深いですね」

 私の一言を聞いた俊さんは、僅かに目を細める。

「ねえ、コミュニケーション戦略や広告戦略の戦略は戦略だと思う?」

 なんだか彼の視線が私の目に突き刺さるようで、目が動かせない。初めて目にする

鋭い目に、口の中が乾いていく。

 俊さんは私の顔に驚いたのか、表情を和らげて言った。

「すぐ答えなくてもいいから、よく考えてみて」

 私は頷いて、一○秒ほど考える。頭の中で考えをまとめて言う。

「私は戦略だと思う。間違っている?」

「間違ってはないけど、不十分」

「不十分?」

 私は首を傾げる。

「そう。広告に限って言えば戦略。だけど、マーケティング全体からすれば、広告は

戦術でしかない。俺らは得意先のマーケティングの戦術を請け負っているんだ」

「広告目標を達成するための方針を立てることは、戦略だと思うけど」

「そうだね」

「つまり、視座によって戦略は戦略でなくなるということ?」

「ちょっと違う。もう一つ考えてほしいのだけど、良い戦略、悪い戦略、良い戦術、

悪い戦術の四つの組み合わせを順位付けをするとしたら、雫ちゃんならどういう順番

になると思う?」

 話の本質に近づいているような気がするけど、私に思考させる意味が分からない。

「一番は良い戦略と良い戦術で、二番目は良い戦略と悪い戦術。三番目は、悪い戦略

と良い戦術かな。で、四番目は悪い戦略と悪い戦術だと思う」

「ファイナルアンサー?」

「えっ?」

 彼はもう一度、ファイナルアンサー? と言った。私の順位付けは間違っているの

だろうか。でも、間違っているようには思えなかった。

 私は言う。

「ファイナルアンサー」

 ほんの少しだけ、俊さんは残念そうに眉をひそめたように見えた。

「三番と四番が逆」

「どうして。悪い同士の組み合わせが一番良くないと思うけど」

「こう考えてごらん。戦略っていうのは目的を達成するためにどの方向に向かって進

むか、戦術はどう実行するか、つまりどのように進むかを表していると思って。良い

戦略であえば、目標に向かって正しい方向に進むから、あとは戦術の良し悪しで進み

具合が違うだけだよね。具体的な例で言うと、新橋から北海道に向かうか沖縄に向か

うかが戦略、飛行機で行くか新幹線で行くか船で行くかが戦術。今日はとても暑いか

ら涼しい地域で週末を過ごす、という目的を決めた時、北海道に向かうのは方向が合

っているから良い戦略。飛行機だと早くつくし良い戦術と言えるよね。もし船を選ん

だら北海道に着くには一日以上かかるから悪い戦術と言える」

 私は頷いていたが、夜空に花火が咲いたように自分の順位付けの誤りに気付く。

「あっ、分かった」

 俊さんは話を遮られたことも気にせず、ほほ笑んだ。

「悪い戦略と良い戦術だと、目的とは違った方向に思い切り進んでしまうからダメな

んだ」

「そう。つまり、後戻りできないってこと」

「悪い戦略と悪い戦術だと、間違った方向に進むけど、あまり進まないから途中で進

んでいる方向が間違っていると気付けば、方向修正ができるということね」

「そのとおり」

「そっか、そっか」

 俊さんが伝えようとしてくれたことが分かる嬉しさの半面、恐ろしいことに気づく。

「ねえ、もし得意先がオリエンで伝えてくれた方向性が良くなくて、私たちが良い広

告を作っていたとしたら……」

「雫ちゃんが考えている通りだよ」

 彼が言いたいのは、得意先のオリエンを鵜呑みにするなということだろうか。彼は

元事業会社のマーケターだ。私たちが普段向き合っている得意先で働いていた人間だ

から、オリエンの良し悪しも分かるのかもしれない。

 考えてみると、私は今まで伝えられたオリエンの内容を微塵も疑いもせず、要件通

りにストラテジーを組んできた。もしかしたら、その考え方や姿勢がストラテジーの

精度に影響していたのかもしれない。

「俊さんが言いたいのは、広告戦略を考える前に広告宣伝を行う商品のマーケティン

グ戦略を理解しよう、ということ?」

「うん、それが今日伝えたいことの一つ目」

 自分の眉毛が少し上がる。

 一つ目? 何が他にあるのだろうか。

 持ち上げたソイラテの表面には、融けた氷の層ができていた。容器をくるくると回

す。シャラシャラと氷がぶつかる音が頭の中で響く。

「二つ目は?」

「また、質問だけどストプラは何の専門家だと思う?」

「広告のストラテジーをくみ上げる専門家じゃないの」

「人それぞれ解釈は違うと思うけど、俺はストプラは生活者理解の専門家だと思って

る」

 彼の一言を聞いて、おでこを掌底で殴られたような感覚に陥る。

 ああ、頭がくらくらするようだ。まったく自分の職種を俊さんが言うように解釈し

たことなどなかった。何か言いたいのに、言葉が出てこない。ストプライコール、戦

略を立てる役割を担う人であると、解釈を深めようとしなかった自分が恥ずかしい。

 俊さんは続ける。

「つまり、得意先よりも生活者のことを深く理解できることが大事だと思っている」

 私は得意先よりも生活者のことを深く理解していただろうか。同じプロジェクトに

関わっているメンバーの誰よりも、生活者を深く知ろうとしただろうか。

 クーラーが効いている店内なのに、頬が熱くてしかたがなかった。私は俯き加減で

残り少ないソイラテを回す。

 そんな私の様子を俊さんは頬杖をついて、ほほ笑みながら見ていた。

 私を気にしてか分からないけど、彼は腕時計をチラッと見て話はじめる。

「じゃあ、三つ目」

「うん」

「事業会社のマーケターが手掛けるマーケティングって、どんな仕事だと思う? 雫

ちゃんのイメージを自由に言っていいよ」

 たぶん、私が事業会社で勤めたことがないことを配慮して、自由にと言ったのだろ

う。でも、いい加減なことは言えない。私は五秒ほど考えてから口を開こうとしたけ

ど、思いとどまる。

 事業会社と言っても幅が広すぎる。飲料、化粧品、製造、不動産など様々な企業や

ブランド、サービスがあって事業会社のマーケティングを一言で言い表すことができ

るのだろうか。

 これまで関わった得意先のマーケターの方々を思い出して言葉にしてみる。

「生活者の役に立つ商品を開発して、パッケージデザインを決めて、それからどのよ

うに流通させるかの選択や認知のための広告宣伝、PR、そして価格を決める仕事を

しているイメージを持っている」

 俊さんは頬杖を外し、テーブルの上で手を組んだ。

「もっと要約すると?」

「う~ん、サービスや商品を考えて売れる仕組みを考えること? ダメかな?」

「ダメってことはないよ。正解なんてないんだから」

「なにそれ」

「エッセンスを抽出するために考えることが大事なんだ」

「じゃあ、俊さんだったらどう答えるの?」

「価値を創って生活者に届ける」

 あまりにも短い言葉で私は拍子抜けしそうになる。だけど、心の中で彼が口にした

言葉を味わうほど、とても濃縮された言葉であることの実感が強くなるばかりだった。

「これだと、短すぎるかな。具体的に言うと、生活者の欲求を満たす価値を自社の資

産を活かしてどのように創造するのか。創造した価値をどのようにして生活者に届け、売上や利益を最大化するための価格決定などの活動全般が事業会社のマーケターがやっているマーケティングだと考えている」

 彼の言葉は正しいようで、でもどこか引っかかる気がする。

「言われたことは分かる気がするけど、私が知っている得意先のマーケターの方々が

担っている業務と違う気がするけど」

「確かにね。俺が言ったマーケティングの仕事を全部再現できている会社は少ないよ。外資系の会社やマーケティングに定評がある日本の一部の会社くらいかな。実際は、広告宣伝の仕事やイベントがマーケティングと混同されていることが多いしね」

 思い当たる節はある。普段接する宣伝部の方々やブランドマネージャーは俊さんが

言ったマーケティングの一部を担っていることが多い。もしかしたら、日本の会社は

マーケティングを正しく理解している人が少ないだけではなくて、統合的にマーケテ

ィングを実施するための組織体制になっていないのかもしれない。商品企画や宣伝部

というように組織も分割しているし、企業活動をコントロールして全体最適が図りに

くそうだ。

「事業会社のマーケティングを正しく理解することが、どう役に立つの?」

「質問返しで悪いけどさ、仮にオリエンで提示される方針がベストじゃないとしたら

?」

「あっ」

 頭の中でパッと何かが光った。夜空に鮮やかに輝く打ち上げ花火のような大きな光

だ。

「悪い戦略と良い戦術」

 俊さんは何も言わず、ニッと笑う。彼の表情を目にして、なんだか胸が熱くなる。

思わず私は、頭の中に湧き出てくる言葉を止められなくなり口を開く。

「そっか、そっか。分かった、分かったよ俊さん。得意先のオリエンで受け取った情

報通りにストラテジーを組むだけでは不十分なんだね。オリエンで提示された情報だ

けではなく、自分自身で本流であるマーケティング戦略を理解して、広告宣伝の方向

もマーケティング戦略と整合性が取れいるか、一貫性があるかを確認する」

 花火大会のクライマックスのように、怒涛の勢いで花火が打ち上げられるように話

していた私だったけど、静寂を好む魔女に頭の中から言葉を奪われてしまったかのよ

うに口から出る言葉が止まる。

 俊さんは不思議なものでも目にしたかのような表情をしていた。

「ねえ、俊さん」

「どうしたの?」

「もし、オリエンの内容がベストでなかったり、得意先が策定したマーケティング戦

略自体が良くなかったりしなかったらどうするの?」

 彼は無言で私の目を見ているだけだった。その目から言葉を引き出したくて、私は

続けて言う。

「ねえ、俊さんなら恐れずに踏み込む?」

 御社のマーケティング戦略は良くないですね、なんて言えやしない。そんなことを

言った日には、私の居場所はなくなってしまう。得意先のために恐れずに言うのが正

解なのだろうか。俊さんの口から、どのような回答が出てくるのか気になる。

 ――気になる。

 ――とても気になる。

 確信はないけど、俊さんなら得意先の利益につながるならどんなことでも言いそう

に思えた。だけど、彼の口から出たのは、意外な言葉だった。

「ケースバイケースかな」

「そうなの?」

「ケースバイケースというより得意先によるかな。例えば、オリエンの内容がマーケ

ティング戦略からずれていた場合、オリエンの内容に基づいたA案とオリエンのター

ゲットや訴求内容を再構築したB案を出すことがある。関係性が薄い新規の得意先や

自分たちの戦略に絶対の自信を持っている得意先には、マーケティング戦略を見直し

た方がいいですよと提言するタイミングは慎重になるね」

 きっと彼のように柔軟な対応は私にはまだできない。だけど、思い返してみると、

私の上司はB案も出してほしかったのかもしれない。オリエン通りの回答をまとめる

のではなく、私がベストだと考えるものを提示してもらうことを心のどこかで期待し

ていたのかもと思う。

 話に夢中になり、どれくらいの時間が経過したのか分からない。入店した時にはほ

ぼ埋っていた周りの席には、ほとんど空席になっていた。

 ストローに口をつけて、シュッと吸い込む。

 口にしたソイラテは、氷が解けて完全に味が薄まっていた。


 もわっとした空気の中を、泳ぐように歩いていた。

 纏わりつくように重たく生温かい空気が、あと何日日本に留まるのかを考えるだけ

で、うんざり気分になる。

 スタバが入っているビルから出て、俊さんの後について歩く。目の前にある背中を

見ながら、少しばかりため息をつきたい気分だった。

 過信していたわけではないけど、中規模なキャンペーンを任されるようになり、少

なくともストプラとしての成長を実感していた。自身の成長を実感しながら仕事に取

り組む一方で、上司が唸るようなストラテジーをまだ提示できずにいたことが、手か

ら離れた風船が木の枝に引っかかるように、心のどこかに引っかかっていた。

 俊さんに聞こえないように私は呟く。

「まだまだ道のりは遠いや」

 視線が少しずつ道路に向かっていく。

 ぼんやりと俊さんの左手が視界に入った時だった。無性に彼の手を握りたくなった。その手を掴もうと手を伸ばす。あと三センチで指が触れる距離で私の手は止まった。

 ――握ってどうなるというんだ?

 春の寒い夜、元彼に手を振りほどかれた記憶が瞬時に蘇る。あの時のように掴んだ

手を振りほどかれるかもしれないと考えると、街の喧騒や熱帯夜の熱い空気とは逆に、気持ちが急に冷静になった。だけど、握り損ねた彼の手から目が離せない。手を見たまま一○歩ほど歩いた時だった。

 俊さんの肩に思い切り鼻をぶつけた。ワサビを食べすぎた時のように鼻がつーんと

なり、手で押さえた。

「大丈夫?」

 私は涙目になりながら大丈夫と言う。赤信号だったから立ち止まった俊さんに気付

かずに、ぶつかった私が悪い。

「ごめんなさい、考え事してて」

 手を見ていた、なんて言えやしない。

「どうやって帰るの?」

 定期券のルートはセンター北から日吉経由で虎ノ門ヒルズ駅に通うルートだ。

 俊さんは日吉に住んでいる。一人で帰宅することもできたが、俊さんと日吉まで一

緒に行くのも悪くはなかった。でも、一人で帰りたい気分もどこかにあった。

 心が決まらないまま、私は言う。

「いつも日吉からグリーンラインで帰ってるよ」

「じゃあ、日吉まで一緒に帰ろうか」

「はい」

 私たち地下鉄の入り口に向かった。地下ホームだけど、空気がもわっとしていた。

俊さんは何も言ってなかったが、こめかみの辺りをハンドタオルで拭う姿は、暑さを

我慢していることを物語っていた。

 暑いと一言も文句を言わずクールぶっているけど、本当は暑いんだ。暑い暑いと愚

痴をもらす俊さんも見てみたい気もするが、他の人が嫌な気持ちになる言葉を無闇に

言わないところが俊さんらしいなと思った。

「そう言えば、俊さんってどこ出身ですか?」

「俺は仙台だよ」

「えっ、そうなの?」

「言ってなかったっけ?」

「言ってないよ」

 電車の接近のアナウンスが流れる。蒸し暑いホームよりは電車の中の方がましだ。

普段は冷房が効きすぎじゃないかと思える電車も、こういう日は待ち遠しい。

 まあまあの混雑具合の車両に乗り込み、ふーっと息をはいた。そして先ほどの続き

を言う。

「同じ東北出身なら早く言ってよ」

「同じ東北?」

「そう、私は秋田。東北出身者同士でしょ」

「雫ちゃん、秋田出身なんだ」

 今更知ったの? と言いたくなったけど、私の出身地の話は藤木さんたちとしかし

ていないし、ねことまたたびでの彼は拓さんのフォローで忙しいから、私たちの話を

耳にしていなくても無理はない。

 こんな調子でしばらくの間、私たちは東北のことを話題に話し合った。

 ねこのまたたびにいる時とも違う。サイクリングロードに連れて行ってもらった時

とも違う。先ほどスタバでレクチャーしてもらった時とも違う。なんだか、初めて目

にするような雰囲気の俊さんだった。

 穏やかで、昔を懐かしむような目をしながら私と言葉をやりとりする。もし私に兄

がいたなら、彼のような存在かもしれない。

 そう思っている時に電車は恵比寿に停車した。普段より大勢の人が乗り込んできて

押しつぶされそうになる。俊さんと向かい合って話していたから、背中を押された私

は俊さんの胸に飛び込む形になってしまった。

「大丈夫?」

「は、はい」

 身動きが取れなく、彼に密着したままの状態で電車は動き出した。

 今日は会社を出てから急いでスタバに向かったから、自分が汗臭くないか、腕がベ

トついていないか、そのことが心配だった。少し俯いてしまい、俊さんの肩におでこ

が当たる。やばいと思って顔を上げようとしたけど、カーブを曲がる電車の遠心力に

バランスを崩した乗客の加重が私の背中にかかる。更に私の後頭部に後に立っている

人の肩が圧し掛かってきて頭が上げられない。

 次の瞬間、俊さんの腕が私の頭と乗客の肩の間に滑り込み、私の頭を包むような位

置取りをして加重がかかるのを緩和していた。

 その様子を知って、私は思わずほほ笑んでしまう。

 満員電車は暑苦しいけど、このままの状態でも悪くないと思えてしまう。もうすぐ

東急線に乗り換える中目黒に着くけど、もうちょっとこのままでいたいなと思った。

 そんな私の思いなんか気にかけることなく、電車は中目黒に着いた。

 電車を下り、大和行きの電車を待つ。

 こういう時、なんて言えばいいのだろう。たぶん俊さんの行動は私を気遣った行動

だったのは間違いない。

 そんな戸惑いを隠せずにいた私を見たのか、俊さんは言う。

「さっきは大丈夫だった? すごい混んでたな」

「うん、大丈夫」

 彼は安心したようにほほ笑む。

「あの」

「ん?」

「さっきは、ありがと」

 鳩が豆鉄砲でも食らったような表情をしていた。なぜ礼を言うの? と言っている

ような目をしていた。

「ああ、気にするな。満員電車だと女の子は顔とか頭が男性の肩や背中にぶつかって

痛い思いをすることあると思うけど、あれくらいしかしてやれないしな」

 ああ、拓さんといい俊さんといい、どうしてねことまたたびの二人はこんなにも優

しいのだろう。藤木さんも優しいし。

 何だか別れた彼のことが頭に浮かび、涙が溢れそうになった。

 私は汗を拭くふりをして顔にフェイスタオルを当てた。


 日吉駅で俊さんとバイバイした。

 グリーンラインに乗り換えた私は、しばらくスマホでニュースを読んでいた。だけ

ど、日比谷線での出来事が頭に蘇り、スマホをバッグにしまい目を瞑った。

 最近、俊さんのことを考える時間が増えてきている気がする。そんな自覚はあった。

一方で明確な理由は分からずにいた。

 ねことまたたびで会っているから?

 一緒にサイクリングロードを走るようになったから?

 藤木さんのひと押しでレクチャーをしてもらえたから?

 スタバを出て虎ノ門ヒルズ駅に向かう途中に、彼の手を握りたくなった衝動を思い

出す。あの時の無性に手を繋ぎたくなった気持ち。

 ――私は俊さんが好きなのだろうか?

 突拍子もない思いつきだったが、一方で多少の説得力もあった。私の中に芽生えた

この気持ちは恋愛感情なのかもしれない。そう考えた方が自然であるような気がした

し、否定する要素もないような気がした。

 俊さんと一度手を繋いでみたい。俊さんとどこか二人で遊びに行きたい。土日に多

摩川のサイクリングロードを二人で走るのではなく、デートしてみたい。

 藤木さんにこのことを話したら、簡単や、遊びに行こか? で済むやん、と言われ

そうだ。そんな一言で俊さんが了承してくれるなら苦労はない。

 ああ、俊さんが私と一緒に出かけてくれる魔法の言葉はないだろうか。

 人の心を動かすコピーライターのように、どう言えば俊さんは頷いてくれるだろう

か。

 電車に揺られながら、私はそのことばかりを考えていた。

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