32話 初出勤はサボンの香り
初出勤。それは誰もが1度は経験するものである。
客に怒号を浴びせられないか、職場の人間関係は良好なのか、店長の人柄は?定時に帰してくれるのか?とまぁこんな感じで不安はつきものだ。
そんな俺にはバイト経験がある。高校1年の頃は地元で社畜をしていたものだ。
だが大首都東京でのバイトは初めてで、飲食業の経験もない。
そのため俺はそこそこ緊張していた。
夜の営業開始5分前。
俺は店内の入口付近で立ち尽くしていた。
「神田君?」
「・・・・・・」
「神田君?」
「アァ、ハイ、ナンデショウ?」
「どうしたのかしら?ロボットにでも転生した?」
「できるものならしたいです」
感情がないというのなら俺はロボットになりたい。
客に怒られても店長に怒られても、落ち込むことなく「モウシワケアリマセン、イゴキヲツケマス」と機械的に謝罪することができる。
叱責がディープラーニングとなり、2度も同じ過ちは犯さないはずだ。
それに疲労が溜まったら充電すればいい。HPマックスで最繁時を乗り切ることができる。ロボット最高。
『転生したら飲食ロボットだった件』書こうかな。
「そんなに力まないのー!」
ポンポンと早苗さんは俺の肩に手を置く。
宝生さんは一歩近づき俺の耳元でささやくように、
「大丈夫よ。ミスをしても腹パンで済むから」
とからかうように微笑んだ。
労基に駆け込んでやる。いや、この場合は浅草署か。
「さっき簡単な説明をしたけど、1度で覚えられなかったらいつでも聞いて。早苗さんはたまにキッチンのヘルプに行くけど、私はホールにずっといるから」
「了解です。頼りにしてます」
自分で言うのもなんだが、そこまで俺はスペックが低くない。
物覚えはいい方だ。接客の経験がないとはいえ、当たり障りない会話くらいは問題なくできるだろう。
そんな俺でも緊張するんだ、”東京”という2文字は大きな力を秘めている。
営業1分前になった。
30秒前・・・
10秒前・・・
開店!!!
「・・・・・・」
「今日は暇なんですか?」
「そうねー、平日の中日だもの」
開店して1時間が経ったが、客は1組も来ない。
まぁ、時間の問題もあるんだろう。まだ18時。
ここは客層が30代〜60代のサラリーマンがほとんどらしい。
世間のサラリーマン達は今退社したかまだ仕事をしているはずだ。
これからちらほらと来るだろう。
ガラガラと引き戸が開く。
早速30代くらいのスーツの2人組が来店した。
「い、いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
2人は奥のテーブル席へと向かった。
俺は宝生さんに教わった通り、箸とおしぼりを渡して飲み物の注文を取った。
早苗さんが慣れた手つきでビールサーバーを使い、2つ完成させた。
俺は完成品をこぼさないよう丁寧に運ぶ。そしてビールを提供後、早足でカウンターへと戻った。
背筋をピンと伸ばし、姿勢よく直立している宝生さんが言う。
「スムーズにできるじゃない。問題なさそうね」
「まぁ、腹パンされたくないので」
「何よ。さっきの本気で真に受けてるの?冗談なのに」
「いや、あなたが言うと冗談に聞こえないんですよ。何でかは言いませんけど」
「いいのよ?言ってくれても。思ったことがあるなら吐き出した方がいいわ?フラットな関係でいきましょう?」
目が怖い。怖いよ宝生さん。
下手なことを言ったら殺すという意味を含んでいる。あー、翻訳めんどくせーな。
「ふふふ、2人はほんとに仲が良いのね」
「そ、そうですかね?」
仲が良い?
これは主従関係というのでは・・・
「麗華ちゃん!全然お客さん来る気配ないし、一緒に呼び込み行こうか」
「そうですね。このままだと時給泥棒になってしまいますし」
「麗華ちゃんが呼び込みすれば大繁盛だよ!」
宝生さんと早苗さんは楽しそうに話しながら外へ出て行った。
俺はマニュアルに目を通す。
「おい」
「は、はい」
店長が鋭い眼光を向け、俺に声をかける。
「麗華はどうなんだ?」
「え?」
質問の意図が分からなかったため、聞き返す。
すると店長は両手を胸部に当て、下品な笑みを浮かべる。
新入りながら、俺は精一杯の冷ややかな視線を送った。
・・・このエロ親父が。
時刻は19時をまわり、そこそこ忙しくなってきた。
テーブル席に3組、座敷に1組、カウンターに5人。
今のところ一応ミスなく仕事ができている。常連さんが多いという点にも救われているのかもしれない。
バシャッ!
何かがこぼれる音がした。音の鳴る方へと向かう。
酔っぱらってるせいか奥のテーブル席の客がビールをこぼした。
「大丈夫ですか?お怪我は?」
「あぁ、大丈夫だよ。悪いねー」
「いえいえ、今拭くので少々お待ちください」
そう言って俺は早苗さんの元へと向かった。
雑巾をもらい、拭き掃除に向かう。
すると反対側から、入口付近の席で注文を受けていた宝生さんが早足で向かってくる。
この人はよく周りを見ている。遠目からこぼした瞬間を目撃し、駆けつけているのだろう。
彼女は俺よりも先にテーブル席に近づいた。
だが床にこぼれたビールに目を向けるわけでもなく、テーブル席の客を一瞥するわけでもない。ただただオープンキッチンに向かっている。
やがて床に散った液体を踏み、
「ご注文入りまs・・・」
つるんと上体を背けた。綺麗な顎が天井を向く。
彼女は宙に浮いた。青空に浮かぶ雲のように。
テーブル席の客は、目を見開いて口を大きく開けている。
時間の流れがスローモーションのようだ。こういった場面の1秒はとても長い。
ゆっくりとした時間を利用するように、俺は持っていたお盆を床に捨てて彼女に飛び込んだ。左手で後頭部を支え、右手で腰付近を支える。
場違いにもサボンの香りが鼻腔をくすぐった。艶やかな黒髪は雪のように柔らかい。華奢な背中は触れただけで折れてしまいそうだ。
耐えろ耐えろと右足に力を入れる。
落としてしまわないように。壊れてしまわないように。
優しく、柔らかく、卵を扱うように。
「大丈夫!?」
早苗さんが駆け付けた。
俺は中腰で彼女を抱きかかえている。
顔が近い。とても近い。実に近い。
互いの息がかかりそうな距離感だ。
彼女はキョトンとした顔をして、頬は少しばかり赤みがかっている。
「あ、ありがとう」
「ど、どういたしまして」
彼女の目は四方八方へと泳いでいる。俺も同様の目をしているのだろう。
こっぱずかしくなった俺は彼女を優しく解放した。
「兄ちゃんも姉ちゃんも熱々だねー」
酔っぱらい客がヤジを飛ばす。
「あぁ、いえ、ちが、これは・・・」
適当に流せばいいものの、彼女の真面目な性格が仇となり、一生懸命答えを探そうとしている。まるで壊れかけのロボットのようだ。
「彼女に怪我がなくて良かったです。あ、お飲み物追加しますか?」
俺が代わりに客とやり取りをしていると、彼女はそそくさとオープンキッチンの中へと入っていった。
早苗さんは彼女の後ろ姿を見て微笑み、店長はなぜかしかめっ面で俺の方を見る。
いや、変な勘違いはやめてください。邪な感情なんて何一つ抱いてませんよ?絶対に!
・・・そういえばいい匂いだったな。
おまわりさーん!僕でーす!
くだらないことを考え、必死に照れくささをごまかす。
「ん?」
視線を感じた。それは俺のよく知っている殺気のこもったものではない。
視線の正体を探していると、ちらっとオープンキッチンの隙間から艶やかな黒髪が見えた。
やがてこちらを伺うようにひょこっと顔を出す。
切れ長の瞳は、いつもとは全く別の物に見えた。
時刻は21時をまわった。
最後のお客さんが会計を済ませて店を出る。
宝生さんは店前まで出て「ありがとうございました」とぺこりとお礼をする。
「ノーゲスになっちゃったねー。お父さん、今日はもう来なそうだしお店閉めちゃおっか」
カウンターに左手を置き右手で扇ぎながら早苗さんは言う。
閉店時間は22時だ。ちなみに曜日によって閉店時間は異なるらしい。
初出勤の俺が言うのもなんだが、早苗さんの言う通りもう閉めても良さそうな気がする。
「ダメだ。やつが来る気配がする」
店長がニヤニヤしながら言う。やつとは・・・?
「確かに来そうですね」
見送りを終えた宝生さんが、苦笑いを浮かべながらカウンターに来た。
「やつってお知合いですか?」
「神田君もよく知っている人よ」
「え?俺の知ってる人?」
何それ有名人?
「麗華ちゃん言ってなかったんだー」
「軽いサプライズになるかなと思いまして」
「確かに。神田君いい反応しそう」
早苗さんは可笑しそうに肩を揺らす。
ますます何の話か分からねぇ・・・
有名人じゃないとしたら東明高校の生徒だろう。
それ以外に知り合いはいないしな。
水原さんだろうか?いいや、高校生がこの時間飲食街を出歩くなんて考えにくい。東京の場合は普通なのだろうか。
少なくともこの時間うろつく高校生なんて俺の地元にはいなかった。ヤンキーぐらいか。
ヤンキー?まさか松島さん?宝生さんが大好きすぎて戻ってきちゃった?
いや、でも店長や早苗さんの口ぶりだと常連っぽいからそれもなしか。
あと残されたのは・・・
ガラガラガラッ!
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