第2話 石の話-1

 

 時は遡って、およそほど30年前。


「全然はかどらねぇよ……」


 大学生で物理学を学んでいた一ノ瀬啓志けいしは、論文の内容が煮詰まって少しイライラしながら近所の河川敷を歩いていた。


 河川敷、といっても幅2、3メートル程度の小さな小川の両端に造成された狭い歩道を小1時間ほど進んでいると、道端のホームレスが目に止まった。


 小さな鞄を抱き抱えて……死んだようにうずくまっている。


「大丈夫ですか?」


 と、いつもは絶対に素通りするのに、この時は立ち止まって彼に声を掛けた。


 声を掛けられた男は、少し驚いたように顔を上げた。


 栄養失調なのであろうか、真っ黒い顔色をしていてカサカサの唇を少し開いて何かを言おうとしたけれど、すぐに口を閉じてまた下を向いてしまった。


 彼の傍らには、空き缶が詰まったゴミ袋があった。


 その時、啓志は精神的に追い詰められていて、とにかく誰かと話したかったということもあったのだろう。近くのスーパーへ向かうとタッパの寿司とワンカップ、発泡酒を買って男のそばに戻ってきた。


「これどうぞ」


 と、それらを差し出すと、彼は本当に驚いた顔をしながら、しかし手を伸ばして受け取ってくれた。


 彼がひとしきり感謝の言葉を述べた後、ワンカップで弁当を流し込んでいるのを見ながら傍らで発泡酒をチビチビ飲んでいると、空腹も満たされて酔いも回ってきたのか、彼がぽつりぽつりと身の上話を始めた。


 生まれは東北の海沿いであること。

 農家の三男として生まれ、中学を出ると同時に上京して働き詰めだったこと。

 要領が悪くて奥手でずっと独り身で、50代半ばには体を壊してホームレスになったこと。


 そうしたことを遠慮がちに、しかし途切れることなく話続けた。

 啓志もほろ酔いの頭で頷きながら、最後まで男の話に耳を傾けた。


 そのあいだ、春風が頬をなでるように流れ、せせらぎの音や木々の葉の音が彼と泰造を包み込む。


 その様は、あたかも彼の辛苦に満ちたこれまでをやさしく慰めるかのようだった。


「あんたは、本当に変わってるよ。こんなジジイの、しかもホームレスの話を好き好んで聞いてくれるなんて。でも、本当にありがとう。こんなになるまで、俺の話をちゃんと聞いてくれる人なんて居なかったから」


 彼は目に涙を浮かべながらそう言って、真っ黒なボロボロの手で握手を求めてきた。


 恐らく先天的な精神疾患を抱えているであろう彼が、誰からのサポートも受けずに生きてきた今迄の人生がどれほど過酷であったのか、ボロボロの顔や手に刻み込まれた深いしわのひとつひとつがそれを無言で伝えていた。


「いいんですよ。僕もあなたの話を聞いて気持ちを切り替えることが出来そうだから。むしろ感謝です」


 赤い顔をしながら啓志は言った。


「おじいさんも、どうかお達者で」


 と、彼と握手を交わした。


 帰りがけ、くしゃくしゃの千円札を押し付けながらその場を去ろうとしたとき、彼が小さなプラスチックのケースを差し出した。


「これは何十年も前、まだ俺が十代だった頃にここで拾ったものなんだ。いままでずっと大事に持っていたのだけれど、今日のお礼にこれをあげたい」


 そう言って差し出したケースの中には、テッシュペーパーに包まれた小さな小さな虹色のBB弾……にも見える、玉石のようなものが収まっていた。


「正直なんだか分からないし、調べたこともない。だけど、俺にはわかるんだ。それはとても貴重なものなんだって。まぁ、ホントは価値なんて無くて、それが分かるのが怖いだけなのかも知れないけど……。でも、俺にとって大切なものはこれくらいしかないから、あんたに受け取ってもらえたらうれしいよ」


 そう言って、差し出した手を引っ込めようとしないので、素直に謝意を示してそのケースを受け取ることにした。


「それにしても、こんな小さな石をよく見つけましたねぇ」


 感心したように啓志がそう言うと、彼はすこしはにかんで答えた。


「いつもずっと下を向いて生きてきたからなぁ」


 そう呟くと、彼はすっと顔を上げて微笑んだ。


「本当にありがとう」


 そう深々と頭を下げる彼を見つめながら、啓志は手を振ってその場所を後にした。

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