鉛色の季節と草原の香り③

 物陰に身を隠す猫のように、恐る恐る曲がり角から顔を覗かせる。

 夕方までカフェだった建物に光が点っている光景を目にして、安堵の息をはく。顔

の強張りが一瞬で解けて口角が自然と上がる。鼓動が早まり連動して足も速まる。

 先週の土曜日、猫とまたたびは開店しなかった。お店の前まで行って、店内が暗い

ことでオープンしていないことを知った。いつも同じ場所で昼寝をしている猫を見に

いったら、いなかった時の気分のようだ。

 私はまだこのお店が開く日と閉まる日を知らない。だからこうして、お店まで足を

運んで自分の目で確かめるしかない。猫のような気まぐれで開ける日を決めているの

だろうか。

 木のドアの前で立ち止まり、ふっと短く肺から空気を押し出した。

 ゆっくりとドアを引く。

「いらっしゃいませ」

「こんばんは」

 出迎えてくれた雪奈さんに挨拶する。

 一八時、店内は既にカウンターの一席を残して先客で埋まっていた。

「こちらへどうぞ」

 雪奈さんは私を空いている席に案内してくれる。入り口側にあるカウンター席だ。

冬ならドアの開け閉めで寒風に晒されそうな席だから敬遠されそうだけど、今日は暖

かいから入り口側の席でも気にならない。

 カウンターの椅子に腰をかけて、カウンター内の二人に「こんばんは」と言う。二

人は手を動かしながら「こんばんは、いらっしゃい」と言ってくれた。

 雪奈さんはおしぼりとお冷を持ってくる。

「雫ちゃん、さっそくだけど今日はどんな気分?」

 このお店には決まったメニューがない。よくレストランにあるお薦めメニューを書

いた黒板もない。そして、コース料理もない。料理を頼む方法は、その時の気分を伝

えることだ。お客の気分を聞いて、拓さんは買ってきた食材の中から思いついた料理

を作ってくれるシステムだ。

「う~ん、今日は安心した気分かな」

 実際私は、猫のまたたびがオープンしているのを目にして安心した気持ち、そして

先日無事キャンペーンの受注をゲットした安堵が私を満たしていた。

「オッケー」

 彼女はほほ笑んで、キッチンカウンターの中にいる拓さんに内容を伝えた。内容を

聞いた拓さんは、手を止めて俊さんと相談しはじめた。

 どんな料理が出てくるのか想像するだけで、心が飛び跳ねる。

 これまでとは違う気分を伝えた。初めて猫とまたたびに来た時は、自暴自棄になり

そうな気分。二回目は疲れてしんどい気分。三回目は眠たい気分。自分でも分かる、

今日は初めてポジティブな気分が口から出てきた。

 料理が出てくるまでの間、私は店内の様子や音を楽しむ。今日のBGMはボサノバ

だった。日本のアニメの曲だけど、時折混じるフランス語からして歌っているのはた

ぶんフランスの女性シンガーだろう。

 BGMは拓さんの選曲なので、いつもフランス音楽が多い。ゆったりとしたテンポ

の曲が多いけど、柔らかな空気で満ちているこのお店にはぴったりだ。

 ささくれた心を優しく撫でてくれるような音楽に控え目な会話が飛び交う。このお

店は六席のカウンターと二名掛けのテーブルが二つあるだけだ。カウンターは私のよ

うに一人で来ているお客ばかりだけど、いつも拓さんが隣同士で話しをするきっかけ

を作ってくれる。謙虚で気遣いができる拓さんは素敵だと思う。

 店内のお客は、みんな異なる料理を口にしていた。私を除いて九人とはいえ、それ

ぞれのお客の要望を聞いて、異なる料理を提供するのは並大抵のことではない。彼ら

はどこかのレストランで修業でもしていたのではないか、と思ってしまう手際の良さ

だ。

 キッチンを眺めることに集中していた私に、雪奈さんが言う。

「お待たせしました。春のサラダです」

 木製のカウンターに置かれるお皿の音が好きだ。ことっと優しい音がする。

 私はいだたきますと言って、フォークに手を伸ばした。リーフにフォークを刺し、

持ち上げて顔に近づけると爽やかなライムの香りが鼻の奥に届く。私はリーフを口に

運ぶ。塩と胡椒のシンプルな味付けでリーフのほろ苦さを楽しみ、そしてライムの香

りと酸味が鼻孔をくすぐる。

 白いお皿に盛られたリーフの上には、丸められた生ハムが乗っていた。

 今度はリーフと共に丸められた生ハムも食べてみる。

 まず舌が感知したのは生ハムの塩っけだった。だけど、咀嚼すると生ハムの中から

とろりとした甘いフルーツが溢れ出てきた。

 ――うん、マンゴーだ。

 初めて食す組み合わせだ。生ハムの塩っけとマンゴーの甘さがお互いの味を引き立

て、そしてライムの酸味が合わさることで春のそよ風に当たっているような心地よさ

を感じさせてくれる。

 ふとキッチンに視線を向けると、拓さんと目が合った。私は親指を立ててほほ笑む。拓さんは菜の花のように明るくほほ笑んでくれた。

 気がつくと、お皿は空になっていた。

 ちょうど後ろのテーブル席に雪奈さんが料理を運んできたタイミングで、彼女を捕

まえる。

「雪奈さん、飲み物の注文いいですか?」

「はい、どうぞ」

「この前飲んだアペロールってありますか?」

「ありますよ」

「じゃあ、ソーダ割でお願いします」

「はい、分かりました」

 スタスタとキッチンに向かいドリンクを作る。極力お店の雰囲気を邪魔せず、控え

目に行動するところが彼女の素敵な配慮だ。

 拓さんが、カウンター越しで目の前に立つ。

「雫ちゃん、今日は何皿食べたい?」

「う~ん、メインの前にもう一皿食べたいな」

「了解」

 拓さんはそう言って、すぐにしゃがみこんだ。何かを開ける音がしたから、冷蔵庫

を覗きこんでいるのだろう。

 私は割りと量を食べれる。学生時代から体育会系の部活に所属していた影響だ。こ

のお店は三品が基本だけど、物足りない方のために一皿追加することも可能だ。だか

ら最近拓さんは、私に何皿食べたいか訊いてくれる。

 ただ、学生時代と同じ量を食べられるように戻ったのは最近のことだ。このお店に

出会うまで、食べることそっちのけで仕事をしていたため、胃が小さくなっていた。

 拓さんと会話を終えてすぐに、雪奈さんがアペロールのソーダ割りを持ってきてく

れた。紅茶のソーダ割りのような色をして、中にレモンが一切れ入っている。二回目

に来た時に勧めてくれたお酒だ。なんでも、アペロールは拓さんが好きなお酒らしい。

 拓さんは何を作るか決めたようだ。フライパンを取り出し、何かを炒め始めた。

 先ほどいただいたサラダの余韻を楽しみながらアペロールソーダを口にする。

 突然、隣に座る女性が私に向かって言う。

「アペロール、好きなんですか?」

「えっ、はい」

「私もやねん」

 急きょ飛び出した関西弁に額が左右に引っ張られる。

「好きって言ってる割りには、最近全く飲んでないよね」

 拓さんが彼女に突っ込む。

「ええやん、別に。春なんだしワイン飲みたい気分なんや」

 よく分からないロジックだ。彼女の顔は既にほんのりと赤みを帯びていた。

「それより、あんた綺麗な顔しとるな」

「ごめんね、雫ちゃん。この人酔っぱらうと近くに座る女の子に絡むんだよね」

「女の子同士、話しているだけよね~」

「ええ」

 顔を引きつらせながらほほ笑んでみせる。

 拓さんは料理を作りながら彼女の相手をしていた。そして、私もその会話に加わる

形になった。

「私、藤木っていうねん。よろしく」

「立花です、よろしくお願いします」

 藤木さんは大阪のおばちゃんみたいなちゃきちゃきの関西弁ではなく、おっとりと

した雰囲気の関西弁で、どこか高貴さを感じさせるイントネーションだった。最初は

びっくりしたけど、彼女の関西弁はお店の雰囲気に溶け込んでいて、拓さんとのやり

とりも聞いているだけで気持ちがほっこりとなる。

 彼女はラタトゥイユのような料理を食べながら赤ワインを飲んでいた。

 藤木さんは「食べてみ」と言って、小皿に盛って私の前に置いてくれた。


 それから、私は藤木さんと会話を楽しんだ。彼女は猫とまたたびがオープンした当

初から通っている常連で、元々拓さんの友達だと言っていた。拓さんの友達で他にも

常連がいるけど、お店が開く度に通っているのは藤木さんだけだと言っていた。

「私も何度か来てますが、お会いするの初めてですよね」

「そやね。私、鵜の木に住んでいるから早めに帰るの。雫ちゃん、割と遅い時間に来

ること多いのやろ? だから今まですれ違いだったのかもしれんな」

 確かに。私はこれまで休日出勤を終えてから来ていたので、訪れる時間も閉店一時

間くらい前で他のお客もいない状態が多かった。

 私はちょっとした疑問を尋ねる。

「みなさん、どうやって猫とまたたびのオープン日を知っているのですか? 毎週必

ずオープンする訳でもないし、先週来てみたら閉まっていたんですよ」

 まるで猫の気分のようなお店だと割り切って、皆来ているのだろうか。

 雪奈さんは意外な言葉を口にした。

「雫ちゃん、知らないの?」

「何がですか?」

「猫とまたたびのフェイスブックページ」

「あるんですか?」

「あるねん。そこにな、今週オープンしますとか告知が出るんやで。看板に書いとる

やろ」

 思い返すと、これまでお店の看板を注視したことがなかった。

「そうなんですね~」

「お店の前の立て看板には大事なこと書いてあるから、よく見とき」

 初めて訪れた時もそうだった。お店の入り口前に看板が置いてあることは認識して

いたが、書かれている内容を注視せずお店に入ることばかり考えていた。

 この話題に便乗して、私は疑問に思っていたことをことごとく藤木さんに尋ねた。

彼女に訊いたのは、社会人が飲食店をできるものなのか? 拓さんはどこで料理を身

に付けたのか? 店名の由来は? などだ。

 藤木さんは知っていることをとにかく教えてくれた。拓さんはフランスに留学経験

があり、その時にフランス料理を身に付けた。俊さんは学生の頃、イタリア料理店で

アルバイトをしていたので料理ができる。二人とも食品衛生責任者資格を有している

ので料理の提供には問題なし。店名は拓さんと俊さん二人とも猫好きで、酔っぱらう

度にまたたびに酔っぱらう猫のようだと揶揄されたことから、猫とまたたびという店

名になったと教えてくれた。

 私は心に引っかかっていた疑問を口にする。

「俊さんって、飲料メーカーにお勤めですか?」

 広告会社のDNAと言うのだろうか、クライアントにはとことん気を使う。もし、

俊さんが飲料メーカーの社員だったら、私は彼の前でクライアントの商品以外の飲

料など口にできない。このお店ではそこまで気を使う必要はないかもしれないけど、

万が一ということもある。だから私は訊いた。

 藤木さんが口にしたのは、以外な答えだった。

「違うよ。俊さんは広告会社勤めやねん」

「えっ、広告会社ですか? この前、中野の飲料メーカーのオフィスで見かけたので

すが」

「ああ、今何かのプロジェクトで週に何日かクライアント先に常駐しとるって言っとったな」

 私は胸をなでおろす。クライアントになんでこんなに敏感にならなければいけない

のだと思うけど、藤木さんに確かめて良かったと思った。彼女に尋ねなかったら、私

は今日閉店近くまでいることになっただろうから。

「雫ちゃんは何の仕事しとるん?」

「広告会社で働いています」

「へ~、営業?」

「いえ、広告戦略を考える仕事なんです」

 次の瞬間、キッチンのカウンターから声がした。

「ほう、ストプラか」

 俊さんの声だった。

 それに対し、藤木さんが言う。

「それって、ガンダムやん」

「えっ、ガンダム?」

 私は固まる。

「冗談や、冗談。ほんまはストラテジックプランナーやろ。難しい仕事しとるな~」

 大変な仕事、ではなく難しい仕事と彼女は表現した。どうやら藤木さんは広告会社

の仕事をある程度知っているみたいだ。


 藤木さんと色々話しこんでいるうちに、雪奈さんが二皿目を私の前に置いた。

「はい、お待たせしました。草原に浮かぶ太陽です」

「うわ~、絵画みたいに綺麗」

 拓さんの料理にはいつも名前がつけられている。目視して実際に味わないと、使用

されている素材が分からないことも好奇心を掻き立てる。

 まるで夕日のようにオレンジ色で丸くセルクルで盛られた料理。周りには、鮮やか

なグリーンのソースが敷き詰められている。まず見た目でオレンジ色の小さな粒々は

とびっこだと分かった。とびっこの上にはセルフィーユが控え目に乗っている。緑の

ソースは何やら葉っぱと柑橘系の香りが混ざっている。とびっこの下はどうやらお米

が見えた。

 私はスプーンを持って一口分をすくってみる。

 ねっとりとしたリゾットにとびっこのプチプチとした触感が良いアクセントとなる。リゾットには蟹の身が混ざっており、海の旨味が舌に広がる。緑のソースはバジルのペーストにライム果汁を混ぜたソースだろう。濃厚なリゾットに爽やかさを加え、口に運ぶのを促進させる。

 藤木さんがワインを一口飲みこんで、言った。

「美味しいでしょ」

「はい」

 私の笑顔を見た彼女は、キッチンに顔を向けて言う。

「拓さん、やるじゃん」

 藤木さんにそう言われた拓さんは、恥ずかしそうに笑った。いつもとは違う、初め

て目にする笑顔だった。

 ――もしかして。

 料理の美味しさに加えて、私は感じ取った予感になんだか嬉しくなる。

「雫ちゃんの料理見てたら、お腹すいてきちゃった。私も何か頼もうかな」

「何食べたい?」

 彼女には気分を訊くのではなく、ダイレクトに食べたいものを訊くのか。そのやり

取りに新参者の私が敵わない歴史の存在を感じる。

 藤木さんは言う。

「う~ん、パスタが食べたいな」

「パスタはダメ」

「どうして?」

「俺、そんなにパスタが得意じゃない」

 拓さんは困ったような笑顔で言った。

「俊くんが作れるじゃん。それに乾麺隠し持ってるでしょ?」

 私の目は誤魔化せないぞ、とプレッシャーをかけるように藤木さんは二人をニコニ

コしながら見つめる。私には見つめるというより睨んでいるように見えた。

「ここ、一応ビストロなんだけど」

「趣味でやっているお店なんだし、フランスでもパスタを出すレストランがあったと

思うけど。拓さん、ご存じなはず」

 拓さんは観念したように、苦笑いした。

「俊くん、お願い」

「はいよ」

 布巾で手を拭いた俊さんが鍋に水を入れて火にかけた。

「藤木さん、今回だけですよ」

「あら、いいじゃない。俊くんのパスタ美味しんだし」

「そういう問題じゃ」

 問題があるとすれば、どういう問題なのだろうか。私は首を傾げる。

「雫ちゃんも食べてみる?」

「えっ、いいんですか?」

「まだ、お腹に余裕があるんでしょ?」

「これからメイン食べる予定でしたけど、余裕ありますよ」

 藤木さんは俊さんを見つめ、「だって」とだけ言った。俊さんは渋々「はいはい」

と言ったが、筒状のプラスチックケースに入ったパスタを棚から取り出していた。

 藤木さんはその様子を満足げに眺めながら、ゆったりワインを口に含んだ。

 そして、まったりとした口調で言う。

「拓さん、雫ちゃんパスタ食べるからメイン前に追加した一皿はなし、そして、メイ

ン出すの後にしといてあげて」

「分かった」

 拓さんは了承しながらも、少し頬が引きつっていた。

 キッチン内の二人は、まるで番犬を恐れる二匹の猫のようだ。


 私と藤木さんの目の前にお皿が置かれる。

「カルボナーラです」

 俊さんが藤木さんの要望で作ったのは、カルボナーラだった。私が知ってるカルボ

ナーラより黄色が濃いカルボナーラだ。春の河川敷に咲き乱れる菜の花のようだ。

 さっそくフォークにパスタを巻きつけ、そして口に運ぶ。

 私の中に充満するチーズの香り、そして卵の味わい。ピリッとした胡椒のアクセン

ト。人生で一番美味しいカルボナーラと言っても過言ではない。パスタの歯ごたえも

ソースも完璧だった。全くダマになっていないし、麺が衣を纏うように絡む。

 拓さんの料理と同じく、優しい味がするパスタだった。

 実は俊さんは料理があまりできないと思っていた。いつも拓さんのアシスタント的

な作業ばかりしているからだ。先ほど目に飛び込んできたフライパンを煽る姿は、華

麗とさえ思える姿だった。

 私はその姿に見とれた。目を奪われた。無駄のない動きは美しかった。

 この二人は、どこまで私を魅了するのだろう。

 ふんわりと鳥の羽根が肩に舞い降りてきたような感触を覚える。振り向くと、藤木

さんが私の肩に手を置いていた。

「どうしたの、雫ちゃん」

「えっ」

「えっも何も、悲しいことでもあった?」

 目から熱い雫が流れ落ちる。自分でも理解できなかった。

「あれっ、どうしたのかな」

 私はフォークを置いて、人差し指で涙を拭う。

 藤木さんは優しく私の髪を撫でてくれた。

 私は声を出すこともなく、ただただ涙だけが私の中から溢れ出る。藤木さんを始め、周りのお客さんは皆優しく私を見つめてくれた。雪奈さんも拓さんも、俊さんも優しく見守ってくれていた。

 涙が止まった私を見て、藤木さんが言う。

「さあ、冷めないうちに食べちゃおう、ねっ」

「はい」

 再びフォークを手にとって、お皿に残っていたパスタを口に運ぶ。

 猫とまたたびは私の心を揺さぶり過ぎる。鉛色に染まるだけでなく、鉛のように重

くなった私の心を再び躍動させてくれたんだ。動くことを思い出した私の心は、寒い

冬を越え、生き物や植物の躍動感に溢れる春の色に染まりつつある。

 穏やかな風の日に河川敷の土手で日向ぼっこしているように、体がじんわりと熱く

なる。

 お皿を空にしてコップの水を飲み干したタイミングを見計らったように藤木さんが

言う。

「雫ちゃん、失恋でもした?」

 私は首を振る。

「なんだか、心が温かくなって」

「そっか」

 藤木さんはもう一度、私の髪を撫でて、それ以上口は開かなかった。

 仕事に追われ、毎週のように休日出勤を繰り返していた私は、桜の花が咲く前に恋

人にふられた。


     ☆


 仕事の終わりが見えたタイミングだった。シャツの胸ポケットに入れていたスマー

トフォンが震えて、メッセージの受信を知らせた。

 ポケットからスマートフォンを取り出して画面を立ち上げると、彼からのLINE

のメッセージだった。

<何時になってもいいから、仕事が終わったら会いたい>

 私は手短に、三〇分後に終わると返事を返した。

<君のオフィスビルの近くで待ってる>

 私は「了解」のスタンプを送り、仕事を再開した。会えない日が続いてたから、仕

事終わりに軽くご飯を食べに行こうということだろうか? これまで彼が唐突に会お

うと言ってくることはなかったので、なんだか嬉しかった。パソコンのキーボードの

上を動く指がリズム良く動いているように感じた。

 彼に伝えた通り、約三〇分が経過したところで取り掛かっていた資料の作成が終わ

り、パソコンを閉じた。椅子に掛けてあったコートを取り、急いでエレベーターに向

かった。

 口数が少なく自己主張をあまりしないが、優しい彼だった。

 春に押し出されそうな冬が最後の悪あがきをしたような、寒い風が吹く夜だった。

私は虎ノ門ヒルズの通用口から出たところで、立ち止まった。街灯で微かに浮かぶシ

ルエットで、彼だと気づいた。私は足早に彼のもとに近づいた。

「お待たせ、寒い中待たせてごめんね」

「いや、いいんだ。呼び出したのは僕だし」

「新橋で飲み会でもあったの?」

「いや、仕事帰りだよ」

「そっか」

 それから彼はしばらく口を噤んで、私から視線を外し前を見る。

 横断歩道に差しかかかる。信号が点滅して、青から赤に変わるくらいの間で黙り込

んだ彼が口を開いた。

「僕と別れてほしい」

 ゆっくりとした口調だが、とても鋭利な言葉だった。突然の言葉に頭が追いつかな

くて、理解できなくて、ただ胸に強い痛みを感じた。それはナイフのようなもので胸

を突き刺されたような痛みだった。同時に地球上から空気が消えたような息苦しさを

感じる。

 言葉というのは、時に何の抵抗もなく胸に突き刺さる。

 冷たくなった頬の上を涙が流れた。私は濡れた頬を拭うこともせず、ただ彼をまっ

すぐ見つめた。涙でぬれた頬が、冷たい風に晒されて凍りつきそうだ。こんなにも寒

い日なのに、目だけが熱かった。

 私は震える唇を抑え込んで、辛うじて言葉を発する。

「急に、どうして?」

 弱々しく漏れた言葉を振り払うかのように、彼はごめんとだけ言った。

 横断歩道の信号が青に変わる。彼は足を前に出すが、私は足が地面に張り付いてし

まったように動けなかった。

「待ってよ」

 私は咄嗟に彼の手首を握る。

 冬の暴風のように荒々しく、彼は私の手を振りほどいた。彼らしくない暴力的な力

の込め方だった。

 振り返らずに彼は言う。

「君は何も分かっていない」

 その一言だけ残し、彼は点滅する信号を見て走り出し、帰路を急ぐ会社員の流れに

混ざって消えていった。彼の姿を隠すように、車が目の前を通り過ぎていく。

 その後、自宅までの道のりはあまり記憶に残っていない。気づいたら自宅だった。

 帰宅してから彼のメッセージに気付いた。LINEを立ち上げ、恐る恐るメッセー

ジを開く。ごめん、で始まる文章には私が知らない彼の気持ちが綴られていた。

 彼は私といることでの癒しを求めていた。彼は一度も私に恋愛で求めていることを

口にしたことなどない。でも、私と同じく心の奥底で私に癒しを求めていた。

 私は彼の優しさに癒しを感じた。だから付き合った。

 別れてようやく彼も同じだったと気付いた。

 激務の私と会えない日々が続き、今年はバレンタインデーに何もあげれなかったし、ホワイトデーも会うこともできなかった。私に何かしてほしいとかそういうのではない。ただ、私と一緒に過ごす時間が何よりも大切で、その時間が彼の心を支えてあげていたと、ようやく気付いた。

 私が本質を知るのは、いつも涙を流した後だ。


     ☆


 私は涙を拭って言う。

「藤木さん、私、自分の気持ちを何かで塗り固めていたと思う。本当は傷ついて癒す

ことが必要なのに、忙しさに負けて自分の心をケアすることから逃げていたんです。

でも、このお店と出会って少しずつ心が癒されはじめ、元気を取り戻しつつある心が

今日一気に揺さぶられた。なんか、塗り固めていたものが取れた気がします」

 藤木さんはふふっと笑って言った。

「雫ちゃんも導かれたんやね」

「導かれた?」

 私は首を傾げる。

 私の反応が面白かったのか、彼女はほほ笑んで言った。

「このお店ってな、不思議と心が疲れた人を引き寄せてしまうねん。雫ちゃんもきっ

と不思議な力に引き寄せられてたどり着いたんだと思う。あの二人ってプロの料理人

ちゃうけど、優しさ溢れる料理を出してくれるやろ。だからな、何度か通うと知らず

知らずのうちに荒んだ心が癒されて、元気を取り戻す人が多いねん」

 彼女の一言で分かった気がする。

 ――今日はどんな気分ですか?

 だから、拓さんはこう訊くんだ。

 その時の気分に応じた料理を出してくるのだとばかり思っていた。違うんだ。気分

を訊いて、動かなくなった心の根っこから引き抜いてくれるような料理を作ってくれ

るんだ。

 彼女は続ける。

「拓さんと俊くんの料理は、プロに比べたら落ちるで。けどな、優しさがすっごい込

められているねん。昔な、料理は心や、と叫ぶ和食の料理人がおってな、高校生の私

は当時何言ってんだこのおっちゃんと思ったけど、今ならすごく分かるねん。彼らは

趣味の延長で料理しているかもしれないけど、不思議とな私たちの心を動かす料理が

できあがるねん。拓さんがそこまで意識しとるかは知らんけどな」

 彼女はにっと笑う。

 恋人にふられ、仕事に忙殺されることをよしとした自分は、機械的に毎日を過ごし

ていた。その日々の中に、感動を見出すこともせず、苦しい時間が過ぎることだけを

願い、何かに怯えるように膝を抱えていた。

 藤木さんが口にした一言一言が今なら分かる。

 このお店には決まったメニューがないから、目の前に皿が置かれるまでどんな料理

が出てくるのか分からないし、拓さんが作る絵画のような料理を目にして、驚きで心

が大きく跳ねる。そして、彼らの料理は温かく心が温まる。心の中が一面の菜の花

が咲き乱れるような春の風景に染まる料理なんだ。

 残りのワインを飲み干して、藤木さんは続ける。

「私もな仕事に忙殺された時期があるから分かるけど、仕事こなすことだけになって

仕事の中に少しの楽しみも見いだせなくなると、心って不思議と固まってしまう。だ

けどな、心が動けば足も動く。人生という旅の途中で立ち止まることは多々あるけど、人はまた旅することができるんやで」

 また私の髪を撫でてくれる。

 私には姉はいないけど、もし姉がいたら藤木さんのように泣いた時には優しく髪を

撫でてくれるのだろう。

 ――また旅?

 彼女のフレーズが心に引っかかる。

 ――ああ、そういうことか。

 お昼前、付き合っていた彼を紹介してくれた友達から、彼が婚約したことを伝えら

れた。もう一度、彼と並んで歩くことは叶わぬ夢だと思い知らされたばかりだけでな

く、私に別れを告げたあの日よりもずいぶん前から、既に私とは別の人が彼の隣を歩

いていたことを察した。

 私はほほ笑んで言う。

「藤木さん、ありがとう。私、また頑張れる」

 春が訪れる前に終わりを告げた一つの恋に、そして彼に、私はようやくさよならと、ありがとうを言えそうな気がした。

 私はほほ笑む。

「そうそう、雫ちゃんには笑顔が一番や」

「私もそう思います」

 驚いた二匹の猫が同時に飛び跳ねるように、私たちは同じタイミングで笑った。

 そして、私たちは藤木さんが帰る時間になるまで二人で語り合った。まるで菜の花

畑の中で会話を楽しんだような、温かい気持ちに包まれるひと時だった。

 だけど、胸の奥にある恋心は凍ったままだ。

 氷は雪と違い、すぐに解けない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る