1. トロピカル

 5月の晴れた日に、希少素材の調査等を目的とする4人の僧兵たちはメッテヤ島に上陸した。


 裁幽宗虹幽寺内虫溷寺ちゅうこんじ首座しゅそ 虫溷蛉次むしどぶレイジ(28歳)


 裁幽宗虹幽寺内虫溷寺知事 虫溷竜蚪むしどぶリュート(28歳)


 裁幽宗虹幽寺内虫溷寺若僧 虫溷蛄螻むしどぶケラオ(21歳)


 鎹怨宗桜怨寺内嬰尉寺えいじょうじ知事 三谷吉機みたによしき(32歳)


 西暦2037年の国際孤島交換会で日本の新たな領土となったメッテヤ島は、完全な事故物件だった。「一人もいない」とされていた原住民の集落が複数存在している上に、日本人とおぼしき不審者が頻繁に原住民を斬り殺している。またしても日本政府は、メイソン&デマルカシオン商会の情報操作にやられてしまったようだ。国際問題の火種が静かに消滅したことだけが唯一の救いだった。


 ――自分の足と眼で確かめないから、そういうことになる。


 レイジは巨大な熱帯雨林の前で荷物と人数を確認した後、三谷から写真のコピーを受け取った。幼馴染のリュートとは違い、レイジは昔から、人の顔をおぼえるのが苦手である。写真の男を10秒ほど凝視して、特徴的な鼻の形と、頬にある3つの黒子ほくろの位置関係をもういちど確認した。


 とはいえ、何十年も前の写真である。島に潜む殺人不審者。不審者にくわしい現代僧兵は、日本政府より遥かにマシな情報をつかんではいたが、入手できた写真は大学の卒業アルバムに収められたものだけだった。


 異端の数学者――熱井鯖人あついさばと


 それが不審者の名前だった。鹿児島県出身の父と沖縄県出身の母との間に生まれ東京都で育った彼は、クラスの誰よりも因数分解が速かったことから数学者の道を志すようになり、大学へ進学。ほどなくして、学費未納により退学となった。しかしその後も登校を繰り返し、卒業アルバムの集合写真にも写りこんでいる。


「大学ってのは、こういうのがアリな所なんですかね」


 レイジは、鎹怨宗がちえんしゅうの門外不出情報ということになっている写真のコピーを三谷に返した。


 三谷は甲高い声で短く笑った。


「卒業もしていないのに卒業写真。直木三十五なおきさんじゅうご先生と同じですね」


「え、議員さんですか?」


「35人殺した弁護士ですよね」とリュートが口をはさんできた。


 三谷は呆れたような顔でレイジとリュートにそれぞれ眼をやった後、「作家ですよ。南国太平記なんごくたいへいき、読んでないんですか?」と言った。


「すいません、不勉強で。あと、リュートのバカも勘弁してやってください」


「や、嬰尉寺うち住職オヤジが異常に好きすぎるだけかもしれないんで……」


 気まずそうに三谷は言った。船内の会話でも、知識をひけらかすような発言が何度かあった三谷だが、基本的には節度のある男だ。他宗兄弟そときょうだい伝手つてをたどってなんとか巻き込めた協力者としては、上等の部類に入るだろう。謎の多い島を調査するにあたって、歴史と社会にくわしい鎹怨宗の僧兵の知識は必要不可欠だった。


 レイジの所属する虫溷寺は、数理・物体・生命・精神の「四門兼学」を標榜してはいるものの、まだまだ小さな寺である。実際のところ、学問に身を入れる余裕などない。社会が強い寺とは経済力が違う。何をおいても、まずは布施かねである。そのためには、既存の協定に抵触することがない斬新な薬物が必要である。新たな素材を他の寺よりも早く発見して、精神系薬物の最高峰たる〈大覚醒剤マハーシャーブ〉を超えるほどの新薬を開発し、この世をハッピーで埋め尽す。それが、2年前に寺を継いだ新たな住職じゅうしょくの方針だった。


 ――俺としては、住職がそのクソ計画を断念するような調査結果が出てほしいものだが。


 レイジの目の前に広がるジャングルには、まだ外界に知られていない植物や鉱物が大量に眠っていると期待されている。しかしレイジはそれよりも、戦場仏教の求道者たる一人の僧兵として、〈トロピカル戦場代数学〉という異端の数学を提唱した熱井鯖人の精神性に興味をひかれていた。異端の数学者・熱井鯖人は、この巨大な森で原住民や獣を斬り続け、今では事実上の王になっているという。常人のテンションではない。


 熱井鯖人。その数学はくずだが、おそらく強い。


 彼が定義したトロピカル戦場代数とは、トロピカル代数を屑化くずかしたものである。兵数の集合Sと、たった1つの演算子(チェスト演算子(⊕))から成る代数系だ。


 ・x ⊕ y := win(x, y)


 そして戦場において数は力であるから、


 ・2 ⊕ 1 = win(2, 1) = 2


 ・2 ⊕ 3 = win(2, 3) = 3


 となる。よって、数学的にはゴミである。ここからは、興味深い性質も高レベルの知見も見出せそうにない。


 数学はゲームだ。あるゲーム盤の周りにどれだけ人が集まるかは、つまるところルールの顕在的・潜在的な魅力によって決まる。トロピカル戦場代数というルールに従って展開されるゲームは紛うことなきクソゲーであり、熱井鯖人は異端の数学者だった。


 それでも、昔の熱井には良い友人が少なからずいたようで、彼らがトロピカル戦場代数をなんとか改良しようとした痕跡は、現代史の片隅に刻まれていた。友人たちはどうやら、戦場に投じられる兵の属性を多様化し、ゲームをもう少し複雑なものにしようと試みたらしい。


 ・力士1人 ⊕ 塩1握 = 力士1人


 ・塩1握 ⊕ ナメクジ10匹 = 塩1握


 ・ウロボロス1輪 ⊕ 力士20人 = ウロボロス1輪


 しかしその友人たちも、熱井の頑固さの前には退散せざるをえなかったようだ。彼は、薩摩さつまの武士こそが最強であるというシンプルな主張を絶対にゆずらず、時には空手と木刀で証明した。


 ・薩摩武士1人 ⊕ 力士1人 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 友人20人 = 薩摩武士1人


 その後の熱井鯖人の消息は、数十年にわたり不明だった。


 しかしメッテヤ島の日本化後、特徴的な「数式」が同島ジャングル内で発見される。


 ・薩摩武士1人 ⊕ 兎のようなもの1羽 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 鹿のようなもの1頭 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 旧日本兵1人 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 人のようなもの1人 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 人のようなもの2人 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 村のようなもの1隊 = 薩摩武士1人


 ・薩摩武士1人 ⊕ 僧兵3人 = 薩摩武士1人


 数式の大部分は、動物の死骸とセットになっていた。その多くは、肉を削ぎ落とされた大腿骨に刻まれていたのである。


 証明はまだ続いているようだ。


 未発見の数式と死骸がまだ残されているであろう熱帯雨林に、僧兵たちは足を踏み入れた。

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