第8話 家路
仕事始めの朝一番に行うことがお屋敷中のカーテンを開けることで、それが終わったと同時に夫人に呼ばれていた。
「フィルマ。そこの新聞を読んでおくれ。字が小さくて、読みづらいんだよ」
「字はあまり読めません」
「あまり読めないということは、それなりには読めるんだね?それなら、なおさらだね。読めるようになりな。あんたのたどたどしい読み上げでも我慢してやるから、さっさとしな」
聞きづらくてもよいというのなら、新聞を手に取って声に出して見出しから読み始めた。
カーティスという人が正式に新皇帝となったと書いてあった。
寝室を強襲して皇帝を殺したあの人のことだ。
それから、新たに皇后を迎えたそうだ。
北方に隣接した国の王女で、そこから支援を受けるつもりみたい。
その辺の事情はよく理解できないけど、私が読んだ内容で、夫人は納得していた。
「それもあんたの仕事に追加しとくよ」
「わかりました」
新聞紙を綺麗に畳んでいると、玄関の方から口論が聞こえてきた。
一人は庭師のアンセルさんの声だ。
普段はとても穏やかな人なのに、今は強い口調でもう一人いると思われる男性に何かを言っている。
「……誰か来たね。フィルマ、あんたはここにいな」
「はい……」
夫人はしっかりとした足取りで階下へと降りて行った。
私はなんとなくそうした方がいいのかなと、窓辺からは離れて扉の近くに立っていると、下から話し声が聞こえていた。
「あんた、帰ったんじゃなかったのかい」
夫人の声はとても冷たかった。
「いやいや、すみません、おばさん。ちょっと言い忘れたことがあったのでね」
「屋敷に来る時は先触れを出しな。あたしが貴族じゃないからってなめてるのかい?」
「いやいやそんなわけじゃありません。おばさんの世話人に新しい娘が来たって聞いて、挨拶をしようと思ったんです。大事なおばさんの面倒を見てもらってるから。先程窓の所でお見かけしたお嬢さんは、とても素晴らしい逸材のようでしたね」
「お前、うちの使用人に手を出したら、援助が断たれるのをわかっているんだろうね」
「心得ています、おばさん。ちょっとだけ気になっただけですって」
「それなら、さっさと帰りな。次、ここらを彷徨いているのを見かけたらただじゃおかないよ」
そこで、すべての会話は終わっていた。
しばらくして夫人は部屋に戻ってきた。
表情は険しいままだった。
「村から出て行ったのは確認したから。資金難に陥るようなバカなマネはしないはずだよ」
「迷惑をかけてしまったのでしょうか」
男性が絡む問題には辟易する。
それが職場に迷惑をかけてしまうのは、余計に。
「あんたが悪いわけじゃないよ。あいつらは元々、他力本願のどうしようもない奴らでね。あんな奴らの力を借りなければならない新皇帝ってのも、信用がおけないね。あんたは気にしなくていいよ。さぁ、あんな世間のゴミみたいな奴のことは忘れて、さっさと仕事にとりかかりな」
「はい」
体を動かして仕事に集中していれば、今朝の少しだけ不安になった記憶は薄らいでいくもので、警戒するような来客はこの日だけで終わっていた。
だから、心安らぐだけのそれからの数ヶ月はあっという間に過ぎていき、そんなことがあったのだということはほとんど忘れかけていた。
「フィルマ。あたしはちょっと留守にするよ」
そんなある日の夫人の言葉だった。
「旅行ですか?」
夫人が屋敷を空けるのは初めてのことだ。
「山向こうの港にうちの息子が寄っているそうなんだ。それで数日留守にするつもりだけど」
「はい、夫人。お子さんにお会いになるのですね」
「まぁ、向こうから会いにきたと言うのならね。ただ職業柄、あまり港から離れられないから、私が港までは行くしかないんだ」
「お一人で大丈夫ですか?」
「庭師のアンセルを連れて行くからあたしは平気さ。ただ、あんたがね」
「家に閉じこもっていれば、夫人の心配は減りますか?私の事を気にかけてくださって、ありがとうございます」
「まぁ、大丈夫だろうさ。あんたに誕生日プレゼントを買ってきてやるよ。もうすぐだって?」
「おばあちゃんに聞いたのでしょうか?」
夫人は外出を全くしないので、おばあちゃんを含めた村の人と会話することはほとんどない。
「マーサがあんたの祖母と話した時に聞いたって」
なるほど。
「夫人のお土産話だけで充分ですよ。どうか、お子さんと喧嘩別れはしないでくださいね。一生のうち三回くらいは素直になるべきです」
「あんたのそんなところだよ」
夫人に呆れ顔を向けられると、屋敷には人がいなくなるから、マーサさんに任せて近付くなと最後に言われて、夫人が旅立つのを見送った。
細道を通って丘を下っていくと、向こう側におばあちゃんの背中が見えたから、小岩を飛び越えて、飛び出してきたうさぎを避けて、小走りで追いかけた。
「おばあちゃん!」
「フィルマ、おかえり。一緒に帰る?」
「うん。ただいま、おばあちゃん。お店でお買い物してたの?」
「そうだよ。お祝いの料理の仕込みを始めようと思ってね」
もう少しだけ先だけど、おばあちゃんはもう色々と準備してくれているんだ。
「荷物持つよ。だから、手を繋いで帰ってもいい?」
「もうすぐ大人の仲間入りなのに。甘えたがりね」
そう言いながらも、おばあちゃんは優しく微笑んで私の手を握ってくれる。
おばあちゃんの手は温かくて、少しだけカサカサしていたから、今度のお給金で良いクリームを買いたいなって思っていた。
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