まるで魔法のような言葉④

 そよ風が押すように、ゆっくりと扉を開けた。

 蝉の鳴き声が暑さを助長しているようで、一秒でも早く蝉の鳴き声が届かない空間

に入り込みたい衝動を抑え、久々に手のひらに伝わる木の感触を味わう。扉が開くに

つれ、食欲をそそる香りが鼻孔に届く。

 物陰から周囲の様子を探る猫のように、私は店内を覗き込む。

「いらっしゃー、あっ、雫さん」

 第一声は、やはり雪奈さんだった。

 私は言う。

「こんにちは、お久しぶりです」

「そうね、久しぶりですね」

 彼女の笑顔を見ると、蝉の鳴き声が遠くに薄れていくようだ。

「空いてますか?」

「ちょうどカウンター席が一つ空いてますよ」

 雪奈さんは扉を開け、私を招き入れる。お店に入って飛び込んできた光景は、奥の

カウンター席に座ってニヤニヤしながら手を振る藤木さんと穂乃香さんだった。

 私はキッチンに立つ拓さんと俊さんに、こんにちはと言って席に座る。

「ようやく、来たか。そろそろ来るんやないかと、二人で話しとったところやわ」

「噂をすれば、なんちゃらというやつやな」

 二人の関西弁にも慣れたが、姉さんたちの勘には寒気を覚える。

「なんだか、猫とまたたびのごはんが食べたい気分だったんです」

「別に、毎回来てもいいんやで」

 先ほどのニヤニヤ顔とは違い、藤木さんは優しくほほ笑んでいた。

「拓さんの料理が食べたくなったら来ますよ」

「せやな」

 それくらいが丁度いいんや、と言っているような気がした。

「お二人は何を頼まれたのですか?」

「これや」

 藤木さんがそう言ったタイミングに合わせたかのように、二人の目の前にビーフス

トロガノフが盛られたお皿が置かれた。皿が置かれると、二人は自慢げににやけた。

「ビーフストロガノフですか」

「なんや、知っとるんか」

 拓さんが作るビーフストロガノフは、一般的なビーフストロガノフと見た目が異な

る。かなり独自にアレンジしたレシピなのだろう。一見したら何の料理か分からない

一皿に仕上がっている。

「勘です」

「鋭いな、雫ちゃん」

 今日は猫とまたたびにとって初のランチ営業だ。その前に拓さんが提供しようと考

えていた料理を口にした、なんて言ったら二人に頬を摘まれそうだ。

 だから、ほほ笑んで誤魔化す。

 座る前に店内を見回す。パスタを食べている人もいれば、ビーフストロガノフを食

べている人、皆それぞれ好みの料理を頼んでいた。私は席に座る。

 雪奈さんが作ったのだろうか、席にはランチメニューが立てかけられていた。私は

メニュー表を手に取る。緑色の厚紙に手書きでメニューと猫のイラストが描かれてい

た。可愛らしくて、思わずほほ笑む。

 メニュー表には、ごはんとパスタと書かれていた。


 <ごはん>

 拓のお手製ビーフストロガノフ

 拓のタイ風カレー(チキン)


 <パスタ>

 きのこなすベーコンのパスタ

 ボロネーゼ

 レモンパスタ


 パスタには「俊の」が書かれていなかった。

 ――俊さんらしいや。

 久々に見るキッチンでフライパンを振る俊さんの姿を、メニュー表から覗き込むよ

うに見上げた。その様子に気付いたのか、俊さんはチラッと私を見て笑った。何にし

ようか迷っていたけど、俊さんの顔を見て注文する料理が決まった。私は手を上げて

雪奈さんを呼ぶ。

「お決まりですか?」

「はい、レモンパスタをお願いします」

「ありがとうございます」

 注文内容を俊さんに伝えた雪奈さんは、即座にサラダの小鉢を持ってきてくれた。

セットされているフォークを手に取る前に手を合わせる。

「いただきます」

 私の声が聞こえたのか、拓さんは小さな声で「召し上がれ」と言った。

 サラダは市販のドレッシングではなく、初めての味わいのドレッシングだった。オ

リーブオイルベースのドレッシングで、爽やかな酸味の柑橘系の果汁が混ぜられてい

る。レモンほどきつくない酸味と独特の香りからするとライムだろう。酸味のおかげ

でミニトマトの甘みが引き立っている。リーフの僅かなほろ苦さ、パプリカの甘み、

生ハムの塩っけが口の中で混ざり合い、咀嚼する度に野菜の旨味が口に広がるようだ

った。

 思わず言葉が出てしまう。

「このサラダ、美味しい」

 私の言葉に反応したのは穂乃香さんだった。

「せやろ。このサラダ、めっちゃうまいねん。私な、たぶんでっかいボールでも全部

食べられるわ」

 藤木さんと私は笑う。藤木さんがどうして笑ったのか分からないけど、私はトムと

ジェリーのジェリーが、お腹いっぱいチーズを食べて、お腹を膨らませて寝ている姿

を連想して笑った。

 前から思っていたけど、猫とまたたびの構図はトムとジェリーのアニメに似ている。拓さんがトム、俊さんがトムの友達の猫、そして二匹の猫をいじるジェリーが穂乃香さん、藤木さんはジェリーを助ける番犬。なんだかぴったりだ。皆には口が裂けても言えないし、穂乃香さんを咄嗟にジェリーさんなんて言わないように気をつけないと。

 こうやって二人が作る料理の香りと笑い声で溢れる雰囲気を味わうと、目に見える

景色が太陽に照らされたように明るく見えるようだ。

 ちゃんとした趣味を持てたし、明るく、そして時には厳しく接してくれる姉さんた

ちがいて、いつも美味しい料理を振る舞ってくれる拓さんと俊さんがいる。幸せだな

と心の底から感じる時間を過ごしているのは久々だ。。

 ついつい嬉しくなって、笑いそうになる。私は自分を誤魔化すように、水を口にし

た。

「雫ちゃん、痩せた?」

 穂乃香さんは丸い目を更に大きくして、私を凝視していた。

「そう見えます? 体重は変わっていないんですけんどね」

「痩せたと思うで。顔のラインが以前よりシュッとしとるわ」

 自分では分からないが、他の人が見たら顔のラインが変わったのだろうか。

「この子な、ロードバイク始めたんや」

 藤木さんが言う。

「えっ、ほんまに。そりゃ、凄いな。俊くんみたいに、レースも出るんか?」

 穂乃香さんは体を乗り出すように、訊いてくる。

「レースは考えていませんが、興味はあります」

「そうなんか。毎週、走っとる?」

「ええ、毎週走っていますし、今日も午前中走ってきました」

「暑いのに、よう頑張るな。まあ、頑張ることはええことやけど、のめり込んで走る

と俊くんみたいなごっつい脚になるで」

 私はレーパンから露わになった筋肉が隆起した俊さんの脚を思い出す。

 男女差があるから、あそこまでにはならないと思うけどな、と思った時だった。

「女性はそこまで太くなりませんよ。むしろカモシカのように、スラッとした脚にな

りますよ。どうです、穂乃香さんもやってみます? ヨガもいいけど有酸素系の運動

は痩せやすいですよ。はい、お待たせしました、レモンパスタです」

 俊さんは穂乃香さんに主張を述べてから、私の前にパスタの皿を置いた。

「そうかもしれんけど、私は自転車よりランニングのほうがええな。ランニングだっ

たら拓さんと一緒に走れるし、安上がりにできるもんな。自転車だったら、俊くんに

ビューっと置いてかれそうやわ」

 パスタの香りを嗅いでいた私は、視線を上げて俊さんの顔を伺う。ジェリーさん、

俊さんはそんなことしないよ、と心の中で呟く。

「置いていったりしませんよ。俺はそんなことするように見えます?」

「見える、見える。俊くん、意外とドライな一面あるしな」

 俊さんはフライパンを洗いながら、苦笑いしていた。

「穂乃香さん、俺そんなことしませんよ~。ロードバイクは紳士のスポーツと言われ

ているんですよ。だから、ロードに乗っている時は紳士らしく振る舞いますし、人を

困らせるようなことはしません」

「せやな。私も実際ロードに乗っているところ見たわけでもないし、ちょっと言い過

ぎたかもしれんな。紳士のスポーツをしているなら、普段の無愛想でなく紳士らしく

振舞ったらモテると思うで」

 結局いじることを忘れない。

 私は二人のやりとりを聞いてにやけながら、パスターをフォークに巻きつける。そ

して、ゆっくりと口に運びフォークが渡してくれたパスタをゆっくりと噛んだ。

 一度、猫とまたたびのディナーで口にした歯ごたえのあるパスタとは明らかに違い、ランチで提供されたパスタは生パスタだった。もちもちとした麺が、噛むごとに歯を押し返す。そして、麺が纏った塩分とレモンの酸味が舌の上に広がる。

 パスタの具は、鶏肉とズッキーニだった。削ったチーズが振りかけられている。あ

っさりとしたズッキーニはチーズを纏わせていただくと、とても合う。鶏肉はもも肉

だったけど、レモンのおかげでさっぱりと味わえた。私は藤木さんと穂乃香さんの話

を気にせず、夢中でパスタに向かった。朝早く起きて、多摩川を走ってきた影響もあ

るかもしれないけど、あまりにも美味しくて美味しくて無言で食べ続けた。

 空になったお皿にフォークを置く。

 残っていた水を飲み干す。

「ごちそうさま、とても美味しかった」

 キッチンんの二人は笑顔で応える。心から美味しいと思えたから言った言葉だけど、この言葉は二人を笑顔にする素敵な言葉だ。

 嬉しそうに藤木さんが言う。

「ええ食べっぷりやな」

 頬が熱くなる。

「ここに来る前に練習してきたので、お腹が空いてたんです」

「健康的でええことや。そうやって、好きなことに打ち込んで、美味しいもの食べて、仕事も頑張っとる雫ちゃんは素敵やな」

 お世辞じゃなく、藤木さんは本当に嬉しそうに話していた。なんだか、年が少し離

れた姉ができたようだ。

「あと、彼氏ができれば言うことなしやな」

 穂乃香さんがスパイスの効いた一言を付け加える。

 まあ、彼女が言うとおり最近の私の生活は充実してきたと実感できた。以前よりも

余裕が持てて理沙に寛容に接することができるようになった気がするし、クリエイテ

ィブディレクターにも「良いアイデアが出るようになった」と言われた。本当は上司

のストラテジックプランナーに策定した戦略をほめてほしいのだけど、直属の上司か

ら褒められたことはまだなかった。

「仕事面もまだまだですよ」

「そうなの? 雰囲気が良くなってきて、万事順調という感じに見えたけどな」

 藤木さんは首を傾げる。

「今年に入って中規模キャンペーンのストラテジーを組ませてもらうようになったの

です。合格点をもらえるストラテジーを組めて、ある程度の成果は出せてはいるので

すが、強いストラテジーだねって言われるようなストラテジーを組めなくて。しっか

り市場分析や競合分析を行って、そのうえで思考を重ねてストラテジーを策定してい

るのですが、なんかしっくりこないのですよね。あっ、すみません。私べらべらと仕

事の話をしてしまい」

 私の話を聞いた藤木さんは、一瞬だけニっと笑いキッチンに向いて言った。

「俊くん」

 一通り料理の提供を終え、皿を食器棚にしまっていた俊さんが振り向く。

「今度、雫ちゃんに戦略の考え方を詳しく教えてあげてほしいねん」

「えっ、俊さんにですか?」

 俊さんが何か言う前に、私が言ってしまう。彼は私と同じく広告業界に勤めている

ことしか耳にしたことがなくて、実際どのような職種なのかは知らなかった。以前、

私の会社のクライアント先に常駐している様子だったから、広報の手伝いで出向でも

しているのかと想像していた。

 藤木さんが言う。

「料理と自転車しかやっとらんように見えるけどな、俊くんは昨年までバリバリのス

トプラやっとったんや。普段は無愛想だけどな」

「こらこら、無愛想とか余計ですよ」

 俊さんは恥ずかしそうに、藤木さんの話につっこむ。

「本当のことやないか。まあ、こう見えても色々な企業のマーケターが唸る戦略を立

てていたことは確かやな。だから、雫ちゃんに役立つノウハウはかなり持ってるで。

しかもな、俊くんは今広告会社に勤めとるけど、元々は事業会社のマーケターだった

ので、プロパーで広告会社のストプラになってる人たちとは一味違うで。ええ機会や、色々教えてもらい」

 ありがたい話だが、俊さんは恐らく私と違う会社の社員だ。

 私は尋ねる。

「あの、藤木さん。俊さんは私と違う会社の方ですよね?」

「その通り違うで。俊くんは、汐留の会社や」

 もしかして、俊さんは汐留か赤坂の会社に勤めているのではと思っていたが、予感

は的中してしまった。同じ会社だとしてら教えを乞うこともできるかもしれないが、

会社規模は大きく違えど業界内では競合他社だ。俊さんがどう考えているか分からな

いけど、敵に塩を送ることになるのではないだろうか。

 戸惑いを隠せず、声が上ずってしまう。

「藤木さん、せっかくですが遠慮します。俊さんは猫とまたたびとロードの練習で忙

しいし、私は競合企業の人間にあたるし」

 藤木さんは笑う。

「ははっ、小さいこと気にしなさんな。困っている友達を助けるみたいなもんや」

「そうですか?」

 私は恐縮する。

「雫ちゃん、まじめやな」

 嬉しい申し出だが、俊さんは黙っている。やっぱり気が進まないのだろう。黙って

お皿を拭く俊さんの背中を叩くように、藤木さんは言う。

「ええやろ、俊くん」

「いいですよ」

 レモンのようなさっぱり感で答えるものだから、私は言葉を失う。

 呆然とする私を他所に彼は言う。

「雫ちゃん、いつがいい?」

 なんだか頬が引きつる。

「敵に塩を送ってもいいのですか?」

「そうは思わないよ。雫ちゃんが一人前のストプラになってクライアントの役に立つ

と喜ぶ人が増えるでしょ。雫ちゃんとコンペでぶつかることがあったら、その時はそ

の時でしょ。お互い正面からぶつかって良い企画を作ればいいんだ。俺はもっと、若

くて勢いのあるストプラが増えてほしいなと思ってる」

 この人の思考が理解できない。ありがたいが、何を考えているのだ。他社のストプ

ラを一人育てたところでコンペの勝利数は変わらないとでも思っているのだろうか。

 段々と胸の奥が熱くなってきたと同時に、ちょっとムカついた。

 ――それなら、やってやる。

 私は立ち上がって言う。

「俊さん、お願いします。私に教えてください」

 言い終えると、ストンと座って水を飲み干した。

 気持ちが落ち着くとともに、後悔に似た念が私の中で広がる。これじゃあ、激情家

みたいじゃないか。私は両手で顔を覆った。

 藤木さんは私を見透かしているようにほほ笑んで、私の肩に手を置いた。

 彼女は私の耳元で囁いた。

「チャンスやで」

 それなら、とことん俊さんからノウハウをもぎ取ってやると私は心に決めた。

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