第三話 まるで魔法のような言葉

まるで魔法のような言葉①

 七月に入った最初の土曜日。

 その日は朝から雨が降っていた。小町鼠色の雲で、太陽の光が突き抜けそうに思え

る雲なのに、昼を過ぎても雨は止みそうになかった。あの薄い雲のどこに、地上を洗

い流すかのような水を湛えているのだろうかと、疑問の視線を空に向ける。天気予報

の通り、夜まで降り続けそうな気配だった。

 僕らが水に不自由しないのは梅雨のお陰だ、と会社の誰かが言っていた。だけど、

こうも雨の日が続くと、少し気分が滅入ってしまう。

「お待たせ。って早いね」

 空に向かってため息をつきそうになった時、俊さんの声が私を制止した。

「そりゃ、となり駅にくるだけですもん。それに、歩いて来れますし」

「雨の中、歩いて来たの?」

「そうですよ、たいした距離じゃないですし」

「確かにそうだね」

 猫とまたたびのキッチンに立っている時とは違い、普段の俊さんはシフォンケーキ

のように柔らかい表情を見せる。

「行こうか」

 私たちは駅を出ると、傘をさして歩く。目的地は俊さんが分かっているから、私は

俊さんの後ろをついて行くだけだ。

 縦に並んでいる上に傘を差しているから、お互いの距離が遠く感じる。

 大粒の雨でもないのに、傘にぶつかる雨音が大きくなったように聞こえた。

 藤木さんたちと二子玉川へピクニックをしに行った後から、私は猫とまたたびに訪

れることを自粛していた。藤木さんと顔を合わせるのが嫌だったからではないし、予

定が合わなく行けなかったわけでもない。

 自粛というよりも躊躇いに近いかもしれない。

 きっと、彼女に言われた依存という単語が心のどこかにひっかかっているのかもし

れない。

 俊さんに「どうして最近来ないの?」と訊かれると思ったけど、彼は私が予想して

いた言葉を口にする様子はなさそうだ。そもそも、猫とまたたびは二人が趣味で始め

たお店だから、私が来なくなったからと言って来店を促したりはしないのだろう。

 そうこう考えているうちに、ショップに到着した。

 初めて足を踏み入れるサイクルショップの中は、独特のにおいがした。並んで置か

れた自転車のタイヤのにおいだろうか。私にはっきりとは分からなかった。ただ一つ

言えることは地元の自転車屋さんとここのサイクルショップでは並んでいる自転車の

形が明らかに違っていたし、理沙に促されて以前ユーチューブで見かけたツールドな

んちゃらというヨーロッパで開かれる大規模な自転車レースに出ている選手が乗って

いる自転車と同じ形のものばかりだった。

 俊さんの後をついて歩きながら店内を見回すと、私の他にも何人か女性の姿を見か

けることができた。

 俊さんが立ち止まる。

「ここのメーカーのものが雫ちゃんにお勧めしたいロードだよ」

 白を基調としたものがあれば、黒を基調としたものもあった。一部にピンクや水色

のラインが入っている程度で、女性向け自転車と言えど、どちらかというと落ち着い

た配色が多い印象だった。

「リドレー、って読むの?」

「そう」

「私なりに調べてみたんだけど、女性に人気があるのはビアンキ、リブジャイアント、キャノンデール、トレックあたりなんだよね。どうしてリドレーなの?」

「知っているブランドの方がいい?」

「そういう訳じゃないけど」

 俊さんはほほ笑む。

 そもそも、なぜ私が俊さんと一緒にサイクルショップに来ているのかについては、

少し話を遡る必要がある。


     ☆


 耳に当てたスマートフォンから笑い声が漏れる。

「そんなん気にしてたんか」

「気にしますよ」

「雫ちゃんは、まじめやな~」

 二子玉川で藤木さんに、猫とまたたびに依存していると言われた。

「あれはな、注意喚起や」

「そのようには聞こえませんでしたよ」

 藤木さんと春香さんと三人でピクニックをした。ピクニックというより、二子玉川

で食事をして、河川敷で話し込んだだけだ。あの日から三週間が経過した。ここ最近

の週末は雨が降ったことも影響して、出かけずに家で読書ばかりして過ごした。

「そうだったとしても、私の愛情には変わりないで」

「そうですね」

「せやろ~」

 彼女のノリに、思わず笑ってしまう。

 笑い終えると、少しだけ開けている窓の隙間から入ってくる雨音に意識が向く。

「藤木さん」

「うん」

「私、運動を再開しようと思う」

「そら、ええな。何するんや?」

「まだ決まってなくて」

 大学を卒業してからスポーツとは無縁の生活を送ってきた。平日は朝から深夜まで

仕事。週末も仕事が多かった。だから学生の時のように体を動かすなんて考えもしな

かった。

「雫ちゃんは昔なにか運動してた?」

「大学二年生まで陸上競技をしていました」

「そやったん。なら、マラソンとかええんちゃうか?」

「私、膝を怪我して陸上競技をやめたので、マラソンは……」

「そうか」

 膝は既に完治している。ただ、思い切り走ることの怖さが心の片隅に残っているの

は私の心の問題だ。

「それなら、自転車は?」

「自転車?」

「一人でもできるし、膝を壊したマラソンランナーの方とかよくやってるで」

 藤木さんに強引に勧められたわけでもないのに、彼女の一言で何となく試してみて

もいいかも、と思い始めている自分がいた。まるで、社会人になってから始める運動

は自転車であると最初から決まっていたかのような不思議な感覚だった。

「じゃあ、自転車にしてみようかな」

「そっか、分かった。あとは任せとき」

「えっ、ちょ」

 と言った時には通話が切れていた。


     ☆


 私が感知しない所でトントン拍子に話が進み、藤木さんからLINEで連絡がきた

時には、既に俊さんとサイクルショップに行くことになっていた。

 事前に俊さんと少しメッセージをやりとりして、運動として自転車に関わるのなら

スポーツタイプの自転車、いわゆるロードバイクにしたほうがよいと勧められた。

 彼に訊く。

「なぜリドレーを勧めてくれたの?」

「ん、直感だよ」

 それが冗談だというのは、瞬時に分かった。一般人でも知っているようなブランド

とは違うものを勧めてくるあたり、何かしらの理由や彼なりの考えがあるに違いない。

 私は笑いながら右肩で俊さんを押す。

 彼は左手を自転車のハンドルに添えながら言った。

「リドレーって誰の名前だと思う?」

 誰の名前だろう? 海外のメーカーだから、シンプルに考えると創業者の名前かな。

「創業者の名前」

 彼はゆっくりと首を横に振った。

「じゃあ、リドレー・スコットって知ってる?」

「知らない」

「映画監督の名前だよ」

 私は頷いて、話の先を促す。

「このメーカーはねベルギーの自転車競技者だったヨーキムさんという人が始めてね、ヨーキムさんが映画監督のリドレー・スコットのファンだったことから、社名をリドレーにしたんだ。リドレー・スコットは映画監督だけど、映画監督してデビューする前はテレビコマーシャルの監督をしていてね、数千本ものCMを撮った巨匠なんだ。アップル社のCMも撮ったらいしいよ」

 俊さんはほほ笑みながら私を見る。

 ―どう? 少し親近感が湧かない?

 と言っているような目だった。

 広告業界の巨匠と言われる人の名前が由来となっていることを聞いた時点で、私は

俊さんが勧めてくれているメーカーが、早くも自分向きであるような錯覚を覚えはじ

めていた。

「それにリドレーはロードバイクのトップメーカーの一つなんだ。ビアンキのように

ロードに乗らない人でも知っているようなブランドではないかもしれないけど、しっ

かりとした造り、乗り心地、デザイン面などバランスが良いメーカーだと思っている。このモデルはフェニックスというんだけど、名前もかっこいいでしょ。新しい領域に羽ばたこうとしている雫ちゃんにぴったりだと思わない?」

 ここまで考えてくれていたとは、正直思わなかった。俊さんを色眼鏡で見ていた訳

ではないけど、手ごろな値段で買えるメジャーブランドの自転車あたりを勧めてくれ

るのだと思っていた。

 だけど、彼が勧めてくれたのは私が自分事として捉えられるような要素をいくつも

持っている自転車だった。おかげで私がリドレーに対して、少しの興奮を覚えていた。

「うん、私にぴったりかも」

「そうだと嬉しい」

「うん、そう思う。黒ベースじゃなくて白い自転車だったら、もっとよかったかな」

「このタイプは、白ベースのバイクもあるよ」

「えっ、ほんと?」

 先ほどよりも興奮度合いが上がる。

 だけど、その興奮も長くは続かなかった。

「えっ、二○万円以上もするの?」

 ハンドルにぶら下がっている値札が目に入った。スポーツタイプの自転車は決して

安くはないことくらい認識していた。安いタイプでも一○万円強するのは覚悟してい

たが、俊さんが勧めてくれた自転車は予想の二倍近くの値段だった。

「まあ、エントリーモデルとしては高いほうかな。決して安いとは言えない買い物な

ので、買うか買わないかは今日決めなくていいと思うよ」

「そうだけど」

 驚いたのは値段だけではなかった。予算はあるので買えないわけでもない。

「違うメーカーも見る?」

「いや、リドレーがいい」

「これが最安値だよ」

「そうなの?」

「うん」

 せっかく雨の中、サイクルショップまで足を運んだ。自転車を始めることも決めて

いる。予算もクリアしている。何が私の意思の足を引っ張っているのだろう。私はこ

んなにも優柔不断だっただろうか。仕事の場面では、決断が早い方なのに。

「買うか迷っているなら、また今後にして考えてみたら?」

「買うことは決めている」

「リドレーがいいんだよね?」

「うん」

 俊さんは困ったようなほほ笑みを浮かべる。だけど、雲間から顔を出した太陽のよ

うに、明るい表情で言う。

「バイクはさ、いつでも買えるから、今度レンタルサイクルでロードを借りて一緒に

走ってみる?」

 太陽が顔を出し、そしてどこからか吹き始めた風が湿った空気を押しのけるように

私の心に纏わりついていた不安がどこかに消えていた。

 一緒に。

 久々に言われたような気がする言葉だ。そして、なんだか心が温かくなる言葉。

 つい、私は笑う。

「一緒に走ってくれるの?」

「そりゃそうさ。バイク買うの手伝って、はいお終いって訳にいかないでしょ。ロー

ドってシティサイクルと違うし、ちゃんと走れるようになるまで時間や知識が必要な

んだから。雫ちゃんがロードやりたいなら、俺はできるだけフォローするよ」

「レースは? 猫とまたたびは?」

「いくらでも時間調整できるって、気にしない気にしない」

 梅雨明けはまだだけど、俊さんの言葉で私の心は一気に晴れた。

「じゃあ、このフェニックスの白に決めた」

 俊さんは私の前に握った拳を出した。私はその拳に自分の右拳をチョンとぶつけた。

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