第3話 ハーフエルフの里
すやすやと腕の中で眠る幼子を見つめながら、棒を杖代わりに男は再び歩き出した。
「ここにいたら新たな追手が来てしまう。少しでも遠くへ逃げなければ」
まっくらな森の中を、生い茂る草をかき分けながら男は進んでいく。
絶望的に遅い自分の歩みに、全身の傷の痛みに歯軋りしながら、それでも進み続けた。
そうして歩いているうちに数時間が過ぎ、日が昇り始めた。
キラキラと輝く朝露を小さなずた袋に集めながら幼子の口を湿らせてやり、ともすれば疲労と痛みで気絶しそうになるたびに幼子の寝顔を見つめては気力を振り絞って歩き続けた。
どのくらい歩いただろう。
「もう……だめだ」
疲労困憊した男は再び倒れ込んだ。
「すまない、もうこれ以上この先に進んでやることが出来ない。すまない……」
幼子の顔を見ながら、己の無力と無念に再び涙が溢れてくる。
と、目の前に扉が見えた。
――あぁ、懐かしい。数多の凄惨な人生のなかで唯一心が安らいだ、あのおうちだ。あの扉のむこうに行こう。あそこならもう安全だ。
「あぁ、よかった。ほんとうに」
最後の力を振り絞って、這いつくばりながらその扉へ向かった。
「おかえりなさい。よく頑張ったわね」
凍てついた心を優しく包み込むような声が聴こえたような気がして……渾身の力でその扉を開けて、男は倒れ込んだ。
「……ん? ここはどこだ?」
男は床に寝かされて介抱されていた。
よく見ると……鉄の牢獄の中にいた。
「目を覚ましたか。どうやってこの森に侵入したんだ」
脳に響くような感覚の声にふと目をやると、屈強なハーフエルフが立っていた。
肩まで伸びた金色の髪に、強い意志を感じる青く鋭い瞳をしており、身体はよく鍛え上げられている。エルフ属は長寿だから正確には分からないけれど、人の二十代半ばくらいに見える。耳は……普通の人間より長く見える。少しエルフの血が強いのかもしれない。
木の皮をなめしたであろう服を身にまとい、腰には鞘に短剣が収められているようだ。
「え? 森? 俺はたしかウチに……」
と、ここまで声を出して思い出した。
「そうだ、幼子はどこだ! 俺と一緒だった幼子をどこにやった!」
「あわてるな、子供は無事だ。腹を空かせて泣いていたのと、極度の栄養失調でひどく腹を下していたから里のもの総出で世話してやっている」
ハーフエルフはそう言ってから、小さく嘆息した。
「お前たちは何者かから命がけで逃れてきたのだろう。その事情は汲んでやる」
「だがな、お前が侵入した結界、あれはこの里を魔物や人間どもから守るための多重結界で、本来は十分な鍛錬を経た魔法使いでもなければ侵入することはおろか、その境界を見つけることも困難なものなんだ」
「で、でも俺は特別なことはなにも……」
「だから、それが問題なんだ。倒れているお前たちを見つけたとき、里の連中は皆おまえを殺せと言った。だが、シャーマンの千里眼で見てもらったらお前はただの人間、それも魔力も魔法も何のスキルもない、本当にどこにでもいるようなただの人間だった」
「何のスキルもない人間が、あの結界を超えてくることなんてできるはずがないんだ」
「俺だって、俺がなんでもない奴なのは知ってる。だけど……」
そういえば、と思い出して聞いてみる。
「そ、そういえば、俺が持っていた棒はどこにある?」
「棒? そんなものは知らん。それより、どうやって結界を超えたのか思い出せ。それは俺たち里の者にとって生死に関わる重大なことなんだ」
ハーフエルフはまた来ると言って出て行った。
男は全身に沢山の深い傷を負っていたが、それらはとても丁寧に治療されていた。
まだ痛みはあるが、倒れた時とは体の状態はまるで改善されていた。
「投獄されてはいるが、厚遇されてもいるな」
――ハーフエルフの対応は硬直だが、俺がこんなに丁寧な扱いを受けているんだ。幼子が虐待されていることはないだろう。
そう考えると急に安堵して、男は再び深い眠りについた。
どのくらい眠っていたか、カチャカチャと音が聞こえて男が目を覚ますと、小さなハーフエルフの娘が食事を運んでくるところだった。
彼女も腰まで伸びた金色の髪をたくわえ、青い目をしている。やはり耳は人より少し長いみたいだけど、ぱっと見は十代の少女に見える。そしてやはり木の皮をなめしたであろう服を身にまとっている。
――あのハーフエルフの男に似ているな。
そんなことを考えながら男が手元を見ると、木のトレーには野菜やスープが乗っている。
「こ、これを、人間さんに」
とても緊張している。おそらくこの強力な結界に守られた世界で生まれ育ったために俺のような人間を見るのは初めてなのだろう。
「ありがとう、いただきます」
男は素直にお礼を述べる。
それを聞いたハーフエルフの娘は、はにかみながらもうれしそうな顔をして男の居る牢屋を出て行った。
さて、とトレーに乗った料理を見つめる。
小さな果実に見たことのない野菜、それにとても良い香りのするスープが添えられている。虜囚に与える食事としては大したもてなしだな。
これまで街で農奴として生活していた頃に口にしていたものよりもずっと人の思いが込められた食事に、改めて深い感謝を込めて心からいただきますと男はつぶやいた。
そんな男の姿を、ハーフエルフの娘は物陰からそっと見つめていた。
その後、屈強なハーフエルフは何度か牢屋に顔を出した。
しかし、特にこれといって強く尋問されるわけでもなく時間が過ぎていく。
牢屋には見張りのハーフエルフがひとりいたが、ロイというその牢屋番とはそれとなく話をするようになっていた。ロイは見た目は二十代くらいで茶色の髪をしていた。すでに百年ほど生きているそうだが、長寿のハーフエルフとしてはまだ若く、人間に例えるとまだ青年らしい。
ロイも、街のことや結界の外のことを異様に知りたがった。
男はこれまでの転生で見てきたこと、聞いたこと、なんでも話してやった。
「お前は本当に話が上手いなぁ。まるで本当に見てきたかのように話をする。しかも、その話に矛盾がない!」
男の話を恐らく信じてはいないだろうが、ロイは本当に楽しそうにいつも話を聞いてくれた。
そうしてるうちに、噂をきいて様々なハーフエルフが男のいる牢屋に来るようになった。
そして、やはり皆そろって結界の外の世界の話を聞きたがった。
「どうして皆、そろいもそろって俺の、外の話を聞きたがるんだ?」
「村長のエルヴァ―様と兄さま以外、あの結界の外に出たことがないんです」
いつも食事を持ってきてくれるハーフエルフの娘、フロースに聞いてみるとそんな答えが返ってきた。
「あのお二人が結界の外に出たのは今から約三百年ほど前のことと聞いています。結界の外、と言いましたが、その当時まだ結界はありませんでした」
「その後に魔族の襲来があって、当時村に
お茶を注ぎながら、フロースは話をつづけた。
「あの結界は本当に強力で、確かに魔物や人間が森に侵入することは出来ません。それで森や村の
「このままでは良くない。せめて、必要な時には任意で結界の解除、展開が出来るようその方法を探るべくこれまでに気概のある幾人かの秀才が挑みましたが、まったくなすすべがなく今に至るのです」
「そうなのか」と男は呟いた。
――一方的に、盲目的に現状に満足しているわけでもないんだな。
「だからこそ、何者でもないあなた様が結界に侵入したことに村中が騒ぎになったんです。そして、入ってこられたのだから出ていくことも可能なはずだ。その理由が分かるまで無理にでも留めておけと。そういうことになりました」
「兄さまは強引ですから」
フロースは、少し困った顔をして笑った。
「あなた様に今出ていかれては、数百年ぶりに里に灯った希望の火が消えてしまうんです」
――あれ? 村人たちが俺を殺せと言っていたとかなんとかって……?
これまで聞いていた話とは違う、意外な展開に男は少しだけ困惑した。
そうして更に数日が過ぎたころ、フロースや村のハーフエルフといつものように鉄格子越しに話をしていると、最初にやってきた屈強なハーフエルフがやってきた。
「フロース、それにお前たち。なにをしている?」
「に、兄さま。いえ、その……」
フロースがちぢこまる。
そうか、彼が兄のフォルティスか。
「すまない。俺の話相手をしてもらっていたんだ」
男が割って入る。
「お前に似ていない、かわいい妹じゃないか。うらやましいよ」
男がそう皮肉を言うと、フォルティスも少しだけ表情をやわらげた。
「それで、結界を超えた方法を思い出したか?」
フォルティスが尋ねる。
「それが、全然なんだ。本当に分からない」
「ただ、思い当たる節があると言えば、俺が持っていた棒、あの棒に秘密があるのかも知れない」
「……なんだと?」
フォルティスが訝しげな顔をする。
「お前が握っていた、あの小汚い鉄の棒か?」
そうだ、と男は答えた。
「あの棒は柵の補修に使われていた、本当にただの鉄の棒だったんだ。でも、俺が握った瞬間得体の知れない力を感じた。そして次の瞬間には、あれだけいた魔物がみな死んでいた。あれは間違いなく俺、というよりもあの棒のチカラとしか思えない」
男は、身振り手振りで必死に説明を試みる。
「結界を超えた時だって、幼子がいたほかにいつもと違うことがあったとしたら、やっぱりあの棒を持っていたってことしかないんだ」
「これから俺が身を守るためにも、そしてあの幼子を頼まれた場所に送ってやるためにも、どうしてあの棒が必要なんだ。……根拠はないけど、そんな気がするんだよ」
男はそう懇願した。
すると、フォルティスは急に神妙な面持ちになって男を見つめ、そして尋ねた。
「そういえば、お前の名はなんという?」
「俺は、名前がない。今生では、農奴の子として生まれたあとすぐに人に売られたと聞いた。俺は、この人生では今まで名前で呼ばれたことがないんだ」
男の話に、その場にいた全員がはっとして男を見た。
「名の無い男、か」
フォルティスが呟いた。
「名の無い、とは世俗的に無名という意味かと思っていたが、まさか本当に名前が無いという意味だったというのか」
フォルティスがもう一度呟いた。
まわりの者たちも皆目を見開いて男を見つめている。
「なんだ、なんだよ?」
皆の反応に男は戸惑うばかりだった。
「お前には、これから村長のところに来てもらう。今すぐにだ」
そう言うフォルティスの声が、興奮ですこし上ずっているように聞こえた。
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