第5話

第五話

 たった十年前のことなのだが、時代遅れの我が家に、記録された映像を再生できるものはビデオデッキしかなかった。

 素人が録画したビデオテープを、キュルキュルという音とともに巻き戻しながら何度も見返したのを覚えている。映っているのは若い頃の母。画質が悪くてもわかる、肌には張りがあり、瑞々しい手足を持っていて、今、この瞬間が楽しくて仕方ないというような笑みを浮かべている。歌もダンスも下手だが、応援したくなるような魅力にあふれているのが、いかにもその時代のアイドルらしい。


✕ ✕ ✕


 母親のありすは今でいうところの地下アイドルだった。

 昔からキラキラかわいいものが好きで、出身地である片田舎の小さな舞台で、十三歳の頃から手作りの衣装を着て歌い踊っていたらしい。その頃の観客はたった数人。教師だった両親は、ありすを売女のようだと嘆き続けた。「大して金にもならないのに、男に媚を売り続けて恥ばかりを晒している、能力の低いあわれな娘」。二人は早々にありすに見切りをつけて、代わりに彼女の妹を溺愛していた。家で母はいないものとして扱われた。

 しかしありすは孤独ではなかった。家族の代わりに、親身になってくれるマネージャーと、仲の良いアイドルグループのメンバー、そして何より応援してくれているファンがいたから。それだけで、舞台の上で、彼女はずっと笑顔で完璧な女の子をり続けることができた。彼女の所属するグループが冠する『ⅣEVER LAND《ネバーランド》』という名前は、刹那を一生懸命に生きる少女時代のありすによく似合っている。劇場は、彼女にとって唯一無二の美しい箱庭だった。

 転機が訪れたのは、メンバーのひとりであるナギサが妊娠した時だ。

 ありすは十八歳で、ナギサは彼女よりもひとつ年下だった。ありすと同じように家庭に事情を持っていて、だからこそ家庭に強い憧れを抱いている子である。その透明度が高い容姿から、グループのなかでは抜きん出て人気があった。ナギサを目当てに、公演に訪れる人間も少なくなかった。

「ママになるんだ」

 その子はお腹を撫でながら、恍惚然とした表情でそう言った。ありすは反射的におめでとうと言った。幸せそうな彼女のことを祝福をせねばならない。しかし、次の言葉を聞いて感情があふれかえる。

「ずっと優しくて素敵だなと思ってたの。ありすも知ってるでしょ、いつも最前列でサイリウムを降ってくれてる大人のひと。確かパパと同い年だったかな? お腹の子、彼との赤ちゃんなんだ」

 その言葉を聞いて、ありすの脳裏にとある男の姿が過ぎった。最前列で、他のファンよりもワンテンポ遅れてサイリウムを振っている男。詳細を覚えているわけではないが、十代でこれからのありすにとっては、スーツのよれた中年の彼はあまりにも冴えない男だという印象だった。少なくともナギサには到底釣り合わない存在なのは間違いない。

「だめだよ」

 思わず口をついていた。言葉は冷たく尖っている。

「だめって、何が?」

 ナギサは不思議そうな顔をする。それすらあどけなくてかわいらしい。この世の何よりも純粋で透明。ナギサを好きでない男なんて、他に存在しうるだろうか?

 そんなナギサが、あんな冴えない男の子供を産むなんて、勿体なさすぎる。ナギサは『ⅣEVER LAND《ネバーランド》』を足がかりに、全国区のドラマに出る。そして、そこで出会った演技派のイケメン俳優と五年の交際期間を経て、SNSに匂わせもまったくしないまま二十代半ばで結婚する。男女ともに憧れる結婚と三十年語り継がれて、「理想の夫婦賞」をもらわなきゃいけないのだ。

 ――彼女にそう力説すると、ナギサは笑った。鈴が鳴るような楽しげでころころと明るい声色だった。

「そんな人生も楽しそうだね。でも、今のとこ全く後悔してないから困っちゃうな」

 どうしてそんなことを言うの! あなたはこんなところでアイドルとしての生を終わっちゃいけない人なのに……。

 ありすが視線を下げて苦しんでいると、ナギサは彼女のことを細腕で抱いて言った。

「私、今、すごく幸せなの。あなたにもいずれ分かる時が来ると思う」

 大好きなその子の言葉を、ありすは生涯忘れられない。


 その次の年、ありすもまたお腹に小さなひとつの命を宿した。

 相手の顔は覚えていない。それはファンだったか、はたまたファンでもない行きずりの人だったのか。もはやありすにとってはどうでもよかった。ただ、大好きなナギサの通った道をなぞりたかっただけだった。

 ステージ上で妊娠と卒業を発表した時、客席にいた、自分の味方だと思っていた顔見知りの男女からプラスチックの空コップや、引き千切られたリストバンドを思い切り投げつけられたのはさすがに堪えた。それらが足元にかつんかつんと当たる感触をいまだに覚えている。そういえばナギサは体調不良を理由にアイドルを辞めたのだった。バカ正直に告白したのは、グループでありすが初めてだ。

 目の前のお客さんたちからの怒号は、今までのどんなライブでも聞いたことのない生々しさと熱量を孕んでいた。「裏切り者!」「俺たちの時間を返せやクソが!」聞くに堪えないだみ声。初めてファンが人間に見えなくなった瞬間かもしれない。

「今までありがとうございました!」

 それでも精一杯きれいに、アイドル・葉月ありすを終わらせようとしたけれどそんなことがまかり通らなかった。

 ふと誰かが叫ぶ。

「アイドルが現実に足を踏み入れるんじゃねーよ!」

 愛憎入り交じったその涙声は後に有名なネットミーニングになっている。

 信じられないかもしれないが、それはまた胎教として、明確に彼の耳にも残っているのであった。


 ――そして翌年。

 葉月慧斗はこの世に生を受けた。


 成長するにつれ、慧斗は何度もビデオテープを見返した。

 その度に、自分の意識に強く刻みつけた。

 アイドルもファンもどちらもクズだ。自分のことしか考えていない。

 自分はそんな人間どもには絶対にならないと。


 だが今の自分ときたらどうだ?

 自分が最も忌避していた存在――自分に都合のいい幻想だけを見ている存在に成り下がっているのだ。


✕ ✕ ✕


「顔が真っ青です……救急車を呼びましょう」

 頭上から津森メグの声がする。

 かなり焦っているようだ。

 無理もない。自分は先ほどからずっと幻覚に惑わされ、地べたに突っ伏し、吐き続けてのだから。

 自分が完璧な女性であると信じた彼女もまた、普通の感性を持ったただの人間であるのだと否応にも理解してしまう。

 友人の親戚であった彼女は、もはや知らない架空の存在でも理想の女の子でもない。

 明日からまた、可も不可もない、ただの現実が俺に降ってくる。

「アイドルが現実に足を踏み入れるんじゃねーよ!」

 今ではその気持ちが痛いほどにわかる。

ああ、なんて最悪なんだろう、憧れの存在がただの人間であると思い知らされるのは。

 君はもっと手の届かない高嶺の花であらねばならないのに。

 どうか人間味を消してくれ。

 幻想であってくれ。

 しかし目を強くつむっても

 彼女は

 確かに

 自分の前に

 存在していて

 人間の一個体だということを、否応なしに思わせる。

「好きでした……」

 ふらふらとしながら、うわごとめいてそう言うと、メグは困ったように言うのである。

「うん、わかった。ありがとう。それよりお水を飲んで冷静になろ?」


 


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蜃気楼《ミラージュ》な彼女 @sakura_ise

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