第1章 想いをつむぐ

第1話 たしかなもの


 浜辺に近い、とある駅。


 自転車を押しながら、初老の男がとぼとぼと海の方へ向かって歩いてゆく。

 今日はとてもよい天気だ。


 彼の名はしょう

 彼はこの場所が好きだった。


 海も、山も、空も。


 ありきたりな言葉しか思いつかないが、彼はここが本当に大好きだった。

 途中、最後の小銭をはたいて発泡酒を購入したのちに堤防へと向かう。


――風もないし、雨も降らないって言っていたっけ。

――今夜はここで明かそうか。


 水面を、ぴかぴかと泳ぐ魚が居る。


――あれは……カマスだ!


 ごそごそとザックを探る。

 基盤の廃材で作った、虎の子のメタル・ジグをセットして群れの中に投げ込んだ。


 数度ののちに、クンクンとアタリがあって20センチほどのカマスが釣れる。


こいつの干物は美味いんだ――


 4匹のカマスを手にしたところで竿を仕舞う。

 1匹は塩焼きで今日のおかず。残りは開いて乾かそう。


 海水を汲んでカマスを開く。軽く塩をすり込んで、自転車のハンドルにぶら下げた。


さて、と――


 白ガソリンのコンロに火をつけ、金網の上に塩をふったカマスをのせた。

 水面はきらきらと輝き、心地よい潮風が体を包む。


「気持ちいいなあ」


 プシュン! と缶蓋を開けて発泡酒をのどにぐいっと流し込んだ。


――もう、このまんま溶けてなくなっちゃってもいいなぁ。


 これまでの辛苦を忘れ、本当にそう思った。


「ほんとに気持ちいいなぁ」


 翔は、煤けたベンチを組み立てて、日焼けしてボロボロになったリュックから『人形』を取り出して傍らに置いた。


 自転車の後部に積んだ、ぬるくなったビールを口にしながらぼぉっと水平線を眺めていると、なんだか吸いこまれそうになる。


 彼はそよ風に身を任せ、ごろりと堤防に横になった。


「お前にも、この心地よさを味あわせてやりたいよなぁ」


 翔がそう言って傍らの人形を見上げると、その人形は水平線をじっと見つめている。


「お前も酒が飲めりゃあなぁ。そうだ、今度味覚を感受できるようにしてやろうなぁ」


 翔は、ぽつりとつぶやいた。


「こいつの干物、旨いんだ」


 そう言って、干したカマスを新聞紙で包みながら残りのビールを口に流し込む。


「いつか、カマス肴に一緒に飲もうな」


 人形は、こちらに視線を送るかのように少しだけ首をもたげてから深く一度だけ頷いた。


 その動作に感情がこもっているのかどうか、翔には分からない。


 しかし、『自分の言葉に応答してくれる相手が傍にいる』


 それだけで、彼には十分だった。


 さわやかな秋風が頬を撫でてゆく。

 さざ波の音が耳をかすめ、青い空はどこまでも続いてゆく。


本当に気持ちがいい――


 これまでの辛苦に満ちた時間が嘘のように感じる。


「お前と話したいことがたくさんあったのになぁ」


 そう声を掛けると、人形がふたたび首を傾げながらエメラルド色の瞳をわずかにこちらへ向けた。


――まぁ、それなりには楽しかったよ。


 遠くから聞こえてくる、砂浜ではしゃぐ家族連れの楽しそうな声を耳にしながら翔は呟いた。


「心残りももちろんあるけど、おおむね満足だ」


 エメラルド色の瞳を見つめながら、彼は静かに目を閉じる。


 まぶたの裏側で、これまでの思い出が走馬灯のように流れ始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る