鉛色の季節と草原の香り②

 あと一週間もすれば、大型連休に入る水曜日。

 クライアントへの広告キャンペーンのプレゼンを行うため、私は営業担当とクリエ

イティブ担当の三人でクライアントのオフィスに訪問した。

 受付で宣伝部の担当者名を伝えている営業担当の後ろ姿を眺めながら、私とクリエ

イティブ担当が立って待っていた。

 突然彼女が言う。

「き、緊張してきた」

 毎度のことなので、私は彼女の独り言が聞こえなかったふりをした。

 受付の女性に笑顔で会釈をした営業の新津さんが、受け取ってきた入館証を私たち

に差し出して言う。

「今日は一五階の和み会議室です」

 私たちは来客用パスを首から下げて、エレベーターホールに向かった。高層階用の

エレベーターに乗りこむ。タイミングよく、エレベーターに乗ったのは私たち三人だ

けだった。

 飼い主の姿を見失った犬の鳴き声のような声で彼女は言う。

「大丈夫かな~?」

「プレゼンのこと?」

「うん」

「理沙がプレゼンする訳じゃないし、そんなに身構える必要はないでしょ」

「そうだけど。クリエイティブの質問には私が答えないといけないし、やっぱり緊張

するよ」

 私が働いている広告会社では、よほど大人数のプロジェクトにならない限り、アサ

インされたメンバーがプレゼンの場に立ち会う。そして、それぞれの担当領域につい

てクライアントに説明したり質問に回答したりする方針になっている。今日のプレゼ

ンは私が全パートを担当することになったのだが、クリエイティブの質問については

制作を担当した理沙が受け持つ。

 おっとりとした口調で新津さんが言う。

「今回はコンペじゃないので大丈夫ですよ、肩の力を抜いて頑張りましょ」

「うん、分かってはいるけど……」

「会議室の名前が和みですし、きっと和やかな雰囲気のプレゼンになりますよ」

 新卒二年目の営業担当に慰められてどうする、と言いたくなったど、私は言葉を飲

み込む。

 エレベーターが止まりドアが開く。一五階の応接スペースで地蔵のように静かに座

って担当者が現れるのを待つ。余裕を持って到着したから、クライアントの担当者が

現れるまでまだ時間がかかりそうだ。クライアントの社員さんが近くを通り過ぎる中、私たちは枝に擬態化して外敵に見つからないように息を潜める虫のように、一言も発しなかった。

 私たちの前で止まる人影を感じて目線を上げると、二○代と思われる男性が立ち止

まった。

「新津様、お待たせしました、ご案内いたします」

 彼の声に反応して、私と新津さんは瞬時に立ち上がり、遅れて理沙が立つ。

 彼に案内された会議室に入ると、宣伝部に属する方々は突き刺さるような視線を投

げかけてきた。敵意ではない、私たちを品定めするような鋭い視線だ。以前の私だっ

たら怯んでいたかもしれない視線に対し、不思議と前向きに捉える事ができた。猫と

またたびに通って、少しだけ癒えた心が厳しさを受け止める柔軟性が向上したのかも

しれない。

 会議室に入り会釈をしながら「こんにちは」と言う。

 奥に案内された私たちはバッグからアイブックを取り出し、すぐにプレゼンの準備

に取り掛かる。

 ――今回は立花に任せた。

 一週間前にクリエイティブディレクターが唐突に私に言った。

 むちゃぶりに屈した訳ではない。自信はないけど自然とチャンスだと思えた。

 だから私は「頑張ります」と短く答えた。

 大々的なキャンペーンではないにしろ、クリエイティブディレクターが同席しない

プレゼンは初めてだし、私がメインプレゼンターとしてクライアントの前に立つのも

初めてだった。初めてづくしの案件で不安がわき出てもおかしくない状況なのに、私

はこの状況に心地よい高揚感に満たされていた。根拠はないけど、上手く物事が運ぶ

予感がした。まるで上手く風を捉え気持ち良さそうに羽ばたく渡り鳥が見る世界のよ

うに、この会議室の誰よりも高い位置から状況が見えている気がした。

 出席者にプレゼン資料のプリントを配り終え、プロジェクターに接続し終えた私を

チラ見した新津さんが言う。

「この度は御社広告キャンペーンのプレゼンの機会をいただきまして、誠にありがと

うございます。伺いましたオリエンテーションの内容をもとに、夏からのキャンペー

ンのご提案について立花からご説明いたします」

 彼女は私にバトンタッチの意味を込め、私を再度チラ見した。

「本キャンペーンのご提案につきまして、こちらのアジェンダに沿ってお話しいたし

ます」

 投影したスライドに視線が移るのを確認した私は、周りに聞こえない程度の小さな

息をはき出した。

 そして、ゆっくりとキーボードをたたきスライドのページを切り替える。

 隣の理沙は、相変わらずアイブックの画面を見つめたまま固まっていた。


 プレゼンの資料を説明し終えた私は椅子に腰を下ろした。

 まるでシナリオがあるかのように、何も言わなくても新津さんが続けて言う。

「立花からご説明さしあげましたキャンペーンのご提案につきまして、ご不明点はご

ざいますか」

 その言葉を待ってましたとばかりに、宣伝部の課長が口を開いた。

「今回依頼したキャンペーンの趣旨は、当社の商品を以前飲んでいた人々のアクティ

ベーションなんだけど、どうしてテレビCMを使わないの?」

 想定内の質問だ。課長から敵意は感じられない。純粋な疑問なのだろう。

 私は口角を上げることを意識してから口を開いた。

「はい、当初はメディアプランにテレビを加えることも考えました。ですが、今回の

イオンスェットのリボーンキャンペーンはマス媒体を利用した瞬間風速を上げる施策

よりも、生活者の文脈に溶け込む取り組みが必要と考えました。御社の商品は誰もが

知るロングセラー商品です。子供の頃多くの人が一度は口にしたことがあります。そ

の時の味と思い出を呼び起こすために、リアルイベントからデジタルで広がる仕組み

の方が効果の余韻が残ると考え、テレビを使うことを外しました。CMは打ちません、その代わりニュース番組に取り上げてもらえるようにPR戦術は駆使します」

 今回、私たちが提案したキャンペーンの対象商品はスポーツドリンクだ。私も小さ

い頃から飲んでいたし大学生まで飲んでいた。社会人になってスポーツから遠ざかり、クライアントの商品を手にする機会が皆無となるまでは馴染みのある飲料だった。

 おまけにクライアントの商品は、ライバル企業のスポーツドリンクに押しに押され、一○年前に比べるとかなりのシェアを奪われた。そこで商品のリニューアルを実施し、夏にキャンペーンを展開する運びとなったのだ。

「なるほど、だからマラソン大会のオフィシャルスポンサーになる提案なのか」

 クライアントの課長は二回頷いた。

 私たちは夏の北海道マラソンのオフィシャルスポンサーとドリンク提供を軸にコミ

ュニケーションが生活者に派生させる方針で提案を行った。

「ひとついいかな?」

 先方の部長さんがゆったりと手を上げる。

「はい」

「この一○キロごとにイオンスェットのゲートを置く狙いを教えてくれる?」

 これは理沙のアイデアだ。

 私は彼女の肩にそっと手を置いて、行くよと合図を送る。

 えっ、私なの? と顔に書いてあったが、私は気にせずに言った。

「起案者の天野からご説明させてください」

 彼女の脇を小突いて、起立を促す。プレゼンはしないはずじゃんと泣きそうな顔を

する彼女を谷に突き落とすように、もう一度小突く。

「あっ、はい。えーっと」

 頼りなさが前面に出ているけど、これは彼女が成長するチャンスだと心を鬼にする。

 ――考えをそのまま言えばいいから。

 私は小声で囁く。

「ツール・ド・フランスってご存知ですか?」

 突然の質問にクライアントの面々は豆鉄砲を食らった鳩のように固まった。

「あ、ああ、確かフランスで開催される自転車レースのことだったね」

「はい、ツール・ド・フランスではゴールの一キロ手間にはフラム・ルージュという

ビニール製のゲートがあります。元々はゴールを知らせる赤い旗だったらしいのです

が、現在はテレビ放映の効果を狙ってミネラルウォーターの商品名が載せられた広告

塔のような役割も果たしています。その、フラム・ルージュを参考に、マラソンで給

水ポイント手前や折り返し地点にイオンスェットのポールを立てます。えっと、マラ

ソン参加者にはイオンスェットが飲める給水所の合図とするだけでなく、沿道で応援

する方々とテレビやオンライン配信の視聴者にも商品を認知させる狙いがあります」

 やればできるんだ。

 彼女が説明を終えたタイミングで「ご提案ですが」と言って私は続ける。

「今回はオフィシャルスポンサーとして給水ドリンクの供給だけではなく、沿道の市

民にもイオンスェットを配ってはいかがでしょうか。北海道の夏は私たちのように東

京に住んでいるものにとっては涼しく感じますが、現地の市民にとっては真夏の暑さ

です。真夏の外でじっと沿道に立つだけでも疲れるはずです」

 質問をしたクラインとの部長さんが顎に手を当て、視線を天井に向けた。

「沿道の方々にも配るアイデアはいいね」

 心の中でポンっとタンポポが咲く。

「はい、そうすることで心を潤すというイオンスェットのタグラインにあるように、

沿道の方々とともに選手を応援するという一スポンサーの枠に留まらない取り組みが

できるのではないかと考えました。また、北海道マラソンはフルマラソンの他にファ

ンマラソンもありライトにマラソンを楽しむ人々も参加します。記録を追う方もいる

と思いますが、マラソンを楽しむために参加する気持ちが強い方々です。ゴール後に

イオンスェット片手に写真撮影を楽しめるインスタグラム用のパネルもあると、商品

の拡散につながると思います」

「インスタ映えというやつ?」

「ええ」

「映えるパネル作れそう?」

「はい、イメージを持ってきましたのでご覧ください」

 昨日急きょ理沙に作ってもらったデザインカンプをプロジェクターで映す。

「これがインスタ映えするの?」

「はい」

「根拠は?」

「私たち三人ともインスタ映えすると感じるからです」

 二秒ほどの間が空く。

 ――やっちゃったかも。

 と思った矢先だった。会議室に部長の笑い声が響いた。

「面白いこと言うね。いいよ、君たちの言うとおりにやってみよう」

「えっ、では」

 新津さんがタケノコが地面を突き抜けて飛び出てくるように、にょきっと立ち上が

る。

「うん、提案内容通りでお願いするよ」

 間髪入れず、新津さんが頭を下げた。腰から九〇度直角に折れた美しいお礼だった。

それに続いて、私と理沙が頭を下げる。

「ありがとうございます」

 プレゼンの場で発注を決めてくれるなんて、そうそうない。頭を下げながら、大声

で笑いたくなる。我慢してもにやけてしまう。頭を下げながら理沙の顔を覗きこむ。

 彼女はまだ、硬い表情をしていた。


 宣伝部の担当者と新津さんが談笑しながらエレベーターホールに向かう。

 今回はコンペではなかったから受注の確率は高かったけど、私たちはクライアント

の方々が納得してくれる提案ができたことが何よりも嬉しかった。ただ、私は今回の

案件がコンペで、他社と競うことになっても勝てる自信はあった。

 隣を歩く理沙が腕時計に視線を落とした。

「お腹すきましたね」

 気の抜けたようなヘラッとした笑顔で理沙が言う。ようやく緊張が解けたらしい。

 私はそうだね、とだけ言って新津さんの後に続く。

 宣伝部の担当がエレベーターのボタンを押すと、三秒ほどで一機のランプが光った。

ドアが開くと、中にはみっちり人が乗っていた。

 次のエレベーターに乗ってね、と言わんばかりにドアが閉まる。

 ふとエレベーターの中に視線を向けた時だった。満員電車のようなエレベーターの

中に知った顔があった。まだ数回した会ってないけど、週末の猫のまたたびでよく見

る顔だった。

 ――彼はこの飲料メーカーの社員なのかな?

 私はまだあの人のことを良く知らない。

 満員のエレベーターを二機見送って、三機目のエレベーターに乗り込む。窮屈なス

ペースの中でも私たちは扉が閉まるまで頭を下げた。

 頭を上げると、ため息とは違う息が漏れた。だけど、直ぐに表情を引き締めて真っ

直ぐ前を見る。ドアしか見えない。やがてそのドアが開く。私はドアの目の前に立っ

ていたので真っ先に出る。本物の竹が生い茂るロビーを抜け、ビルの外に出ると、私

は思い切り背伸びをした。

「立花さん、天野さん、お疲れ様でした。今日のプレゼン、ばっちりでしたね」

 えへへ、と理沙が笑う。

「理沙は緊張しすぎ、もう少し肩の力を抜けない?」

「そう言われても、上がり症なんで仕方がないじゃないですか~」

「まあ、でもよく頑張ったね。クリエイティブ褒められたしね」

 また、えへへと笑う。クライアントの前に立つことが多い広告会社に、なぜ入った

のという質問は受注の嬉しさと共に飲み込んだ。

 新津さんが私たちに尋ねる。

「この後、会議とかあります?」

 私も理沙も首を振る。

「じゃあ、中野でランチしてから会社にもどりませんか?」

「賛成」

 ビジネスモードから開放された女子三人が纏う空気は、完全にはちみつ色に切り替

わっていた。

 二人は何食べる? と楽しそうに話している。どこで食べるかは二人に任せた。

 それよりも私の心は気になったことでいっぱいだった。

 ――早く週末にならないかな?

 エレベーターで見た彼の顔が気になった私は、一人歩きながら頷いた。

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