第一話 鉛色の季節と草原の香り

鉛色の季節と草原の香り①

 桜の満開はとうに過ぎ、葉桜が目立ち始めた土曜日だった。

 二一時を回って遅い夜ごはんを食べ終えた私は、フォークをお皿に置いて言う。

「ごちそうさま。拓さん、とても美味しかった」

 カウンターの中で食材をタッパーに詰めながら拓さんが言う。

「おそまつさま。お腹いっぱいになった?」

 私はうなずいて、満足感を表すようにお腹をポンポンとたたいて見せた。私の様子

を見て、拓さんは雲間から顔を出した太陽のような眩しい笑みを私に向けた。

 グラスに残った水を飲み干す。仄かな酸味とともに舌の上を水が転がり、レモンの

香りが鼻に立ち上ってくる。

 ――ああ、この余韻がたまらない。

 どうして最後の料理を食べ終えた後の水はこんなにも美味しいのだろう? そんな

小さな疑問を頭の中に置きながら、片付けを進めるキッチンに目を向けた。

 私がこのビストロ「猫とまたたび」に通うようになったのは先月からだ。まったく

の偶然と言えるほどの出会いだった。あの日、私が休日出勤をしていなければ、この

お店と出会うことはなかっただろうし、荒んだ心のまま悶々とした日々から抜け出せ

そうな予感すら微塵も生まれなかったに違いない。

 閉店時間まであと一時間を切った時点で、珍しく残っている客は私だけだった。

「ねえ、雪奈さん」

 私が食べ終えたお皿を下げようとしてくれた彼女に言う。

 雪奈さんは猫とまたたびを手伝っている女性だ。料理の注文と提供、そしてドリン

ク類の提供とお会計を担当している。副業でも複業でもないけど、月に数回しか開店

しないため手伝っているらしい。普段は食品メーカーの研究職についていて、猫とま

たたびの仕事は趣味みたいなもの、そしてよく分からないが責任だと言っていた。

「お店の前に出ている看板に書かれている、T2キッチンのT2って何の略?」

「ああ、あれね。二人の名前よ」

「名前? イニシャルということ?」

「そう。拓さんのTと俊くんのTで合わせてT2というわけ」

「へ~、そうなんだ。って、桜井さんも料理作るの?」

 拓さんと一緒にカウンターで仕事をしているもう一人の彼が、来店客に出す料理を

作っている場面など目にしたことがない。いつも食材の下ごしらえ、食器と調理器具

の洗浄を行っているから、私は彼を拓さんのアシスタントだと思っていた。

 雪奈さんは私の顔を見て、クスッと笑った。

 私が今いるこのお店は、横浜市のセンター北駅近くの住宅街にひっそりと佇むビス

トロのお店だ。拓さんと桜井さん、そして雪奈さんの三人のみで切り盛りしている小

さなお店だ。切り盛りと言っても、土曜日しかオープンしないし、おまけに毎週オー

プンするわけでもない。月に三回オープンすればいいほうだ。店名に猫が入っている

ように、なんだか時々庭に遊びに来る気まぐれな野良猫みたいに気まぐれなお店だ。

 それに、このお店は拓さんと桜井さんが趣味で始めたお店だというから驚きだ。三

人とも本業というか、普段は会社員として働いている。拓さんは食品の専門商社でリ

ーガルを担当しているって言ってたっけ。桜井さんは何をしている人なのか知らない。通い始めてまだ三回目だけど、桜井さんとだけ一度も話をしたことがないくらい、彼は口数が少ない人だった。

 だけど、三人が醸し出す温かな雰囲気は、この気まぐれで小さなお店にはとても合

っていて、温かな風に頬を撫でられながら木陰で昼寝をするような心地よさを感じる。

 雪奈さんはテーブルから下げた食器をカウンター越しに桜井さんに渡してから言う。

「このお店はね、二人が共同オーナーなの」

「ほう」

 私が頷くと、苦笑いに似た表情を浮かべながら拓さんは言う。

「オーナーというか、本当のオーナーじゃないからね」

「どういうこと?」

「うん、ここのカフェは僕らがオーナーではなく別の方がオーナーなんだ。そのオー

ナーに許可を得て夜だけ間借りしているようなものだよ。俊くんと二人で立ち上げた

お店ということで雪奈ちゃんがオーナーという表現を使っただけ」

「拓さんは、以前から飲食店を開きたかったの?」

「最初はお店なんてやる気なくてさ、周りのみんなや俊くんに説得されて。それで、

やることになったんだ」

「よほど強い説得だったのだろうね。だけど、拓さんの料理の腕を多くの人に向けて

振るってほしいと思うのは分かる気がする」

「そう、僕の料理をホームパーティーだけで披露するのはもったいない。手伝うから

タクズキッチンをオープンさせようよ、ってね。だけどね、タクズキッチンはさすが

に恥ずかしいし、共同でやるなら俊くんのイニシャルも合わせてT2でどうって僕が

言ったのが背景なんだ」

 私より一○も歳が離れた彼だけど、恥ずかしそうに笑う拓さんは、私から見てもと

てもチャーミングな男性だった。

 私もほほ笑んで言う。彼に合わせた訳じゃない、心から自然と出た笑顔だった。

「桜井さんが拓さんを説得してくれて良かったな。こうして拓さんの美味しい料理と

出会うことができたのだし、こうしてファンがまた一人増えたんだしね」

「確かに、そうだね」

 美味しい料理を食べて、そして笑顔が溢れる会話ができる。まるでタンポポが咲き

乱れる野原で、お日様の光を浴びながら寝転んでいるような心地よさに包まれる。

 ――きっと神様が導いてくれたのかもしれない。

 初めて猫とまたたびに訪れた日は、私は心身共に限界に近かった。六月から展開さ

れる広告キャンペーンのコンペにアサインされ、入社以来初となる二一日連続勤務に

突入していた。肌が荒れ、うまく化粧が乗らない肌でも目の下のくまを誤魔化すため

に化粧をする。昼休みはコンビニで買ってきたお弁当で済まし、晩御飯もまたコンビ

ニで買ってきたサンドイッチを食べながら資料作りに没頭し、資料ができたらまた会

議、会議を終えたら資料の手直し、その繰り返しばかりの日々を続けていた。

 そう、私の仕事は出口の見えない仕事だ。

 アイデアでコンペをする以上、プレゼンまで徹底的にアイデアを練り上げ資料に落

とし込む。時間が許す限り、ぎりぎりまで工夫を凝らし頭を使う。なぜなら、アイデ

アの出来や内容が最高だとかどうかなんて自分たちが決めることじゃない、クライア

ントが決めるのだから。

 そういう仕事をする業界に自分の意思で飛び込んだのだから、文句を言える筋合い

はないし辛いと言うのも違うかもしれない。でも、やっぱり辛いものは辛い。疲れす

ぎて、自分の身体がが自分の身体じゃないような感覚に陥っていた。

 猫とまたたびに出会ったのは、そんな状態の時だった。

「拓さん、プロの料理人になればいいのに」

 後片付けをする拓さんを頬杖をして見上げながら言う。

 彼は静かに目を閉じて、そして首を横に振る。

「僕の料理はプロレベルではないよ。せいぜい素人に毛が生えた程度だよ」

「そうかな、私はすごく美味しいと思う。まあ、確かに高級フレンチの味と比べるの

は酷だけど、街のビストロと遜色ない味だと思うよ」

 お世辞ではなく、私が抱いた率直な感想だった。

「ありがとう。でも元々飲食店をやることは全く考えていなかったし、趣味から逸脱

するつもりもなかったんだ。周りに押されて月に何度かお店に来てくれた方に料理を

提供しているけど、これが限界だよ」

 まだ数回しかこのお店の方々と接していないけど、拓さんは割と謙遜する。

「昔からこうなのよー。私もね、拓が作る料理は本場フランスの味と遜色ないって思

うけど、いつも謙遜するのよね。だけど、そこが拓らしいというか」

 洗ったグラスをクロスで拭きながら言う雪奈さんは、もっとアピールすればいいの

に、と言いたげな表情に見えた。

 でも、分かる気がする。私たちからするともっと胸を張ってもいいと思うかもしれ

ないが、プロが大多数を占める飲食業界において趣味でやっている彼からすると、胸

を張ってプロの飲食店レベルと口にすることはナンセンスなのだろう。彼にとっては、家族のごはんを作っていることと同義なのかもしれない。

 だから、彼のごはんは心が落ち着く味なんだと思う。

 私がにんまりしていると、ひょいっと腕が下りてきて私の目の前にロールケーキが

一切れ乗ったお皿が置かれた。

「ほらっ、サービスだ」

 咄嗟のことに、私は言葉に詰まる。

「えっ、えっ。ありがとうございます」

 これが俊さんと初めて交わした会話だった。会話と呼べるレベルの言葉のやり取り

ではないかもしれないけど、猫とまたたびに通って初めて彼と言葉を交わした。

 普段、拓さんは調理の合間にお客さんと話しているけど、俊さんは常に何か手を動

かしているし、拓さんのフォローが中心だからお客さんと会話することはない。ずい

ぶん献身的だけど、どこかとっつきにくさを感じる空気を纏っていた。

 私はいただきますと言って、お皿に添えられたフォークをロールケーキを切る。一

口大に切ったロールケーキを口に含み、ゆっくりと咀嚼する。

 綿毛のようなふんわりとした生地は、絶妙な水分を含んでしっとりとしている。生

地の食感と絶妙なしっとり加減で、なかなかお目にかかれないケーキだと感じた。

 クリームは二種類。生クリームとカスタードクリームだ。広告ビジュアルとキャッ

チコピーの組み合わせが完璧にマッチした広告のような、生クリームとカスタードク

リームの配合がどんぴしゃだ。やっぱり何よりも生地の美味しさが飛びぬけていた。

仕事の合間にコンビニで買うロールケーキなど、今出されたロールケーキに比べると

月と鼈だ。

「ねえ、これ俊さんが作ったの?」

 食器を片づけていた俊さんが一瞬固まる。

「違いますよ。こんなに美味しいロールケーキを素人の俺が作れる訳がない」

 無愛想に彼は言った。

 グラスを洗い終え、布巾で手を拭きながら雪奈さんが言う。

「このロールケーキはね、いつも俊くんが買ってくるの。お店が終わった後にね、ご

はん食べた後の楽しみにしているケーキなんだ」

「えーっ、俊さんたちのケーキを私がもらっちゃっていいの?」

 半分以上食べた皿を見て、今更何を言うんだというようなニュアンスを込めたよう

に俊さんは笑って言う。

「一切れくらいどうってことないですよ。ロールケーキ一本を三人で分けると結構多

いし、それにいつも来てくれるお礼だよ」

 ですます調で話していると思えば、友達口調にもなる。もしかしたら、私との距離

感が曖昧なせいなのかもしれない。お客さんとサービス提供者という立場を弁えて会

話をすることを心がけているのだろう。

 ロールケーキの美味しさの余韻が胸に残っているからだろうか、それとも初めて口

にしたアペロールに少し酔ったのか、胸のあたりがキュッとなる。

 初めて猫とまたたびに寄った時から思っていたことだけど、拓さんと俊さんは世間

一般でいういわゆるイケメンだと私は思う。こう思っているのは私だけではないはず

だ。だけど、このお店の良いところは、二人に会うことを目的としているように見え

るお客さんがいないことだ。来店客の九割は女性だけど、みんな拓さんが作る料理を

楽しみにして来ていると私の目には映った。

 拓さんは短髪で男っぽく、ちょっと日に焼けた感じが素敵だ。時々おネエっぽい口

調になるのが面白い。キッチンに立っている時はエプロンをつけているから分かりづ

らいけど、雪奈さんによるとジム通いとランニングを習慣的に行っていると言ってい

たから、エプロンの下は鍛えた肉体が隠れているのだろう。

 俊さんは短くもなく長くもない髪で爽やかな印象だ。普段無愛想だけど、笑うと拓

さんと同様チャーミングな方だ。これも雪奈さん情報だけど、結構本気でロードバイ

クに取り組んでいるのでので、拓さ同様にエプロンの下は引き締まった肉体が隠れて

いるはずだ。二人が露出度の高い姿でキッチンに立っている姿を想像すると、自覚で

きるほど口角が上がっていた。

 私は頭の中で手を振って、妄想をかき消すそぶりをする。

「すっごく美味しい。こんなに美味しいケーキを初めて食べた」

「美味しいでしょ」

 無邪気な笑顔を私に向ける俊さんを見て、私もほほ笑む。

「安食ロールっていうんだ」

「あじきロール?」

「そう」

「変わった名前のロールケーキだね」

「パティシエの安食さんが作ったロールケーキで、隣駅の北山田にお店があるんだ」

「えっ、北山田にあるお店なの? 完全に見落としていた~」

「有名なパティスリーだよ」

「へー、知ってよかったー。今度買いに行こう」

 最後の一切れを口に運んでから、にやにやしながら私は言う。

「って、俊さんも私とタメ口で話してくれるじゃん」

 しまったと言わんばかりに彼は口に手を当てた。

「すみません、お客さんにタメ口で話してしまって」

 すかさず雪奈さんがフォローに入る。

「俊くんね、甘いものに目がないの。スイーツの話になると我を忘れて話しこんでし

まう時があるくらいなんだから」

「ちょっと雪奈さん、ばらさないでくださいよ」

「いいじゃない、悪いことではないんだし」

「そりゃそうですけど」

 少しずつだけど猫とまたたびに私も溶け込んできたように思えた。こうやって笑い

声で溢れる温かな空気が胸に入り込む度に、睡眠不足で荒れた肌のような心がきれい

に向けたゆで卵の表面のみたいにつるりんとなっていく。

「私はむしろタメ口で話してくれたほうが嬉しいな」

「雫ちゃんはちょっとフランクすぎるけどね」

「ちょっと雪奈さん、私までいじらないでくださいよ」

「いじったんじゃなくて、事実でしょ」

 拓さんのツボだったのか、お腹を抱えて笑い声をあげた。きっと拓さんも私がフラ

ンクすぎると思っていたのだろう。

 美味しい料理から溢れる香りのように、私たちから止めどなく笑い声が溢れる。

 店内に満ちる笑い声は春の陽光のように私の心を暖めてくれる半面、私の心の芯が

まだ凍っていることを自覚させる。だから私は、冬の終わりを迎えられずにいたこと

を再認識させられて、楽しい空間にいるはずなのに胸の奥が苦しくなる。

 春は出会いと別れの季節だというけれど、猫とまたたびに出会ったことで、私は荒

んだ気持ちを抱える自分に別れを告げる未来への一歩を踏み出せたのだろうか。

 私はまだ確信が持てなかった。

 だけど、この出会いによって私が向かっている未来は明るい未来だと信じたかった。

 私は立ち上がり笑顔で言う。

「ごちそうさま」

 千円札三枚と二〇〇円を雪奈さんに渡してドアを開ける。三人に手を振り、感謝を

込めて静かにドアを閉めた。

 通りに出て、鉄紺の空に煌めく星を見上げながら、ふーっと息をした。

 心温まる場所に出会った今でも、私の心は凍ったままだ。悲しみと寂しさ、そして

後悔という厚い氷に覆われたままだ。だけど、一滴、また一滴とゆっくりと心の氷が

解けて雫が垂れ始めた気がした。

 春らしい柔らかな夜風が、縛った髪を優しく撫でた。

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