オレンジ色の気持ち②

 五月の第三週目の土曜日。

 今日は朝から晴れていたけど、空には多くの雲が流れていた。まるで青空を泳いで

いるような雲の動きだった。センター北に引っ越して空を見上げることが多くなった

と思う。やっぱり私には、近代的な街並みより空を見上げられる開けた空間がある街

が合っていると自分でも思う。

 約一週間分の衣類を洗濯機に放り込んだ後は、掃除機をかける。普段はクイックル

ワイパーだけだけど、週末はちゃんと掃除機をかけることにしている。

 今週末に群馬で開催されるヒルクライムレースに俊さんが参戦するため、猫とまた

たびはお休みだった。休日の時間を持て余すしかない今の私を心配したのか、今日は

お昼に藤木さんと会う約束をしていた。

 洗濯物を干して、リビングのテーブルに散らかった本を整理し終えると、そろそろ

出発しなければいけない時間だと置時計が主張していた。

 軽く化粧を済ますと、藍色のデニムとTシャツに着替えた。少し風が強そうだから、先日買った白いロングカーディガンを羽織る。

 バッグに腕を通し、駅に向かう。

 あざみ野で東急線に乗り換え、二子玉川に向かう電車に揺られながら外を眺めてい

た。外を眺めながら視界に入るのは、俯き加減の人たちの姿だけだ。みんな悲しいこ

とがあったわけではない、手にしているスマホに夢中なだけだ。

 一○年ほど前、私が高校生の頃はこのような光景を目にすることはなかった。単に

秋田だったからじゃない。受験で東京に来た時も秋田と大差なかった。違いは電車の

構造と乗客数くらいだった。

 この光景を目にすると、なんだかスマホに人間が操られているように見える。スマ

ホなしでは人間は生きていられないのではないだろうかとさえ思えてしまう。

 多摩川を越えた電車は、ゆっくりとブレーキをかけて駅に止まった。

 土曜日だから二子玉川駅で降りる乗客は多かった。人の流れに身を任せるように、

階段を下りて改札を出た。待ち合わせ時間より一○分ほど早く着いたから、改札が見

える位置に立って、海の波のような人の動きを目で追った。

 私が予想していたのとは真逆の方向から藤木さんの声がした。

「お待たせ。雫ちゃん、早いな」

 咄嗟のことに声が出ない。

「どないした?」

「いえ、こんにちは。てっきり改札から出てくるものだと思っていたら、横から声を

かけられたので、ちょっとびっくりしただけです」

「雫ちゃん、もしかしてビビリ?」

 どうなのだろう、自分でも分からない。クライアントへのプレゼンも落ち着いてで

きる。

 私が首を傾げると、藤木さんも首を傾げた。次の瞬間、彼女は手を上げた。

 藤木さんの視線を追うと、見覚えのある女性が改札を出てきたところだった。

「こんにちは、お待たせしました」

 待ち合わせ場所にやってきたのは春香さんだった。

「そんなに驚かんでええやん。彼女な、私と同じ会社だったの。部署が違うからフロ

アも別なんやけど、三日前に偶然会うてね。それで声をかけたわけ」

 春香さんは私を見てほほ笑んだ。

「二人とも行くよ。早よ行かんと、並ばなあかん」

 スタスタと歩き出す藤木さんに引っ張られるように、私たちも歩き出した。

 彼女に案内されるように着いたのは、デパートの屋上庭園にそびえるカフェだった。お店の前には既に行列ができていたけど、着いてから一○分ほどで入ることができた。どうやら藤木さんは事前に整理券をもらっておいたらしい。

 私たちは、藤木さんおすすめの和風キーマカレーを注文した。出てきたカレーは、

ねぎがたっぷり乗ったカレーだった。朝から掃除と洗濯をしたせいか、お腹は極限の

空腹状態にあったこと、そして程よくスパイシーなカレーに食欲を掻き立てられて、

二人が三分の二ほど食べ進んでいたころには食べ終えてしまった。

 そして、食後のプリンを食べ終えると、暴れまわっていた胃は落ち着きを取りもど

した。


 お店を出た後、藤木さんに連れられて多摩川二子橋公園にやってきた。

 原っぱでシートを広げた藤木さんは、私たちに座るよう促す。

「小さい頃を思い出すようで、ええやろ」

 そう言いながら、彼女はバッグから日焼け止めを取り出し「使う?」と訊いた。天

気はいいけど、流れている雲で日陰がまばらに出来て、絶えず日光を浴びるわけでも

なさそうだったから、私は大丈夫と言った。

「意外やな」

「そうですか?」

「雫ちゃん、色白やから日焼け対策はしっかり行っているもんだと思ってたわ」

「秋田生まれなんで元々色白なんです。だけど、夏は日焼けを気にしますけどね」

「どうりで私らと肌感違うと思うたわ」

「春は仕事が忙しすぎて、肌はぼろぼろでしたけどね」

 私はちょっと困ったように笑ってみせる。

「それで、今日はピクニックでもするのですか?」

「おっ、よう分かったな」

 冗談で言ったつもりだったけど、本気だったらしい。お昼ごはんを食べ終えたばか

りだというのに、彼女はバッグからお菓子を取り出してシートの真ん中に置いた。

 さっきまでにこやかだった藤木さんの表情が、瞬時に変わったように見えた。

「二人を誘ったのは、ピクニックしようと思ったのもあったけどな、放っておけなか

ったのもあるからや」

「放っておけなかった?」

 春香さんは全く訳が分からないといった様子で藤木さんに訊く。

 藤木さんはバッグから取り出したお茶を一口飲んで、ゆっくりとキャップを締めた。

 風に前髪を揺らしながら、彼女はまっすぐ多摩川を見つめる。そして、ゆっくりと

口を開いた。

「あのな、余計なおせっかいかもしらんけど、二人ともちゃんと立ち直っておらんや

ろ」

 えっ、と私は尋ね返す。

 本心から出た言葉だったけど、一方で嘘でもあった。私には、彼女が何を言おうと

しているのか理解できていた。

 たまに自分を誤魔化したくなる。それが的を得た指摘であっても、自分は違うのだ

と思いたくなる。やっぱり私はネガティブになりやすくて、弱い自分を一度受け入れ

てしまうと元の自分に戻れなくなってしまいそうになる時がある。そうなることが怖

くて、怖くて、その恐怖に怯えることになるくらいなら弱い自分をこの手で消してし

まいたくなる。

 そうやって、私は生きてきた。

 私が働いている広告会社は業界トップ一○に入っている一社だ。だから、かなり優

秀な社員が集まっているし、競争も激しい。新卒で入社して六年が経過した今、若手

プランナーの先頭グループを走っていると自負している。私を信じてアサインしてく

れるアカウントマネジメントセンターの方々の期待、クライアントの期待に応えるた

めにも、弱い自分は不要なんだ。太陽のように、常に強く輝き、時には優しく大地を

照らす。気高く優しく輝く太陽みたいに振舞うことが私が私であるために必要なんだ

と思っている。

 春に私と春香さんは失恋した。

 時期は違えど、私はまだ立ち直っていない。きっと春香さんも。

「失恋のことですよね?」

「そや」

 春香さんは言う。

「そうですね、まだ立ち直っていません」

「雫ちゃんは?」

「私は……」

 拓さんの料理を口にして涙を流した場面を、藤木さんは目にしている。そして、泣

いた訳も私は話した。

 藤木さんはまっすぐ私を見据える。

 その強い視線に意識が押されたように、刹那の眩暈を感じる。そして、耳の奥であ

の日の夜に彼から言われた最後の言葉が聞こえたような気がした。

 藤木さんはどこか悲しげに見える笑顔でもう一度言う。

「だからな、あんたらほっとけないねん」

 普段の彼女は猫とまたたびに開店から居座って、赤ワインを飲んで頬を赤らめてい

るようにしか見えないけど、本当はとても思いやりがあるお姉さんだということを私

は知っている。おちゃらけながらも、皆のことをしっかり頭に入れている。職場では

きっと切れ者と思われてもなんら不思議ではない。

「やっぱり心配ですか?」

 春香さんの質問に彼女は、そやな~、と言った。

 時折強まる風に髪がもてあそばれる。お店で藤木さんがしゃべるテンポと違って、

今日の藤木さんは空を流れる雲のようにゆったりとして、そして間があった。彼女自

身、空の雲と同一化しているような雰囲気だ。

「二人とも、あのお店をどう思う?」

 純粋に彼女の意図が分からなくて、私は尋ねる。

「どうって?」

「そやな、今の雫ちゃんにとってお店はどんな存在になってる?」

「そうですね、居心地が良くて毎週土曜日が楽しみになる存在かな」

「春香ちゃんは?」

「はい、私を癒してくれる存在ですかね」

 私たちの回答を聞いた藤木さんは、風に紛れ込ませるように鼻から短くため息をつ

いた。

「心配してたのは、それや」

 意味が分からない。猫とまたたびに対してポジティブな印象を持ち、自分たちにと

って大切な存在とすることが何がいけないのだろうか。

 春香さんは言う。

「藤木さんに心配されるようなことでしょうか?」

「二人とも、分からんか?」

 私と春香さんは首を横に振った。

 藤木さんはもう一度、鼻からため息をつく。

「あのな、あのお店を心の拠り所としたらあかんねん。雫ちゃんはもう片足を突っ込

んでいるし、春香ちゃんは片足を踏み込みそうな勢いなんや」

 彼女は続ける。

「ええか、あのお店はあくまで拓さんと俊くんが趣味でやってるお店や。知らんかも

しれんけどな、拓さんは毎年夏になったら二週間くらいフランスへ旅行に行くし、俊

くんも北海道とか沖縄にレースしに行くねん。そうしたら月のうち一回しかお店がオ

ープンしない月もあるんや。お店に行くことが一番の楽しみになっていたら、その月

どないする。逆にストレスになると思わん?」

 きっと彼女は依存し過ぎるなと言いたいんだ。

 確かに今の私は猫とまたたびが唯一の楽しみになっている気がする。拓さんの料理

をいただき、藤木さんたちとおしゃべりをする。あの雰囲気が私の疲れた心を浄化し

てくれる。もしお店がオープンしない月があるとしたら、私はストレス発散できずに

悶々として心が凝り固まってしまうかもしれない。

 私は言う。

「意味が分かりました」

「せやろ」

 春香さんは恐る恐る尋ねる感じで言う。

「私はまだ一度しか、あのお店に行ったことがないですが」

「確かにな。せやけど、春香ちゃんもどっぷりハマりそうな気がしてな」

「そうなんですか?」

「うん、会社で会って話した時にそう感じた」

「そうですか」

 彼女の返事は、やっぱりそうだったのかというニュアンスを含んでいたようなイン

トネーションに聞こえた。

 藤木さんは雲間から顔を出した太陽のように眩しく笑って、言う。

「二人とも、失恋したんやろ。はよ新しい彼氏を見つけや」

「そんなにすぐに見つかりませんよ」

「そうなの?」

「そうですよ」

「雫ちゃん、ほんま綺麗やのにな。言い寄ってくる男が一人や二人くらいおるやろ」

「いませんよ」

 彼と別れてから二カ月あまりが経過するが、私に近寄ってくる男性は誰一人として

いなかった。

「雫さんは近寄りがたいかもしれませんね」

 春香さんは控えめに笑いながら言う。

「かもな」

 藤木さんはニヤニヤしながら言う。なんだか自分だけが話についていけてないよう

で気持ちが悪い。胸の辺りがモヤモヤする。

 普段から身だしなみには気をつけているし、香水の類はつけない。どんなに忙しく

ても怖い顔にならないようにも注意している。無愛想にならないように、大げさにな

らない程度にニッコリとするようにもしている。

 私のどこが近寄りがたいというのだ?

 一つの解が思い浮かぶ。

「私、もしかして加齢臭でもしますか?」

 生活習慣の乱れで、最近は若い女の子でも加齢臭が出てしまう人がいるらしいと誰

かに聞いた覚えがあった。

 二人は同時に、しかも空にまで届きそうな大声で笑う。

 藤木さんは顔の前で手を振りながら言う。

「ちゃうちゃう」

「じゃあ、なんなのですか。加齢臭じゃなかったら、何がいけないか分かりません」

「春香ちゃん、言ったげて。可笑しくてたまらんわ」

 藤木さんはお腹を押さえながら、まだ笑っていた。春香さんは笑って溢れた涙を拭

うように、目じりを擦りながら言う。

「雫さんは隙がなくて近寄りがたいんです」

「なんだ、そんなこと。って、私そうなの?」

「そうですね。美人だし、バリバリ仕事をしているし、そしてフランクな性格だから

お友達も多いでしょう。ナチュラルメイクで派手ではなく、どこか可憐さが漂う。で

も男性から見たら完璧主義者に見えて、安易に近づけないタイプですね」

 似たようなことをまた言われ、頭を抱えたくなる。

 とびっきりの美人でもないし、仕事もようやく人並みにできるようになってきた程

度だと自分では思っている。会社の先輩や切れ者ディレクターには到底及ばないと感

じることなんて多々ある。割とめんどくさがりだからメイクに時間をかけないし、完

璧主義者でもない。自負できることがあるとすれば、取り組んだ仕事は最後まで手を

抜かずにやり抜くことだけだ。料理も上手じゃない。友達も自慢できるほど多いわけ

じゃない。二人が思うような人間じゃないってことだけは確かだ。

 二人に見えない位置で拳を握る。

「買いかぶりすぎ。私そんな完璧な人間じゃないし」

 突如、藤木さんが私の髪を撫でる。

「自分が思う自分と、他人が思う自分が違いすぎるんやな」

 その一言に唇を強く締め、私は頷く。

 もう一度頷く。

 藤木さんに髪を撫でられるのは嫌じゃなかった。いつも心を落ち着かせたいタイミ

ングで髪を撫でてくれる。

「難しいなー」

 私がそう言うと彼女は風に飛ばされそうなくらい、ほんの少しだけほほ笑む。

「雫ちゃん、世の中の人に何かを伝える仕事をしとるんやろ。よう考えてみ、思い当

たることがあるんやないかな」

 私は静かに頷く。

 広告コミュニケーションで伝えられることは、製品やサービスのごく一部だ。限ら

れた時間、媒体枠のスペース、表現手法、様々な制限が絡むなかで伝えたいことが最

大限伝わる方法を考える。それでも人に伝わるメッセージは一部だけだし、受け取っ

てもすぐに忘れ去られるし、送り手の意図とは違うように解釈されることもある。

 藤木さんと春香さんは私のことを隙がない、近づきがたいと言った。

 近くにいる友達でもそう感じる要素があるのだろう。であえば、私のことをよく知

らない男性はなおさら近づきがたいと感じるのかもしれない。

「雫ちゃんは何も悪くない。社会人として当たり前のようにきっちりして、仕事を頑

張っとるだけやもんな。それでもな、そう見えてしまうねん。仕方がないかもしれん

けどな、それが現実や。周りが隙がないと感じてしまうのであれば、今後どうすれば

ええか分かるよな」

「分からないよ、藤木さん」

「答えが分かっているという意味やない。今後自分どうすべきか考えることが大事だ

と分かっているだろうという意味で言ったんや」

 私と藤木さんは、互いに目を合わせたままだった。ああ、この人は心から私を心配

してくれているのだとはっきりと分かった。

 このまま目を合わせていると熱い涙が溢れてきそうで、私は空に目を向ける。

「藤木さんが言うこと、分かった気がします」

 これからどうすればいいかなんて、答えは今私の中にはないけれど向くべき方向は

分かった気がする。

 空を流れる雲と違って、私たちは自分の力でどこにでも行ける。前に進むのも、そ

の場に停滞するのも自分次第だ。私はどうだったのだろうと考える。

 藤木さんは私が空を見ているから春香さんに話し出した。

 私は二人の会話を聞きながら、空を見ながら考え続ける。

 ――私は停滞していたのかもしれない。

 思わず笑ってしまう。私は自他共に認める仕事人間だ。新卒三年目の頃から、周り

から働きマンなんて言われたこともあるくらいに働いた。仕事は楽しかったし、周り

に負けたくなくて土日も仕事のための勉強に費やした。もちろん友達と遊びに行くこ

ともあったし、恋人ができてからは毎週のようにデートもした。だけど、今思うと私

の社会人人生は仕事をすることが目的になっていたのではないだろうか。何のために

仕事をするとかなくて、単に仕事ができていれば満足だった。

 彼との未来を思い描いたことなど一度もなかった。仕事を通じてこんな自分になり

たいとかのビジョンもなかったような気がした。ただ、一人前のストラテジックプラ

ンナーになりたいとしか頭になかった。

 私には人生の地図がなかったんだ。

 目的地がないから進む方向も分からない。

 私に足りないものが分かった気がして胸が温かくなった気がした。猫とまたたびで

いつもいただく、アペロールソーダのようなオレンジ色に心が染まったような気分だ

った。


 しばらくして、春香さんは用事があるため先に駅に向かった。気持ちが温まったせ

いか、私はずっと気になっていたことを藤木さんに訊く。

 彼女は先ほどの私のように、ゆったりと顔を空に向けた。そして、口を開く前に、

瞳の色が変わったように見えた。

 その瞬間、私は後悔した。だけど、彼女の口から発せられる言葉を止める台詞を口

にすることはできなかった。


     ☆


 短い言葉が好きだ。

 短い言葉は本質を表していると思う。

 木を削り、美しい彫刻を創るように、本質が露わになるまで余計な言葉を削ぎ落と

し、誰かに伝える。そのようなプロセスを繰り返し、言葉で価値を生み出す匠のよう

な人々が私の周りにはいる。

 彼らや彼女たちが生み出すキャッチコピーやタグラインは、いつ目にしても美しい

と私は思う。特に本質を見事についたタグラインは見とれてしまう。何度も頭の中で

味わう。

 彼女が発した短い言葉。とてもシンプルで、とても美しい言葉。人の心を揺り動か

す力強さを持っている言葉だ。一方で、とても深い悲しみを纏った言葉に聞こえた。

 彼女はその言葉を彼に届けていない。

 絵葉書を郵便ポストに投函するのとは訳が違う。

 きっと彼女はあの人のことを気にしているのかもしれない。自分がこの言葉を口に

してしまうと、あの人が傷ついてしまうと恐れているのだ。まるで、羽を傷つけてし

まい、飛ぶことを恐れている鳥のようだ。羽ばたけば、空気の力を借りて大空に飛び

立てるのに、羽ばたくことすら恐れいている。

 胸に抱いた言葉を届けたい気持ち。

 胸に抱いた言葉を素直に届けられない気持ち。

 私は彼女たちの気持ちが分かる気がした。

 だから、彼女たちの横顔を目にするとなんだか物悲しくなる時がある。もしかした

らあの人も彼女と同じように、抱いた想いを彼に伝えられていないのかもいれない。

この状況はなんと残酷なんだ。

 三角形は安定する形だというけれど、悲しい安定のしかただよ。どちらかがベガで、どちらかがデネブにならないといけないのだろうか。

 幸せで満ちている猫とまたたびには、見えない悲しみが浮遊している。


     ☆


 ――拓さんが、好きやねん。

 夕焼けに染まる空の下を走る電車に揺られながら、彼女の言葉が頭の中でリフレイ

ンする。

 春香さんが帰った後、私は藤木さんに拓さんのことをどう思っているか訊いてしま

った。彼女の想いに気づいていながら、訊いてしまった。

 ――言っとらん。

 これも私の予想通りに、藤木さんは拓さんに想いを伝えてはいなかった。藤木さん

の普段のノリなら、さらっと好きやと言いそうだけど、きっと藤木さんはあの人のこ

とを気にかけているのだろう。

 私が気づいたのは、藤木さんと同じような質の視線を拓さんに向ける彼女の存在だ。彼女の視線は分かりづらいけど、時折見せるその目は紛れもなく恋の色に染まる瞳だった。恐らく、いや間違いなく藤木さんも彼女が抱く想いに気づいている。だから、拓さんに対し自ら想いを届けることはしないのかもしれない。

 あんなに幸せな空気に溢れる猫とまたたびに、こんなにも悲しい人間関係があるこ

とを思うと、胸が痛くなる。二人はお互いのことを思い、白鳥でいつづけることを選

んだんだ。彼女たちは自分の恋よりも、お互いの関係を優先したのだろう。私より積

み重ねた分の人生経験が、そうさせているのだろうか。

 幸せでもなく不幸でもない。

 そんな道を彼女たちは選んだんだのかもしれない。

 私の会社で働く人たちは、ターゲットにどうやってメッセージを届けるかを常に考

え、そして実際にメッセージを届けコミュニケーション目標を達成することで、クラ

イアントと世の中に役立つことを生業としている。

 伝えられない状況が、どんなに苦しいか私にも分かる。

 電車の窓からオレンジ色に染まった夕日のように、熱い想いを胸に抱きながらもそ

の想いを届けられない。

 ――今のままで、ええんや。

 彼女はそう言った。

 その言葉に、私は何も言ってあげることができなかった。ベガになれとは、私の口

からは言えない。

 建物の隙間から見える夕日は、先ほどよりも赤に近づいていた。茜色に染まった空

は何だか物悲しい空に見えた。

 膝に乗せたバッグをそっと抱え、自分に引き寄せた。

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