第2話 槍と男と

『空飛ぶキツネ亭』で皆が眠りについた日から、時は遡ること十年ほど前。


 霜の張る、凍えるような夜のとばりが下りてきた深い森の中を這いずる男がいた。


「大丈夫だ、お前は必ず守ってやるからな」


 魔物の軍団に襲われ、炎に包まれた街から必死で逃げ出した。

 ずたずたに裂けた足裏の痛みを堪えながら、その手に抱いた幼子に声を掛ける。


 恐らく、生後半年くらいの男の子だろうか。

 分厚い布にくるまれて、大事に大事にされていたことがうかがえた。


 この子は、ある母親から託された。


 ある日、なんの前触れもなく真っ黒な津波のように押し寄せた魔王軍によって、地方都市アーデアは抵抗する間もなく陥落した。


 目に映るもの、動くもの。

 あらゆるものを蹂躙じゅうりんして、魔物たちは咆哮し奇怪な動きで街を破壊した。


 農奴として、郊外の田畑にいた男のすぐ近くにも魔物たちはなだれ込んできた。


「だ、旦那様方が!」


 遠目に疾駆する魔物たちを見た男がそう叫んで母屋に向かおうとするも、すでに母屋の方角から大きな火柱が立ち上り、様々な叫び声や奇声が聞こえていた。


 男が必死の思いで走り寄るが、母屋はすでに魔物たちが蹂躙じゅうりんし尽くしていた。


「と、とにかく逃げなくては……」


 男がこの肉体で目を覚めます前から、そして目が覚めてからも農奴としてここで酷使させられてきた。正直良い思い出はなにも無い。従って感慨も悲壮な感情も沸かない。


 しかし、今生では寝食を過ごした場所だ。心の繋がりは無くとも共に過ごした人たちだ。


 形だけでも母屋に向かって手を合わせ、すぐにきびすを返して街の方角へ向かって走り出す。


 街を覆う城壁に沿って走り続け、やがて排水溝に辿り着いた男は必死でその溝に身体を捻じ込んで下流へと向かう。


「この排水の流れにそって進めば郊外に抜けられる」


 男は、街の人々の流血と脂で真っ赤に染まった汚水の中を必死で逃げ続けた。

 そして郊外まであと少しというところで、微かな声を耳にする。


 排水溝の片隅の真っ暗な空間から、か細い声がした。


「お、お願い。この子をどうか……」


 ここまで必死で逃げ延びてきたのであろう、猛火にあぶられ性別すら分からないほど真っ黒になったその女性は、ブルブルと震える腕で布にくるまれた子を差し出した。


 男は駆け寄ってその布のくるまれた子を受け取る。


「こ、この子をど、どう……か、カ、カルル、ガット……へ……」


 息も絶え絶えのその女性は、最期の力を振り絞り男に何かを伝えようとする。


「お、おい! しっかりしろ! この子をどうするんだ!」


 近くでは多数の魔物の声や徘徊する足音がしている。


「お……おね……い、こ、この子をカルル……ト……に……」


「おい! しっかりしろ! カルルガットがなんなんだ!?」


 男が尋ねると、その女性は顔を上げ男を見つめてた。


 真っ黒く焼けただれたその顔に、涙を溜めたコバルトブルーの瞳が浮かび上がる。


「ど、どう……か、ど、どう、か……」


 そういって、静かに頭を男の膝に乗せたまま力尽きた。


「おい、しっかりしろ! おい!」


 男がいくら声を掛けても、女性はもう一寸たりとも体を動かすことはなかった。


「グングン、なんだ? くせぇくせぇ人間の臭いがするゾ!」


 もうすぐそこまで魔物どもは押し寄せている。


――とにかく逃げるんだ!


 そうして男は子供を抱えてふたたび走り始めた。


――託されたこの子の命を、俺の命を懸けて守るんだ。


 魔物どもはそんな男を執拗に追いかける。


「もっと、もっと遠くへ逃げなくては」


 鉛のように重い体を必死で支えながら再び立ち上がろうとして……倒れ込んだ。

すぐそばで魔物たちの足音や咆哮ほうこうが聞こえている。


――まただ。またなのか……。


 倒れた男のまわりに屈強な魔物たちが山のように集まってきた。


「なんだ、この小汚いニンゲンは?」


「汚ねぇガキ連れてやがる!」


 ゲラゲラと男を嘲笑ちょうしょうしながら、家ほどもある巨大な鎌をゆっくりと持ち上げる。


「ゴロセ! ゴロセ!」


 男は小さな幼子を強く抱きしめながら、その寝顔を見て思う。


「また、だめなのか」


 これまでの記憶が走馬灯のように頭を駆け巡る。


――低い身分、凄惨な境遇。

――最期の断末魔。


 忘れられないゆえそれらが皆トラウマとなり、繰り返すたび、より酷い人生を送ってきたこれまでを思いながら、まただめなのかと思う。


 男は輪廻を繰り返すたび、その記憶を紡ぎ続けてきた。


 だが、これまでの人生はどれも底辺を這いつくばるような、地獄のような人生ばかりだった。あの人生も、この人生も。


 思い出し得る限り、一度として快哉を叫べた人生などなかった。


――それでも、今回だって俺のことはもうかまわない。俺のことなんてどうでもいい。だが、この子にはなんの罪もないだろう? 次も底辺を這う人生かもしれない。いや、きっとそうだ。


 何事もないかのようにすやすやと眠る幼子の顔を見つめながら思う。


――だが、俺には恐らくまた次がある。こんなくそったれの人生でも、忘れずに次がくる。でも、この子とあの母親には、少なくとも覚えていられるただ一度の人生だ。大事な子供なんだ。


――助けてくれ、誰か助けてやってくれ。俺の命はくれてやる。


「この子を、誰か!!」


 近くにあった朽ちかけの柵に手を伸ばしつつ、己の無力に脳天を貫くような怒りを覚えながら、必死で身を起こして魔物たちを睨みつけた。


 この子を託したあの女性の瞳が、脳裏をよぎる。


――なにか、なにかこの子だけでも守ってやれるものはないか。


 死より他は無いこの状況で、それでも男は必死で手をまさぐる。


 そんな、数多の殴打を受けて腫れあがった顔で魔物を睨みつける男と幼子に向かって、無情にも巨大な鎌が風切り音を立てて振り下ろされる。


 ゲラゲラと耳障りの悪い魔物たちの笑い声を耳に、振り下ろされる大鎌の動きが男にはなぜだかとてもゆっくりに見えた。


「すまない、守ってやれなくて」


 男がそう呟く。


 その大鎌が男の頭髪に達した刹那、柵を掴んでいた男の手に何かが触れた。


 次の瞬間、目の前に小さな少女が現れた。


「え!?」


 男が目を見張る。

 頭の上に振り下ろされている魔物の鎌が、まるで停止しているように感じるほどゆっくりに見える。


 赤黒いドレスを身に纏い、深くフードを被った素足の少女が男の顔を見上げる。

 その少女の金色の瞳が男の目に映る。


「やっと、見つけた」


 ただ一言、少女がそう言葉を発した刹那、凄まじい力が男の身体を貫き耳元で大砲が炸裂したかの如く大音響と衝撃が周囲に響き渡った。


 しばらくして気を失っていた男が目を覚ますと、先ほどまで居た少女は眼前から消えており、あれほど魔物たちが咆哮ほうこう跋扈ばっこしていた一帯は不気味なほどに静まり返っていた。


 そして、男の脳天に振り下ろされたはずの大鎌は粉々に砕け、あれだけ居た魔物たちはみな四散して死んでいる。


「ゆ、勇者だ! 勇者が来てくれたんだ!」


 男が歓喜の声をあげて周囲を見渡すが、誰もいない。


「な、なんだ。なにが起きた?」


 ふっと手に違和感を覚える。

 男の右手には見慣れない鉄の棒が握られていた。


 その棒は、つい先ほどまで柵の補修に使われていたであろうもので、長さは一・五ガル(約一・五メートル)ほどの、全面に渡って槌目つちめのついた親指より少し太いくらいの赤黒い鉄の棒だった。


 そして、その棒には今ついたばかりの魔物の体液や肉片が大量に付着している。


「……まさか、俺がやったのか。俺が?」



 その槍は常に正しいところに留まらず、必ずあるべき場所に在る。

 必勝の槍『グングニル』は、彼を選んだ。

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