まるで魔法のような言葉③

 暑さにギブアップして、センター北に戻ってきた時だった。

「雫ちゃん?」

 聞き覚えのある声に振り向くと、拓さんが驚いた表情を浮かべて立っていた。

 私が「こんにちは」と言うと、拓さんも「こんにちは」と言った。

 私も驚いた。なぜなら今日は猫とまたたびは休業の日と聞いていたからだ。彼が今

日ここにいることに対し驚くことは自然なことだと思うけど、なぜ私がここにいるこ

とに対し驚かれなければいけないのだろうか。

「自転車始めたの?」

 ああ、そういうことか。

 サイクルジャージを纏い、汗だくでバイクを押して歩いている姿を目にすれば、驚

くのも無理はない。拓さんが知らないということは、俊さんや藤木さんはやっぱり人

のことを色々話すことはしない大人だということだ。

「始めたんですよ。まあ、本当に始めたばかりなんですけどね」

 拓さんはにっこりとほほ笑む。今日の太陽も、彼のほほ笑みくらい優しく照らして

くれるとありがたいのに。

 行こうか、と言われずとも私たちは自然と歩き出した。

 駅前広場に集まる人々の声、私たちの足音、そしてロードバイクのチッチッチッチ

という音、そして蝉の声。

 それにしても暑い。

 暑さなんか平気だよ、という表情で拓さんは言う。

「新しいことにトライすることは、とっても良いことだと思うよ」

「そうですね、私もそう思います」

 自分で勇気を出して新たな一歩を踏み出したことを褒められると、素直に嬉しい。

嬉しさを誤魔化しきれなくて、私はついほほ笑む。

 拓さんとこうして二人で話すのは初めてだった。お店にいけば、私以外の来店客や

俊さんや雪奈さんが彼の周りには必ずいる。それに、お店では料理の話題以外の話を

したことがない。

「そういえば、拓さんは何かスポーツやっているのですか?」

「僕はたまにランニングをするくらいで、本格的にやっているわけではないんだ。体

型を維持するのが目的で走っているようなものかな」

「へー、拓さんも俊さんと同じく何かスポーツやっているかと思っていました」

「俊くんはバリバリやっているけど、僕はどちからというと文系かな。映画館や家で

映画を観るのが至福の時だね」

 分かる気がする。社会人になってから運動とは無縁になった私が好きなことといえ

ば、広告を見たり考えたりすることだった。某社のビルにあるアドミュージアムに足

を運んで、昭和時代の広告を見て歴史の流れを感じたり、駅や電車の広告を見かけて

は、広告ターゲットと訴求しているベネフィットは何であろうかと、広告の裏側に潜

むクリエイターやプランナーの思考を紐解くことに没頭することが多い。

 二○台後半になって仕事に忙殺されはじめた頃から、休日に大好きだった広告のこ

とを考えることもしなくなった。疲れ果てた脳と体を休めるために昼まで寝て、それ

でもだるさが残る体に鞭打って家から出かけ、半日にも満たない彼と過ごす時間を楽

しむようにしていた。

 そういえば、あの頃は全然料理もしなかったな。俊さんは私と同じ広告業界に勤め

ているのに、ワークライフバランスが崩れていなさそうだ。私と働き方が違うのだろ

うか。

 それに、拓さんも仕事と趣味をうまく楽しんでいるように見える。

「料理は?」

「あっ、料理も趣味だった」

 彼のおどけた様子に私は笑う。

「ところで、今日は何か用でもあるのですか? 猫とまたたびはお休みですよね」

「そうなんだ。ちょっとメニュー開発をやろうと思ってね」

 私は首を傾げる。

 なぜなら、猫とまたたびは決まったメニューを提供しているお店ではない。来店客

の気分や食べたいものを聞いて、その人にあった料理を作ることをスタンスとしてい

る。拓さんが口にしたメニュー開発とは、つまり自分のレパートリーを増やすための

メニュー開発ということだろう。

 私は尋ねる。

「新しい料理を試すなら、家でも出来るのでは? こんな暑い日に、わざわざセンタ

ー北まで出てきて、店舗でやらなくてもいいと思いますけど」

「僕ね、家だとつい映画を観てしまうんだ」

「あっ、家だとだらけちゃうタイプでしょ」

「うーん、そうなるのかな。別に家でする仕事をさぼっているわけじゃないから、だ

らけることになるのかな」

「分からないよ。でも、そこまでして開発しないといけないの?」

「お客さんの要望だからね」

 私は再度、首を傾げ「分からない」と言って続ける。

「拓さんが作れない料理でもリクエストされたの?」

 彼は首を横に振った。

「えっとね、ランチをやってほしいと言われたんだ」

「ランチか~、いいですね」

 実は私も猫とまたたびがランチタイムもやっていたらいいなと思っていたこともあ

った。普段忙しい上に貴重な土曜日を猫とまたたびのオープンに時間を割いている二

人を目の当たりにすると、ランチをやってなんて口が裂けても言えなかった。

 だから、ランチをやってと要望を口にできるのは、藤木さんか穂乃香さんしかいな

いなと頭に二人の顔が思い浮かぶ。

「毎週じゃ大変だから、月に一回だけやろうと思っているんだ」

「そうだよね」

 そろそろ猫とまたたびがある路地に差し掛かる。

 彼は言う。

「ねえ、雫ちゃん」

「はい」

「今日はもう走り終わったんでしょ」

「はい、練習は終えました」

 今日は三回目のライドで、初めて一人で多摩川のサイクリングロードを走った。俊

さんはレースで一緒に走れないから、とりあえずロードバイクに慣れるためにも一人

で走れる範囲で走ったほうがよいとアドバイスされた。

 暑さで疲れて、今日の午後は何もする気が起きなかったところだ。

「じゃあさ、着替えたらお店においでよ」

 そう言って彼は手を振りながら路地を曲がってお店に向かった。

 藤木さんと河川敷で話して以来、私はまだ猫とまたたびに訪問してない。


 シャワーを浴びて、着替えて猫とまたたびに向かった。

 看板が出ていない猫とまたたびを訪れるのは初めてだった。そういえば、平日に開

店している本来のカフェにも足を運んだことがない。

「いらっしゃい」

 扉を開けると、キッチンにいる拓さん夜の営業の時と同じように元気な声で私を出

迎えてくれた。

「疲れているところ、ありがとう。とりあえず座って」

「はい」

 私は座ることが多い奥から三番目のカウンター席の椅子を引いて腰を下ろす。

 閉店日だけど、キッチンから美味しそうな香が立ち上っていて、練習でエネルギー

を使った体が食べ物をよこせと胃を締め付ける。

「私、何か手伝いましょうか?」

「ううん、いいよ。雫ちゃんに味見をしてもらいたくって呼んだんだ」

 手伝うとは言ったが、それほど料理の腕があるわけでもない私が手伝ったところで、彼の役に立つことはあまりできそうにない。

 店内には、拓さんが包丁で食材を刻む音、フライパンで食材を炒める音だけが、淡

々と響く。

「ねえ、拓さん」

 私自身、どうして彼に話しかけたのか、よく分からなかった。いつの間にか拓さん

の名前を口にしていた。このタイミングで訊くべきことがあるような気がしてならな

かった。

 すぐ次の言葉が出てこなくて、拓さんは首を傾げる。

「どうしたの、雫ちゃん?」

 普段は言いたいことを決めてから話すことが大半だ。広告コミュニケーションに関

わる者として、自分の周りにいる人に自分の考えをしっかり伝わるように気をつけて

いる。自分が彼に何を話そうとしているのか、何を訊こうとしているのか頭の中で整

理できずに話すことなど滅多にないことだ。

 私の口から出てきた言葉は、意識していない言葉だった。

「拓さんは気になる人、誰かいるの?」

 彼はほほ笑んで、私に背を向けた。そして、食器棚からターコイズブルーの丸いお

皿を取り出し、まな板の脇に置いてから彼は言う。

「気になる人か……」

 そう言って、彼は天井を見上げた。彼の見上げ方は、なんだか明日の天気を気にす

るように、夕方の空を眺めているような仕草に私の目に映った。

 彼はいつものように、春の陽気のように優しくほほ笑んだ。

「いないと言えば嘘になるかな」

「うん……、そっか」

 それ以上は訊かなかった。

 訊かなかったというより、これ以上訊く覚悟がなかった。興味本位で訊いていいこ

とではないように思えたからだ。

 私の頭の中で、藤木さんと彼女の顔が浮かび上がる。拓さんが気になる人は私が想

い浮かべた二人のうちのどちらかなのだろうか。それとも、私が知らない誰かなのだ

ろうか。

 もし、私が知る人だったとして、三人の繋がりを構成する糸を知ったところで、私

がどうこう口出しできるほど彼らが積み重ねてきた歴史は軽いものではない。彼らに

は、彼らの距離があるわけで、私の軽率な言葉で絶妙に保たれている距離を壊しては

いけない。

 だから私はそっと目を閉じて、バッグから取り出したアイスティーを一口飲んだ。

水分でも摂らないとお腹が鳴りそうで仕方がなかった。

 再び店内にはシャッシャッシャとアーリーレッドを刻む音がリズミカルに鳴る。静

かな午後のティータイムは茶室を訪れているような感覚を与えてくれた。私は天井を

見上げる。木の天井が見えるだけで、空は見えない。

 たまに、空を見上げたくなる。小さな存在だけど、この地球上で生きていることを

噛みしめ、能動的に時間を消費していることを再確認したくなる。コンクリートジャ

ングルで自我を失い、ただただ流れる時間に身を任せるように生きてはいないんだと。私は怖いのかもしれない。彼を失って、まだ完全に自信を取り戻せずにいるのかもしれない。当たり前のように夜が明け、再び夜が訪れれば当たり前のように夜空に月が輝く。彼がいてくれた日々を当たり前のように捉えていた。仕事でどんなに疲れていようと、彼が笑って元気づけてくれると思っていた。だけど、そんな日々は当たり前ではなかった。

 再び自信を取り戻し仕事に取り組んでいるように取り繕っていても、こうして空を

見上げると、弱々しいため息がでてしまう。女性は男性よりも過去を引きずらないと

言われているけど、悲しい出来事をすっぱり忘れて次の一歩を踏み出せるほど、私の

心は簡単にはできていない。


「はい、お待たせ」

 拓さんの声で、我に帰った。

 ターコイズブルーのお皿にごはんと牛肉や野菜の炒め物が盛り付けられていた。

「食べてみて」

「はい、いただきます」

 私は手を合わせる。

 湯気が立つごはんをスプーンですくい上げ、二回息を吹きかけて冷ます。ちょうど

よい熱量になったところで、ゆっくりと口に運ぶ。ミルキーで若干の酸味を感じるソ

ースを纏った牛肉や野菜とライスが口の中で混ざり合う。その調和を高めるように咀

嚼を行う。

 キッチンを出てカウンター席に座った拓さんに言う。

「凄く美味しい。これビーフストロガノフだよね。私が食べたことがあるビーフスト

ロガノフよりも爽やかで、どんどん食べたくなる味」

「口にあって良かったよ、ありがとう」

 私の隣で、拓さんもビーフストロガノフを口に運ぶ。そして、小さく頷いた。

 その様子を目にして、私も嬉しくなる。彼が納得する出来の料理を、どう表現して

喜びを伝えられるだろうか考える。コピーライターではないけど、胸の内にある喜び

を洗練させて、どう表現しようか。

 私は言う。

「ランチで提供してくれるなら、毎回注文したくなっちゃうな」

 彼は優しくほほ笑む。

「俊くんのパスタがあっても?」

「うーん、それは迷うかも」

 彼は「ははっ、正直だね」と笑って、ビーフストロガノフを口にした。

「実はね、ランチは最初俊くんのパスタオンリーでやるつもりだったんだ。もちろん

彼は嫌がったけどね」

「どうして嫌がるの?」

「彼は当初、僕のお店を作りたかったんだ」

「拓さんのお店?」

「そう」

 ビーフストロガノフを食べ終えた拓さんは、キッチンの冷蔵庫からパックのコーヒ

ーを取り出し、私に「飲む?」と訊いた。私はアイスティーがあるから大丈夫だと言

う。

 彼はカフェラテを作り、席に戻る。

「僕の料理をホームパーティ以外の場所で提供しないか、って感じで猫とまたたびが

始まったんだ。だから、彼は僕をメインに据えてヘルプに回った。知っていると思う

けど、俊くんも相当料理が出来るんだ。だけどね、ここに来るお客さんは、僕の友達

やその友達が連れてきてくれた人が大半で、僕の料理を食べたくて来てくれているの

だから、あまり自分が表に立つのは気が進まない、というのが彼の主張なんだ」

 今では俊さんの考えは理解できる。彼は仕事でも猫とまたたびでも黒子に徹する主

義を貫こうとしているのだ。

 彼は続ける。

「たまにお客さんが俊くんのパスタを注文するんだよ」

「あっ、私も何度か見かけたことがある」

「うん。それでね、そのお客さんたちからランチもやってと要望があがったんだ。そ

れで俊くんと相談して月一回だけやることになった。俊くんは僕にも何か料理を出す

ことを望んだ。やっぱり彼はランチでも控え目でいたいみたい」

「分かる気がするけど、ランチは俊さんが前に出てもよかったんじゃないの?」

 やっぱり俊さんは、とことんこのお店の主役は拓さんだと考えている。

「僕もそう思ってパスタをメインにやろうと話したけど。朝練があるし、手打ちパス

タにするのであれば、そんなに量は作れないからパスタ以外にもメニューがあった方

がいいと言われたんだ」

「それで、メニュー開発することになったのね」

「そうなんだよね」

 彼は軽くため息をついた。そのため息は、もっと俊さんが目立ってもいいのに、と

言いたげなため息のように感じた。

 私は拓さんの気持ちも理解できたし、俊さんの考えも理解できる。この件も簡単に

口出しすべきではないと思った。

 話題を変えたくて、私は言う。

「ねえ、ビーフストロガノフってロシア料理じゃなかった?」

「そうだよ」

「猫のまたたびって、ビストロだよね。ロシア料理を提供して大丈夫なの?」

 彼はふふっと笑った。

「雫ちゃん、僕らは飲食業で生計を立てているわけじゃない。僕がフランス料理を作

れるからビストロのように見えるけど、僕らはビストロを意識してやっているわけで

はないんだよ」

 私は頷くと同時に胸がざわついた。

 ――ターゲットの気持ちは勝手に解釈しないこと。

 私の上司が口癖のように、いつも私に言う言葉が頭の中に響く。これまで何度言わ

れた言葉だろうか。仕事上では意識できているのに、オフになるとロックがかかった

キャビネットのように何も引き出せなくなる。上司から貰った言葉は仕事以外でも生

きるのに。

 いつの間にか彼らの取り組みを勝手に定義していたんだ。

 なんだか胸が苦しくて、私は思わず言う。

「ごめんなさい」

 拓さんはほほ笑んでこう答えた。

「謝ることじゃないよ、気にしないで。僕らは自由にやっている。雫ちゃんを始めと

したお客さんも自由でいてほしい。僕らの考えに縛られる必要なんてないんだ。だか

ら、雫ちゃんが猫とまたたびはビストロだと感じたのであればそれでいいよ」

 彼は笑って言う。

「それで、味はどうだった?」

「うん、美味しかったし、クリーミーだけど爽やかだったからスイスイいけちゃう味

だった」

「それは、よかった。これで自信を持って提供できそうだよ」

「そうだね。この味だったら、藤木さんたちも太鼓判を押してくれると思う」

 藤木さんの名前を口にすると、彼女の言葉が胸の奥でリフレインする。

 ――拓さんが、好きやねん。

 切ない彼女の恋は、いつターニングポイントを迎えるのだろう。

 彼女の声を思い出すたびに、私まで切なくなる。

 クリーミーなビーフストロガノフの余韻は、三人のほろ苦い関係のように少し苦い

味に変化したように感じた。


     ☆


 夜風に当たりながらベランダで空を眺める。

 頭上には夏の大三角形が輝く。その輝きは儚くて、切なくて、三人の構図を表して

いるように見えて涙が浮かぶ。三角形の安定性という言葉を聞いたことがあるけど、

拓さんと彼女たちは安定を選んだのかもしれない。

 世の中の多くの恋は片思いだ。その片思いで終わった恋を心にそっとしまって、私

たちは大人になるんだ。そのことを分かっていても、たった一つの恋を胸に抱き、た

くさんの涙をこぼしたかもしれない二人を思うと、胸が締め付けられる。

 苦しむ私を夜風が優しく包み込んでくれる。

 あの二人は似ている。印象は全く正反対だけど、中身は献身的で思いやりがある。

そんな二人のお姉さんが私は大切に思う。どちらにも悲しんでほしくないし、二人と

も幸せになってほしい。だけど、どちかが拓さんと結ばれたとしても、一人は涙する。

 ――ねえ、どうするの?

 そっとしておくしかない恋だと分かっている。だけど、このもどかしさをどうすれ

ばいいのだろう。

 私は人差し指で、右目の涙をそっと拭った。

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