まるで魔法のような言葉②

 今年の梅雨は天気予報で流れていた梅雨明け予測よりも早かった。

 梅雨をもたらす雲が私たちの上空から消えると、待ってましたと言わんばかりに太

陽が地上に暴力的な光を浴びせる。

 週末に疲れをリセットした体に再び疲れが蓄積し始めたのを認識する水曜日、冷房

が効いた会議室で、私は腕組みをしながら彼女を凝視していた。

 会議室に凝縮した重たい空気に嫌気が差したように理沙が言う。

「どうして、ここ最近連続して私たちだけでプロジェクトを組むことになるの?」

 慰めるように新津さんが言う。

「嫌ですか?」

「別に嫌じゃないけどさー」

「何か不満でもあるのですか?」

「不満と言うかさ、どうしてこうも難しい案件にばかりアサインされるの?」

 新津さんは一切動じずに答える。

「難しい案件で成果を出してこそ、私たちの会社のプレゼンスを向上させられるチャ

ンスですし、逆にこういう案件で成果を出せないと存在価値を問われると思いません

か?」

 私は心の中でにニヤける。

 本来であれば私が理沙を宥めるはずだが、綜合飲料事業会社の案件を受注してから

というものの、新津さんが営業担当としての役割をきちんとこなせるようになってき

ていた。元々新卒にしては大人びている子だったし、自分の意見をしっかりと持って

いるタイプでもあったけど、波風立てることを恐れているのか先輩に対して強く言う

ことはこれまでなかった。

 ぐうの音も出ない理沙に対し私は言う。

「私も新津さんの言う通りだと思う」

「そうだけど。私思うんだけど、最近の雫さ、難しい案件ばかり引き寄せてない?」

「私が?」

「そう」

 私は心の中でため息をつく。

「難しい、難しいばかり言ってるけど、世の中に簡単な仕事って無いと思うけど」

「それは分かってる。でも、なんでクリエイティブ担当の私までキャンペーンのアイ

デア出しまでやらなきゃいけないの? 担当領域外じゃん」

「それ本気で言ってるの?」

「そうだよ」

「クリエイティブディレクターの方針を忘れたの?」

「忘れてないよ。だけど、納得できない。私は業務時間を会議とかに費やさず、全て

クリエイティブに集中したいの」

 そう言って、彼女は会議室の机を軽くトンと叩く。一応全力で叩くことは自制した

ようだ。

「それが嫌ならクリエイティブブティックかプロダクションにでも行けば? そうす

れば、代理店から振られたクリエイティブの仕事だけに集中できると思うよ」

 理沙の唇が少し潰れる。

 そして、いつものおっとりとした口調で言う。

「彼氏より仕事をとる雫には分からないよ」

 クーラーの設定温度を上げたのに、冷凍庫の中に手を入れた時に触れる冷気が会議

室に満ちたような感覚だった。

「ちょっと、天野さん」

 空気を察したのか、瞬時に新津さんが彼女を叱るように言った。

 私は本日二回目のため息を心の中でついた。このため息は理沙の言葉に対してでは

なかった。なんだか上司に見透かされているような気がしてならない感覚へのため息

だった。

 理沙の言い分も共感はできる。近年私の会社も労務管理が急に厳しくなった。これ

までは終電がなくなろうが、翌朝まで働こうが誰も文句を言おうとしなかった。それ

が急に残業時間は月○○時間以内に抑えろとか言われるようになった。このような状

況だ、自分の業務に関係なさそうな会議に参加するのは時間の無駄だと思えるのも仕

方がない。

「ねえ、理沙」

 彼女は俯いたまま、何も言わない。

「クリエイティブディレクターが、なぜアイデア出しの会議にプロジェクトメンバー

全員が参加するように言ったか訊いた?」

 彼女は首を横に振る。

「なんでだと思う?」

 理沙は顔を上げて私を見る。物陰から恐る恐る状況を確認する猫のような目だ。

「少しでもユニークなアイデアを出すため?」

「それもあるかもしれない」

「じゃあ、何?」

 私は彼女を諭すように言う。

「各担当者がキャンペーン全体を意識しながら、担当領域の仕事に取り組めるように

するためだよ」

「どういうこと?」

「理沙はクリエイティブ戦略に基づいてクリエイティブを考えるだけではなくて、キ

ャンペーンの全体像も意識してクリエイティブを進めるということ。私だったら、ス

トラテジーを組み立ててお終いじゃなくて、実行プランがストラテジーとずれがない

かを見たり、ストラテジストも実行プランを組めるようになれって言うことと解釈し

てる」

 理沙の隣に座る新津さんが頷いていた。

「そうだと思います。私もクライアントの窓口やって、案件があがったらプロジェク

トを立ち上げて、あとは皆さんにお任せとは思っていません。営業だから知れるクラ

イアントのインサイトから、キャンペーンのアイデアを出したり、皆さんから良いア

イデアを引き出すための情報提供をしたるするのも役割だと考えています。だから、

こうやって営業担当が関係なさそうな会議にも出ることも意味があることだと思って

いるんです」

 私は三度目のため息を心の中でついた。だけど、三度目のため息は賞賛のため息だ

った。私と理沙は幸せ者かもしれない。今飛ぶ鳥を落とす勢いのある新津さんのよう

に、優秀な営業担当からアサインの指名をもらえるのだから。

 ――しゃんとしないさいよ、理沙。

 私は彼女に向かって笑顔を向ける。期待を込めた笑顔を向ける。

 理沙はちらっと私の顔を見た。そして俯き加減で言う。

「分かった。雫、ごめん」

 その言葉を聞いた新津さんは引き締めていたように見えた表情を緩めた。

「お腹空きましたし、お昼食べにいきましょうか」

「いいね」

「新津さんのお薦め店にしようか」

「任せてください。その代わり、覚悟してください。私こう見えても、おじさん系で

がっつり系のご飯が好みですから」

「望むところだ」

 そう言って、理沙は席から勢いよく立ち上がった。


 新津さんに案内されて入ったお店は、鶏料理を中心とした居酒屋だった。

 地下にあるお店で薄暗く、ドアを開けた瞬間に唐揚げの香りに出迎えられた。一三

時を少し過ぎているから、待つことなくテーブルに案内された。

「油淋鶏がおすすめですよ」

 椅子に腰を下ろすと、パウチされたメニューを私と理沙の前に差し出した新津さん

が言った。

 私と理沙は勧められた油淋鶏を、新津さんは唐揚げ定食を頼んだ。

 少しべたつく床が気になっているのか、足元を何度か見ながら理沙は言う。

「新津さん、このお店によく来るの?」

「週一で利用しています。初めて他の方とこのお店に来ました」

「よく一人で来れるね」

 周りのテーブルには男性客しかいなかった。

「カウンター席もありますし、気軽に一人でも利用できるお店ですよ」

 きっと理沙が言いたいことは違う。

 仕事から離れると、時々新津さんはズレたことを口にするから面白い。そのことを

分かっているから、理沙はあえてツッコミはしなかった。

 一〇分待つと、私たちの前には黒いお盆に乗った定食が運ばれてきた。白いお皿に

盛られた油淋鶏は、皿からはみ出そうな大きさだった。

「私のこぶし二つ分くらいありそう。食べきれるかな?」

 理沙は苦笑いを浮かべて、弱気な独り言を発した。

「食べきれなかったら、パックに詰めてもらえばいいじゃない」

 私がそう言うと、理沙は安心したように「そうだね」と言った。

 半分ほど食べ進めた時だった。急に理沙が言う。

「ねえ、新津さん」

「なんですか?」

「どうしてさ、またこのメンバーでの案件対応なの?」

 新津さんは水を一口含んでから言う。

「マネジメントユニット長とクリエイティブディレクターの推しです」

「推し?」

「はい。飲料メーカーのクライアントからキャンペーンを受注できたこともあります

が、理沙さんは雫さんと組んでからクリエイティブのアイデアがとても良くなったと

評判なんです。なので、上から雫さんをアサインする時は理沙さんをとプッシュされ

たのが主な理由ですね。でも、私は上からのプッシュがなくても、お二人と一緒に仕

事をしたいと思っていますよ」

 先ほどの会議で不満を口にしていたことがまるで嘘だったかのように、理沙は照れ

くさそうに髪を撫でた。

「あとは、一緒に仕事をしたらコンペで勝てそうな気がすることです」

「どういうこと?」

 理沙がニタニタしているので、私が訊く。

「主に雫さんが纏う空気感ですね」

「私の?」

「はい」

「自分ではよく分からないから、詳しく教えてほしいな」

「飲料メーカーのプレゼンの三週間ほど前あたりから、雫さんの雰囲気が明るくなっ

たのを覚えています。後輩の私が言うのもなんですが、それまでは今にも倒れそうで

生気がないような雰囲気でした。プレゼンまで疲れている様子は変わりませんでした

が、表情や纏う空気感が少しずつ明るく変わってきたのを私は感じました」

 この子は私のことをよく見ているなと感心した。

 新津さんは続ける。

「最初は気のせいかなと思ったのですが、クリエイティブディレクターが雫さんにプ

レゼンを任せると言った会議があったじゃないですか」

「うん、あったね。唐突に言われてびっくりしたけど」

「あの言葉を聞いて、あっ、もしかしてディレクターも私と同じこと思っているのか

なと感じました。雫さん何か変わり始めたな~って。最初は予感でしたが、プレゼン

を聞いて確信に変わりましたし、凄く頼もしかったです。その時からですかね、雫さ

んと一緒だったら、コンペにも勝てそうな感じがしたのは」

 彼女が言った私が明るくなったというのは、ちょうど猫とまたたびに通い始めた頃

だった。自分では気づかないポジティブな小さな変化を、新津さんはキャッチしてく

れていたのだ。そのことに私は嬉しくなる。

 それと、新津さんの話を聞いて、クリエイティブディレクターにプレゼンを任され

た理由が分かった気がした。きっと、ディレクターも新津さんと同じ印象を感じ取っ

たのかもしれない。

「教えてくれて、ありがとう、新津さん」

「あっ、いえ。私なんかがおこがましいこと言って恐れ多いです」

「そんなことないよ。率直に感じたことを言ってくれて助かる。これからも頼りにさ

せてもらうね」

「はい、頑張ります」

 それは私の本音だった。年齢関係なく頼りになる彼女の存在は、ありがたかった。

 理沙が突如言う。

「やっぱり、そうだったのか」

「何が?」

 私は首を傾げる。

「彼と別れてすぐ、新しい彼氏を見つけたんだね」

 私は間髪入れず、理沙の脇腹を小突いた。

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