恋心の雫
北原楓
プロローグ
プロローグ
群青から鉄紺へ移り行く夜空には、美しい星の煌めきがちりばめられていた。
自宅の最寄り駅の駅舎から出た私は夜空を見上げてバッグからマフラーを取り出し、少し乱暴に首と口元を覆うように巻いた。マフラーの間からため息が漏れる。駅前の広場につながる階段を上りながらもう一度夜空を眺めた。小さな星たちは、私の気苦労など余所に寡黙に煌めいているだけだ。
桜が存在感を顕わにしようとソワソワとし始める時期だというのに、悪あがきをす
るように冬が舞い戻ってきたような気温だった。
バッグの中からスマートフォンを取り出して電源ボタンを押す。
先ほど電車を降りて改札を出てから駅構内の時計を見たけど、自分が置かれている
状況を再確認するように無機的に画面に表示される時刻を確認する。
しぱしぱする目と重力と抗う瞼、睡魔を押しのけて空腹を主張する胃。私は自分の
どの欲求の主張を満たしてあげればいいのだろうか。もう考えることさえ嫌になる。
鳩尾と肋骨の間にそっと手を当てた。
体の中に生まれたブラックホールに全て吸い込まれてしまったのだろうかと思いた
くなるほど、胃も心もすっからかんだった。駅から家に向かって歩く人々の中で、こ
こまで身を粉にして働いているのは私だけなのではないだろうか? 休日を満喫して
手を繋いで歩くカップルの姿が目に入るたびに、私は心の中でため息をついた。
――私、何しているんだろ。
分かっている。分かっているけど、やっぱり分からない。理解できても納得できな
いことが私の中で渦巻いていて、締め付けられるように胸が苦しくなる。
純粋な向上心だけが私を満たしていたのは、もう過去の自分だ。そんな時期の自分
がいたことさえ、思い出すことを放棄していた。
駅から約徒歩八分、普段であればあっという間に自宅に着く距離が、今日は一駅手
前の駅で下車して歩いているような感覚に陥る。疲れて体に力が入らない。パンプス
が鉄になったように重たく感じる。
――お腹すいたし、疲れた。
帰宅してからごはん作って、お風呂入って……。
――ああ、もう。寝る時間無くなっちゃう。
冷蔵庫にほとんど食材が残っていないことを思い出し、更にブルーな気持ちになる。今から駅方面に引き返してスーパーに寄るのも面倒だし、かと言って家の近くにコンビニはない。だからといって胃の主張を無視して寝れる気がしなかった。
風がマフラーを揺らし、頬から熱を奪って去っていく。
その瞬間、私は足を止めた。
その風は私から奪ったのは熱だけでなく、睡魔も奪い去った。仄かに運ばれてきた
香りが私の脳を揺り動かした。その香りは何とも言えない、冷たい夜風には似つかわ
しくない温かな太陽の光が降り注ぐ草原のような香りだった。
目を閉じて空気の流れを感じとる。
風向きを考え、風上に向かって歩き出す。
――こっちにお店なんてあったかな?
私の自宅近くは完全に住宅街だ。自宅付近を何度か散歩をしたことがあるけど、飲
食店など一店舗も見かけたことなどなかった。だけど、歩を進めるたびに先ほど鼻孔
をくすぐった草原のような香りは強くなる。もしかしたら、どこかの家から漏れた遅
い夕食の香りかもしれないけど、しゃしゃり出た探究心を抑えつける力は今の私には
なかった。だから、今はこの衝動に身を委ねた。もしかしたら、単に荒んだ気持ちか
ら目を背けたかっただけなのかもしれない。
自宅とは反対方向の区画に入る。控え目に光を灯した住宅に混じって、他の住宅よ
りも主張が強い光が溢れ出ている場所が目に入った。
おいでと手を振る見知らぬ人に近づく野良猫のように、ゆっくりと近づく。暖色の
光に照らされた木製の看板に掘られたカフェの文字を目にして、私は思い出した。
引っ越し先を探していた日、住宅街にカフェが一軒あることを物件を案内してくれ
た不動産屋さんのお姉さんから聞いた。だけど、一度も訪問したことがないし、土曜
日の夜遅くまで開店しているとは思ってもいなかった。徐々に大きく見える看板と比
例して、私の中で疑問が膨れあがっていく。
――コーヒーの香りではなく、なぜ草原のような香りなのだろう?
何の香りなのか分からないけど、オフィスから自宅まで彷徨うように帰るだけの私
を引き付けるには十分の力強さを持った香だった。
カフェの前で立ち止まる。住宅街とは別の空間に立っているような、ロッジ風の佇
まいのカフェだった。
温もりを感じる木のドアに手を掛けた。一人飲みのデビューした日のように、恐る
恐るドアをゆっくりと引いた。ドアの隙間から漏れてきたのは、店内の光と温かな空
気、そして異国の料理店のような香りと笑い声だった。
物陰から半分だけ顔を覗かせる猫のように、私は店内を覗く。
ドアノブを引いた手が、ふんわりと押された。
「いらっしゃいませ」
私の顔を見た女性が菜の花のようにふんわりとほほ笑んだ。
初めて訪れた場所なのに、年末に実家に帰省した時のような懐かしさがこみ上げ、
なんだか背中がくすぐったくなった。
「おひとり様ですか?」
私は「はい」と頷く。
彼女の背後のカウンター内に立つエプロン姿の男性二人、目に入った来店客がフォ
ークで料理を口に運ぶ光景が目に飛び込んできた。
「あの、ここってカフェじゃ?」
彼女は言う。
「普段はカフェですが、月に何度か土曜日の夜にオープンしているビストロなんです。いわゆる二毛作のお店です」
「ビストロ?」
「はいっ」
どうりでコーヒーの香りがしないわけだ。
「あと一時間ほどで閉店ですが、何か召し上がっていきませんか?」
胃にせかされるように言葉を出す。
「はい、お願いします」
「こちらへどうぞ」
案内されたカウンターの椅子にコートをかけて腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
案内してくれた彼女におしぼりを渡され、私はふーっと息をはいた。温かいおしぼ
りを口に当てながら、ゆっくりと店内を見回した。
ビストロはワイン好きな友達に誘われて、何度も行ったことがある。ビジネス街に
店舗を構えるビストロとは違い、店内には今日のおすすめメニューが書かれた黒板や
各席に立てかけられているメニューブックは無かった。私が座ったカウンター席にも
後のテーブル席にもメニューは置かれていなかった。
私は首を傾げる。
閉店が近いからメニューを下げてしまったのだろうか。そんなことを思っていると、案内してくれた女性が言う。
「うちのお店って、決まったメニューはないんですよ」
「えっ、どうやって頼めばいいですか?」
「お店の外に置いた看板に書いてあるのですが、おまかせ三品で三○○○円なんです
よ。閉店時間まで一時間を切ったので三品お出しすることは難しいので、一品一○○
○円でいかがですか?」
私は頷く。
そうして、女性はちらっとキッチンの方向へアイコンタクトを送ると、カウンター
の向こうから声が降ってきた。
「こんばんは、ご来店ありがとうございます。ちなみに、今日はどんな気分ですか?」
紺色のエプロンをつけた男性がほほ笑んでいた。
「えっ、気分ですか」
「ええ、そうです」
唐突に気分なんか訊かれてもと思いながらも、とりあえず答えようと彼のエプロン
を凝視して考える。濃紺色のエプロンには一匹の猫が描かれていた。それもかなり控
えめな大きさだった。ミニトマトくらいの大きさだ。そして、猫の横に文字が書かれ
ていた。
猫とまたたび。
そう書かれていた。
困っている私に助け舟を出してくれるように彼が言う。
「なんでもいいですよ。例えば、仕事したくない気分とか、前向きな気分とか、どこ
か旅行に行きたい気分とか、お客さんが感じていることそのまま言ってください」
その言葉を聞いて、とりあえず私は率直に今の気分を口にする。
「自暴自棄になりそうな気分です」
そんな気分あるのだろうか。自分の心情さえ整理して言葉にすらできない。それに、私の今の気分を訊いて何になるのだろうか。
「苦手な食材や食べれない食材はありますか?」
「いいえ、特にありません」
彼はニッと笑って、そして言う。
「分かりました。では、少々お待ちください、急いで料理作りますので」
穏やかだけど力強さを感じさせる声だった。
彼はキッチンにいるもう一人の男性に話しかける。マウンドに向かったキャッチャ
ーがピッチャーと秘密の作戦会議をしているような光景だ。二人はお互いに頷いて、
同時に冷蔵庫から材料を取り出し包丁を握った。
私から訊いた気分で何を作るのだろう。何が作れるのだろう。何が出てくるのだろ
う。私が伝えた自暴自棄というワードだけで何を作るというのだろう? 空腹という
言葉が山のように積もった頭の中が、このお店に対する興味に書き換えられていく。
私は両手で頬杖をついて、キッチンで静かに動く二人を眺めていた。
お会計を終えた別のお客さんを外まで見送り、店内に戻ってきた女性スタッフは抱
えた小さな立て看板を入口脇に立てかけた。その看板にはこう書かれていた。
――あなたの気分に合った料理をおつくりします。
偶然なのか必然なのか分からない。何かに導かれたように出会った不思議なお店。
この出会いが、鉛色に染まった私を七色に戻してくれそうな、そんな予感がした夜
だった。
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