第二話 オレンジ色の気持ち

オレンジ色の気持ち①

 五月の連休が明けた次の土曜日だった。

 今日は初めてオープン時間に合わせて猫とまたたびに訪れた。今はフリーの身だし、受注したキャンペーンも開始に向けた準備が中心のため、最近は土日に出勤する必要もなく、気の赴くままに休日を過ごすことができるようになった。

 だから、今日は久々に横浜周辺のデパートをぶらついた。ユナイテッドアローズの

グリーンラベルによって梅雨の時期に羽織るカーディガンを物色して、白のロングカ

ーディガンを購入した。

 買い物をした後、お昼ごはんを食べるために野毛のビストロに寄った。夜には猫と

またたびに行くというのに、学生時代から行きつけのビストロに足を運んでしまうあ

たり、私らしいなと笑ってしまう。

 ランチの後は、山下公園でTWICEを聞きながら読書をして時間をつぶした。

 以前、彼とよく歩いた公園だ。

 今は良い思いでの一つだと、はっきりと言うことができる。

 空が茜色に染まり始めた頃、読書を切りあげて自宅の最寄り駅に向かう。毎日の帰

宅ルートだけど、猫とまたたびに向かうことを考えると景色が違って見える。目的地

が違うだけで、駅周辺の景色がいつもより明るく見えた。

 歩きながら腕時計に視線を落とす。

 ――今日は、一番乗りだ。

 住宅街に入ると、お店の前にはまだ看板が出ていなかった。

 私はお店のドアの前で立ち止まる。

 時計は一七時ちょうどを指した。私は意気揚々とドアを開けた。

「こんばんは」

「あっ、いらっしゃい」

 ドアを開けると、ちょうど雪奈さんが目の前に立っていた。

「今日は私が一番乗りかな」

 ニンマリした私の顔が瞬時に引きつる。

 雪奈さんの後でカウンターに座った藤木さんがニヤニヤしながら手を振っていた。

そして、藤木さんの前には早くもグラスが置いてあり、薄い承和色のワイン――きっ

とシャンパンだろうが注がれていて、グラスの底から控え目な泡が天に向かって昇っ

ていた。

 彼女たちは開店前でも入店できるファストパスでも持っているのだろうか。

 ドアを閉めて店内に入る。そして、私は言う。

「ここいいですか?」

「ええで」

 私は藤木さんの隣の椅子に腰を下ろす。

 カウンター席に座ると、藤木さんの奥にもう一人女性がいることに気付いた。

「ああ、雫ちゃん初めてやな。彼女は穂乃香さんや」

 私は会釈して言う。

「はじめまして、立花です」

「はじめまして、田代です」

 小柄で可愛らしい女性だった。ブラウンの髪をボブにして、丸い目が特徴的だった。

 見た目は藤木さんより年下に見える。もしかしたら私と同い年くらいかもしれない。

「お二人とも、開店前に来たのですか?」

「そや、まいど開店前に来とるで」

 一瞬だけ拓さんに視線を向ける。顔が引きつった拓さんの表情が視界にはいり、私

は苦笑いする。

「二人とも早く来すぎなんですよ」

 まるで拓さんの気持ちを代弁するかのように、仁王立ちした俊さんが言う。

「うちら遠くから来とるんやで、ちょっとくらいええやん。趣味の延長でやっている

ようなお店なんだし、固いこと言わんといて」

 穂乃香さんの言葉に対し、拓さんも俊さんも何も言わなかった。おそらく彼らはこ

の二人には敵わないのだろうなと思っているのだろう。

 形勢が逆転したことを機に、二人は拓さんと俊さんをいじりはじめた。

 キャッキャキャッキャ談笑する二人を余所に、私は雪奈さんに言う。

「雪奈さん、アペロールソーダをいただけますか?」

「分かりました」

 そう言った彼女は、キッチンの端のドリンク類がまとめて置いていあるスペースに

立ち、グラスにリキュールを注いでソーダを注ぎ足す。

 ここのキッチンはカフェにしては大きいし、十分な火力のコンロが二つもある。そ

の上、広い作業スペースもあることから、三人並んでもスムーズに行き来できる間隔

がある。このカフェのオーナーは相当の料理好きなのかもしれない。カフェが開いて

いる時に訪問してみようかな、と思ったけど平日しか開いてないことを思い出し、す

ぐに考えを霧散させた。

 一七時を三○分ほど過ぎたが、私たち三人以外に来店客はいなかった。

 拓さんたちは猫のまたたびの売上で生計を立てているわけでもないので、暇な日が

あってもダメージはないのだろう。だから、今日はこのまま混まなければいいなと思

ってもばちが当たらない気がしたけど、口には出せなかった。

「はい、どうぞ」

 目の前にはオレンジ色のアペロールソーダが現れた。

 私はアペロールソーダをゆっくりと味わうように少しずつ口に含む。視界に濃紺色

のエプロンが入った。視線を上に向けると、拓さんが目の前に立っていた。

「雫ちゃん、今日は何食べたい?」

 私は首を傾げ少し間を置いて言った。

「今日は辛いものが食べたいな」

 これまでここで辛いものを口にしたことはなかった。だから、拓さんがどんな料理

を作ってくれるのかの好奇心も相まって、辛いものをオーダーしてみた。

 ――何食べたい?

 違和感があった。これまで「今日はどんな気分」と訊かれた。彼なりに私の中で生

まれたターニングポイントを感じ取って、沈み込んでいた気分を引き上げる必要はな

くなったと思ったのかもしれない。それが言葉として表れたのだろうか。もう一度首

を傾げたくなる。

「オッケー。少し待ってて」

「お願いします」

 頭に浮かんだ疑問を口にせず、私はほほ笑んで見せた。


 しばらくすると、木の扉が風に押されるように静かに開いた。入ってきたのは、そ

よ風のような控え目に存在を主張するような女性だった。彼女を出迎えた雪奈さんは、私をちらっと見てほほ笑むと、右手の平を上にして私の方向を指した。

「一人でポツンと座るのもなんだし、こちらのお席はいかがですか?」

 彼女は私の隣の椅子を引き、来店した彼女に席を勧める。

 雪奈さんの勧めを断ることもせず、彼女は私の隣の席に腰を下ろした。雪奈さんは

おしぼりとお水を持ってきて、このお店のルールというか特徴を話し始めた。

 メニューは置いてないこと、料理は三○○○円のお任せのみだけど減らすことも増

やすことも可能だということ。飲み物は希望を言ってくれればある材料でなんでも作

るということ。

 さっそく拓さんが彼女の目の前にやってきて、カウンター越しに訊く。

「ご来店ありがとうございます。お客さん、本日はどんな気分ですか?」

「気分ですか?」

 隣に座った彼女は戸惑っている様子だった。

 無理もない。このお店は猫のように自由なんだ。私たちが慣れ親しんでいる飲食店

とは形式が違いすぎる。

 人間は提示された選択肢から何かを選ぶことは簡単にできる。だけど、オープンク

エスチョンで質問されると、自分の頭の中を整理して考えを表現しなければならない。日常会話でもオープンクエスチョンは頻繁に出てくるが、飲食店に来て食べたいと思うメニューを選ぶのではなく、質問に答えるところから始まるのは戸惑いが生じても仕方がない。

「はい。僕はお客様の気分を訊いて、その時の気分にあった料理を作っています。何

でもいいですよ。むしゃくしゃしているからスカッとしたい気分とか、仕事が忙しか

ったからゆったりしたい気分とか、感じていることそのまま言ってください」

 私は彼女の答えに耳を傾ける。

「そうですね。率直に言うと、今日は悲しい気分なんです」

「悲しい気分なんですね、分かりました」

 感情移入したように、拓さんは悲しそうにほほ笑む。

「これだけでいいんですか?」

「はい、大丈夫です。ちなみに、苦手な食材、アレルギーなどありますか?」

「いいえ、ありません」

 拓さんは続ける。

「待っててください、心を込めて作りますから」

 拓さんはほほ笑むと、下ごしらえをしている俊さんに話しかけた。拓さんの言葉を

聞いて、俊さんは頷く。俊さんが何度か頷くと、彼はふんわりとほほ笑んだ。

 ――へ~、俊さんもあんな表情するんだ。

 どちからというと俊さんは表情が固い。表情筋が弱そうな感じだ。だけど、先ほど

の彼の表情を見て、単に私に対して柔らかい表情を見せていなかっただけだと感じた。

 彼らのほほ笑みを目にして、雪奈さんがほほ笑んだ場面を思い出す。あれは、きっ

と私に相手をしてあげてのサインだったのかもしれない。

 私自身、雪奈さんの心配りのおかげで、一人での訪問にも関わらず、毎回隣に座っ

た方と言葉を交わす経験をした。

 私はそっと言う。

「こんばんは」

 驚いたように彼女も言う。

「あっ、こんばんは」

 若干ブラウンがかったセミロングの髪やベースコートだけのネイル、薄い化粧など

全て控え目な主張な方だ。私の会社にはあまりいないタイプの女性だ。だけど、その

控え目な主張は彼女に似合っていて、微塵の嫌悪感も抱かせなかった。

「私、立花って言います。お名前訊いてもいいですか?」

「水野、水野春香です」

「へー、素敵な名前ですね」

「ありがとうございます。立花さん、下のお名前は?」

「雫です」

「映画のヒロインのような名前ですね」

 何かの映画に私と同じ名前のヒロインがいただろうか。見たことがある映画を思い

出してみたけど、頭の中の引き出しからは該当する映画は出てこなかった。

 だけど、私はほほ笑んで見せる。

「このお店をよく見つけましたね。どなたから教えてもらったのですか?」

「たまたまです。私はセンター南に住んでいるのですが、今日はセンター北まで散歩

をしてたんです。今日の晩ごはんを何にしようかな、と考えているとたまたまこのお

店が目に入ったので、好奇心で寄ってみたんです」

 彼女もまた、引き寄せられたのだろうか。

 初めてお店に訪れた夜がフラッシュバックする。ボロボロな状態で街を歩く私の手

を引くように、漂ってきた草原のような香りは今でもはっきりと思いだせる。

 優しい香りを思い出すだけで、あの時の香りが鼻腔の奥で再現されるようだ。

「そうだったのですね。私も初めてお店に来た時、そんな感じでしたよ」

「雫さんもですか?」

「ええ。私は休日出勤した帰り道に、いい香りに引き寄せられてお店にたどり着いた

んです。あまりにもお腹がすいていて、食い意地が出ちゃったのかな」

 ふふっと春香さんは笑った。その笑顔は手の平で解けてしまう雪の結晶のような笑

顔だった。

 このお店は不思議と訳ありの女性を引き付ける。見えない招き猫でもいるかのよう

な吸引力を持っている。

 藤木さんは以前こう言った。

 ――導かれたんだね。

 拓さんと俊さんは意識していないと思うけど、このお店には不思議な力が宿ってい

ると私は思う。


「お二人さん、お話中ごめんなさい」

 振り返ると、雪奈さんはお皿を二つ手にしていた。

「お待たせしました、リンゴとくるみのサラダです」

 白いお皿を春香さんの前に置く。

「そして、こちらは雫ちゃんのチキンとキャベツのサラダです」

 私たちは雪奈さんにありがとうと言い、さっそくフォークを手に取った。私は学生

時代からの習慣で手を合わせていただきますと言う。元彼に素敵な習慣だねと褒めら

れた習慣だ。

 お皿には春キャベツとソテーされた鶏のささみにオリーブオイルと何かを混ぜたド

レッシングがかけられていた。ドレッシングとは別にサラダ全体に赤い粉がかかって

いる。一味唐辛子とも違う。もっと粒子が細かい粉だ。

 私はキャベツと鶏肉をフォークで刺して、わくわく感と共に口に運ぶ。

 春キャベツの柔らかい歯ごたえ、ささみの弾力、あっさりとした具材に優しい重厚

感を纏わせるオリーブオイルが合わさり、満足感があるサラダに仕上がっている。そ

して、キャベツに絡むドレッシングが舌の上に広がると同時に感じる辛味。ピリッと

アクセントを加える辛味でもあり、食欲を増進させる辛味でもあった。

 カウンター越しに目の前にいた俊さんに訊く。

「この赤いのって何?」

「パプリカのパウダーとカイエンペッパーを混ぜたものだよ」

「なるほど」

「パプリカだけじゃ辛くないから、カイエンペッパーを混ぜたんだ。辛かった?」

「大丈夫、ちょうどよくて美味しい」

「よかった」

 そう言って別の何かの料理が出来たようで、俊さんはお皿をとりに動く。俊さんが

いたスペースに拓さんが吸い寄せられるように移動した。

「お口にあいますか?」

 私ではなく春香さんへの問いかけだった。春香さんはほんわりと明るい表情で、美

味しいですと言った。

 春香さんのお皿を見る。一口大にカットされたりんごとくるみにシーザードレッシ

ングのような白いドレッシングがかかっていた。見た感じ、シーザードレッシングよ

りもどろっとしているようだ。

 私は訊く。

「拓さん、これ市販のドレッシングじゃないでしょ。オリジナルドレッシング?」

「雫ちゃん、僕らが作るサラダは基本的に全部手作りのドレッシングだよ。そのリン

ゴとくるみのサラダのドレッシングは一応オリジナルかな」

 春香さんがサラダのお皿を右に寄せて言う。

「雫さん、味見してみてください。美味しいですよ」

「ありがとうございます」

 私はスプーンでリンゴとくるみをすくって口に運ぶ。リンゴの甘み、くるみのほろ

苦さを優しい酸味で調和した味に変わる。

「あっ、ヨーグルトだ」

 だけど、ヨーグルトだけではない味わいだ。舌の上でわずかに弾けるコショウの刺

激、オイルの滑らかさ、味を引き締めるための塩も入ってそうだ。

 私は食の評論家ではないから、それ以上は何も言わなかった。その代わり、ニンマ

リとして拓さんを見る。

「その通り」

 なんだか拓さんは嬉しそうに言った。

「春香さん、私のも味見してみてください。ちょっと辛いですけどね」

「じゃあ、いただきます」

 彼女は控え目に一口分だけキャベツとチキンをフォークに刺し、口に運んだ。そし

て、中空を眺めるようにキッチンに視線を向けたままサラダを味わっていた。

「ピリッとしますけど、美味しいですね」

「でしょ」

 私たちは笑顔を向け合う。

 出された料理は違えど、私たちの料理には拓さんと俊さんの愛情という共通の隠し

味が入っている。


 一八時を過ぎ、店内の席は八割ほど埋まっていた。

 今日は私たち四人だけかなと思っていたけど、猫とまたたびにはいつもと同じ活況

を呈していた。

 私と春香さんは二皿目の料理を味わっていた。藤木さんと穂乃香さんは俊さんに作

ってもらったおつまみの盛り合わせでワインを飲んでいた。

 先ほど気付いたのだが、穂乃香さんも関西弁を話していた。私の隣だけ、なんだか

空気の色が違うような錯覚に陥る。

 二皿目、春香さんには豆腐とカツオのカルパッチョ、私にはマンダイのグリーンカ

レー風が提供された。

 私は料理をいただく前に、私と春香さんの料理が同時に提供されたことに心を打た

れた。レストランでもないのに、ここまで気を使わなくてもと思った。これもきっと

キッチンの中で料理に没頭する二人の優しさなのだろう。こんな些細なことからも、

猫とまたたびに溢れる優しさを肌で感じる。

 私たちは顔を見合わせて、お互いの料理を口に運んだ。

「美味しい」

 彼女の口から漏れた言葉だ。そして、彼女は夢中になって料理を口に運ぶ。私はそ

の光景を目にしてほほ笑んだ。

 彼女は悲しい気分だと言った。どんな事情なのかは私には分からないけど、悲しみ

を纏った心は沈みゆくだけだ。蜜を集めるために花から花へと飛びまわるミツバチの

ように、躍動感に溢れた動きができない心になってしまう。そういう時は、何でもい

いから小さな感動が必要なのだろう。映画を見て面白いと思う。好きなものを食べて

美味しいと思う。誰かと笑い合う。そんな小さなことですら、できなくなってしまう

時がある。

 夜空の星の光がゆらめくように、固まった心を小さく動かすことが重要なんだ。そ

れが凍りついた心の融解に必要なんだと、この光景を見ながら思った。

 私はほほ笑みながらマンダイを口に運ぶ。

 カリッとしたマンダイの身を噛むと、オリーブオイルの香りが広がった。仄かに塩

味がして、ソテーされたマンダイだけでも十分に美味しい。

 今度はグリーンカレーのソースをつけてから口に運ぶ。純粋なグリーンカレーでは

ないソースは、ちょっとだけの辛味を残しマンダイの風味や味を損なわない絶妙なバ

ランスの味の濃さだった。

 藤木さんたちの話し声が耳に入らなくなるほど、私は料理を味わう世界に没頭した。

 ほぼ同じタイミングでお皿を空にした私と春香さんが目に入ったのか、キッチンか

ら拓さんが声を掛けてきた。

「お口に合いましたか?」

 私が口を開く前に春香さんが言う。

「はい、とっても美味しかったです」

「それは良かった。もう少しで三皿目が出来上がりますので、ちょっと待っててくだ

さいね」

「はい」

 春香さんはワクワクしているようだった。彼女の横顔からだけでも、心が飛び跳ね

ていることが瞬時に分かった。


 キッチンからトマトの香りが漂ってきた。最近の楽しみは、漂ってくる香りから拓

さんがどんな料理を作るのか想像することだ。

 店内に充満するトマトの香りからすると、トマトソースを作っているか、または何

かの食材をトマトソースで煮込んでいる料理だろう。私が知る限り拓さんはトマトソ

ースを使うことは少ない。だとすれば、トマトソースで煮込む料理だろう。立ち上が

れば目の前のキッチンを覗きこむことができるけど、椅子から上がりたがる腰を何と

か抑えこむ。

「次はどんな料理が出てくるのでしょうね」

 一目でわかるほど、春香さんの顔は血色が良くなっていた。

 私は自分の予想は口にせず、こう言った。

「また素敵な一皿が出てきますよ」

 春香さんは、そうですね、と言った。

 それから五分もしないうちに三皿目を雪奈さんが持ってきた。

「はい、お待たせしました」

 春香さんと私は、共に同じくいわし料理が提供された。

 ――今日は魚料理の日なのかな?

 魚料理のレパートリーも多く、拓さんの引き出しの多さに目を見開く。

 私が予想していた料理は春香さんに提供された。いわし料理だとは予想できなかっ

たけど、魚のトマト煮込みまでは香りで予想できた。

 一方で私のいわしはローストされたいわしだった。ローストされたいわしに黒い粒

がまぶしてある。見た目からしてキャビアではなさそうだ。

 ――予想外な料理が出てくるから面白い。

 私は口元を手で覆い、

 まずはお皿から立ち上る香りをかき集めるように嗅ぐ。ローストされたいわしの香

ばしさの中に仄かな柑橘系の香りが混じっている。通勤中に目に付いた広告のストラ

テジーを紐解いてみるのと同じように、拓さんが作ってくれた料理の要素を一つ一つ

丁寧に紐解いてみる。

 私はいわしにフォークを差し入れて一口大に切る。フォークでゆっくりと口に運び、そして謎解きを楽しむように噛みしめた。

 いわしの身とともに黒い粒を噛み潰すと、嗅いだことがある香りが口の中に広がっ

た。同時にスパイシーな味が舌の上ではじける。

 黒い粒は胡椒だった。胡椒と分かったけど新たな疑問が生まれる。かなりの量の胡

椒を食べているはずなのに、思ったほど辛くは無い。家庭に一般的にあるブラックペ

ッパーとは違う種類なのだろうか。

 私は顔を上げ尋ねる。

「ねえ、拓さん。いわしにまぶしてある胡椒はずいぶんマイルドだね」

「そうさ、生胡椒だもの」

「生胡椒?」

「塩漬けされたスリランカ産の粒生胡椒を使ったんだよ。普段僕らが使うブラックペ

ッパーは乾燥させた胡椒を挽いたものなんだ。産地や種類によって胡椒というのは味

や香りがことなる面白い食材なんだよ。いわしにも良く合うでしょ」

 ドヤ顔というほどではないにしろ、彼の表情は少し自慢げでもあり嬉しそうな表情

を浮かべていた。

 拓さんの話を聞き終えて、料理を味わうことを再開しようとした時には、春香さん

は既にお皿を空にしていた。

「春香さんの口に合ったようですね」

「はい、美味しくて夢中で食べてしまいました」

 素敵な笑顔だった。

 一、二時間前にお店のドアを開けた時は物悲しげな雰囲気を漂わせていた彼女だっ

たけど、今の彼女は太陽光を反射する水面のようだ。だから私は料理が持つ力が好き

だ。こめた愛情の分だけ、人の心がほんわりとする。全てのお店にそのようなことが

できるとは思わないけど、少なくとも拓さんと俊さんの料理は木漏れ日のように私た

ちの心を優しく照らしてくれる。

 心が疲れはて、凝り固まった私だから分かる。そして、私だから言える。

「春香さん、気分が晴れたようですね」

 彼女は古い友人に街でばったりあった時のような表情を一瞬見せ、そしてほほ笑む。

「そうですね。気分が晴れたと思います」

 改めて自分に自分の気分を問いただすように、彼女は胸に手を置いて言った。

「そっか、今日このお店と出会って良かったですね」

「はい」

 彼女が抱えた悲しい気持ちは拓さんが作り出した風によって、遠い遠いどこかの森

に運ばれていったのだろう。散り散りになった悲しみは土に還り、森の木々が吸い取

るんだ。吸い取られた悲しみは、やがて緑の葉となり爽やかな香りを生むだろう。

 あの時、藤木さんが私にかけてくれた言葉を思い出す。

「春香さんも導かれましたね」

 以前言われた言葉。今後は私が言ってあげる番なんだ。受け売りだけど、彼女に伝

えることの方が重要だと思った。

「導かれた?」

 彼女は首を傾げる。

「そう。このお店って、不思議と悲しみを抱いたり傷ついた女の子が集まってくるの。私もその一人だったんですよ」

「雫さんも?」

「ええ」

 視線が俯く。だけど、引き上げて春香さんを見つめる。

「私、最近恋人と別れたんです。ううん、正確には彼にふられました。ちょうど桜が

咲く前の肌寒い春の夜でした。悲しみに暮れて自暴自棄になりそうな時、この猫とま

たたびと出会ったんです」

「雫さん、ふられたのですか。こんなに綺麗で親切なのに?」

 私はほほ笑む。

「私、こう見えて仕事人間なんです。会社の同期は私のことを働きマンって言うくら

い。今年の春はダメージが蓄積して何のために仕事をしているのか分からなくなった

けど、それでも仕事が大好きなんです。彼は優しい人でした。いつも私を支えてくれ

ました。だけど、彼も支えてほしい時があって、彼が弱った時に私は傍に居てあげる

ことも励ましの言葉もかけることができなかった。何よりも彼が支えてほしがってい

ることすら気づけなかった。私、自分のことばかりで彼をしっかり見ていなかったん

です」

 数時間前に会ったばかりの春香さんに、ここまで自分をさらけ出す私は、なんだか

自分ではないような気がした。だけど、私は続ける。

「猫とまたたびは偶然知りました。私、センター北に住んでいるのですが、猫とまた

たびが土曜日にカフェを借りてオープンしているなんて知りませんでした」

 その後も私は体験したことを彼女に話した。

 拓さんの料理に感動したこと、俊さんのパスタを食べて泣いたこと。そして、藤木

さんに慰められたこと。ふっきれた今は前向きに仕事に取り組めていること。包み隠

さず私のことを話した。

 春香さんは涙目になりながら、私の話を真剣に聞いてくれていた。

 私が猫とまたたびで体験したこと、最近起きたことを話し終えると、彼女は目じり

をこすりながら言った。

「雫さん、初対面の私に色々話してくれてありがとうございます」

 私は首を横に振る。

「私も……、最近失恋しました」

「そうだったんだ」

「はい。私は先週別れたばかりですけどね」

 彼女は笑って言う。笑えることではないはずなのに。私は頷くことしかできないで

いる。彼女も心を開いて話し始めたのに、悲しい話は聞きたくなかった。

「実は、つき合っていた人に浮気されました」

「それは辛いね」

「ええ」

 何かを思い出したのか、彼女の瞳は曇り空の下のダムの水面のような暗さに染まっ

ていた。

 一人の女の子を愛し続けられない男なんて忘れちゃいなよ、と叫びたかった。今す

ぐ席を立って、クライアントにプレゼンをする時に出すような声で言いたかった。

 私はグラスに残っていたアペロールソーダを飲み干した。

「彼のことが大好きだったんだね」

 その言葉で再び彼女の瞳に輝きが戻る。そして、自分に対する言葉でもあった。

 こんな狭くて個室でもない空間で話すような話題ではないけど、猫とまたたびは心

をさらけ出してもいい気持ちにさせてくれる。プロの料理人でもない二人の男性、い

つも心が和む接客をしてくれる雪奈さん。お客さんの気分に合わせて提供される料理。不思議で気まぐれで店名についている猫のようなお店だけど、とても心惹かれるお店。

 彼女は口角を上げて言う。

「はい、大好きでした。そして今も」

 女の子だって恋を引きずる時もある。大好きだった人との関係を、すぐに清算でき

ない時もある。人間ってシンプルじゃない。でも、それが人間らしさだと思う。

「私も。別れた彼が今も気になる」

「同じですね」

「うん。だけどね、先日友達から彼が別の人と婚約したと聞いて、諦めないといけな

くなっちゃったけどね」

 私はほほ笑んで見せる。

「導かれたっていう意味が今分かった気がします。きっと雫さんと話すために、私は

このお店に導かれたのだと思います。きっと目に見えない招き猫がいるのかもしれま

せんね」

「招き猫の霊ってこと?」

「そうかも知れませんね」

「えっ、春香さん見えるタイプ?」

「いやいや見えませよ、私霊感弱いですよ」

 突然、藤木さんが割り込んできた。

「こらこら、料理を楽しむ場所で怖い話をしたらあかんで」

 驚いて言葉も出せずにいる私を他所に、春香さんは言う。

「このお店には、招き猫の神様がいるかもしれませんね、と言いたかったのです」

「招き猫の神様か~。おるかもしれんな」

 そう言うと、藤木さんはニカっと笑って再び穂乃香さんと語りだした。


 帰り道は春香さんのことを考えながら歩いた。

 やはり私たちは新しい恋を見つけることが必要なのだろうか。失恋した心を癒すに

は新しい恋を見つけることや、と藤木さんに言われた。確かにそうかもしれない。春

香さんはどう思ったか知らないけど、私は今すぐ新しい恋を探しだそうという気持ち

にはなれなかった。

 まだ、別れた彼のことを思っている訳ではない。でも、完全にふっきれた訳ではな

い。恋人がいなくなったことで、今は仕事に集中することが優先すべきことではない

かと考えている。

 この先二年以内に結婚したいとか明確なプランがあるわけではないから、このまま

当分独りでもいいかなとも思ったりもした。

 自宅のマンションの周りは学校や公園があるから街灯が少ない。だから、駅の近辺

よりも星空がよく見える。私はマンションに入らず、学校側の歩道に渡る。そして、

柵に腰をかけて空を見上げた。

 鉄紺の空には、まばらに星が散らばっていた。

 まるで天に飲み込まれそうな阿智村の星空とは全然違うけど、それでも夜風に当た

りながら星空を見上げていると気持ちが落ち着く。小さな小さな星の光だけど、何万

年もかけて私の目に届いたことを考えると、ほほ笑ましくなる。

 私は柵に両手を着いて、足を上げてバタバタさせた。

 そして、両足をつく。スタっと音がした。

 よし、もう一度彼女たちと話をしよう。今日の出会いも私にとってきっと意味があ

る出会いなのかもしれない。

 私と同じく失恋の悲しい気持ちに染まった彼女が、今晩は少しでも穏やかに眠れま

すように。そう願いながらもう一度、星空を見上げた。


     ☆


 雨音で目を覚ました。

 カーテンの隙間から漏れて入ってくる月明かりは、消えたり明るくなったり不規則

に天井を照らしていた。

 ポタッ、ポタッ、ポタッ。

 小さく断続的な水滴の音からすると、どうやら雨上がりらしい。屋根から流れ落ち

ている雨水が、ベランダの手すりにでも落下しているのだろう。

 枕元に置いたスマートフォンを手に取り、側面のスイッチを押す。私は眩しさに顔

をしかめながらも時間を確認した。四時を少し過ぎた辺りだった。やっぱり暗闇の中

でスマートフォンを見るのは目に良くない。

 スマートフォンを再び枕元に置いて、体を起こした。月明かりに導かれるように、

カーテンを開け、そして窓を開けた。窓を開けると水分を纏い、ひんやりとした空気

が私を押しのけるように流れ込んできた。

 ベランダに置いてあるサンダルに足を入れる。濡れてはいないけど、少し冷たい。

 斜め三○度上方に雲間から白く輝く月が顔を覗かせた。

 私は手すりの水滴を手でなぎ払い、腕を置く。少しくらい濡れても気にはしない。

腕の上に顎を置いて、月を眺める。

 時々だけど、夜中に目が覚める。悪い夢を見たわけでもないし、騒音で目が覚める

わけでもない。自分でも理由が分からないけど、定期的に目が覚める。そんな時は、

外の空気に当たってぼーっとすることが多い。今夜は月が綺麗だから、再び眠りにつ

くより月明かりを浴びてみたかった。

 いつも思う。月の光は優しい。そっと静かに夜を照らす。

 まるで別れた彼のようだ。

 そう、彼はいつも私を静かに見守ってくれていた。月明かりが夜道を照らすように、私が進む道を何も言わずに照らしてサポートしてくれていた。だけど、月も光を発する太陽がなければ輝けないように、彼も元となるエネルギーを必要としていた。

 ――さようなら、今までありがとう。そして、おめでとう。

 彼に送った最後のメッセージだった。短くシンプルなメッセージだけど、私はこれ

まで共に過ごした時間の感謝を込めて送った。

 今もLINEを立ち上げれば彼とのトーク履歴を残している。だけど、彼と別れて

から彼とやりとりしたトークを開いたことは一度もなかった。

 現代はこんなにもコミュニケーションツールが発達していて、会っていなくても人

との距離がないように感じる世の中なのに、もう彼との距離は何光年も離れてしまっ

たように感じる。あと一ヶ月もすれば夜空に輝くベガとアルタイルは、かざした手の

中に収まってしまうけど、実際は一六光年も離れている。そんな途方も無い隔たりが

できてしまったように感じる。

 きっと、今の私の課題は過去の恋にちゃんとお別れをすることなのかもしれない。

彼の婚約を知ってふっきれたと思っていても、こうやって俯いてしまう時がまだある。

 私は静かに息をはいた。

 冷たい夜風に混ぜ込むように細く長く息をはいた。そして、暗闇に微かに浮かぶ遠

くの家屋を眺めながら考える。

 考えてみると当たり前なのかもしれない。

 いつの時代も人間は別れと出会いを繰り返して生きてきたんだ。彼の選択を認めた

くないと思った、理解できなかった時があったけど、もう分かっている。あとは行動

するだけなのかもしれない。自分の問題を解決できるのは、自分しかいないのだから。

 腕に置いた顎をそっと上げた。

 優しい月明かりが差し込む部屋に入り、そっとカーテンを閉めた。

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