25話 亡失と所望は横顔を温める
吾妻橋から見える隅田川は澄んでおり、春風が気持ちいい。
はーるのー うらーらーの すみだがわー。
中学時代の音楽室が脳内に浮かぶ。当時想像していた景色とは全然違った。
隅田川は木々が広がり、微睡みたくなるようなどこか親しみのある自然をイメージしていた。
だが実際はビル群に囲まれ、小奇麗な格好に身を包んだ人々で溢れている。
「知ってると思いますけど目の前のあれ、スカイツリーなんです。高さは・・・」
「634mですよね?」
爽やかな車夫のお兄さんが言う前に宝生さんが答える。
「ご名答!」とゴツゴツした上腕二頭筋を揺らしながらお兄さんは眩しい笑みを見せる。
タカラを出るときに「せっかくだから」と早苗さんが人力車の無料券をくれた。
もらった手前無駄にするのには抵抗があり、俺と宝生さんはこうして人力車の上から隅田川を眺めている。
「タカラでは働けそう?」
「あんなに歓迎されたら断れませんよ」
「別に無理しなくていいのよ?断ったら早苗さんが5日ほど寝込むだけだから」
「働きます働きます。どうか働かせてください」
「そこまで頼み込まれるなら仕方ないわね」
宝生さんは不敵に微笑んだ。
あまり人間関係の濃い職場は好みじゃない。だが早苗さんも店主も人が好さそうだし、興味があると言った手前断るのは気が引ける。
それに今から新しいバイト先を探すのも面倒だ。早苗さん達の反応を見るに100%採用されるだろう。
「初出勤の時は私も被るようにしてもらうから安心して」
「それは心強いです。宝生さんはいつからあそこでバイトしてるんですか?」
「2年くらい前かしら?」
「大ベテランじゃないですか。バイトは何人くらいいるんですか?」
「私と神田君の2人よ。大学生の先輩もいたのだけれど最近辞めちゃったみたい」
「少ないんですね」
「あまり大きなお店じゃないからね。頑張れば早苗さんと店長だけでまわせるくらいだから」
確かに立地の関係もありそこまで忙しくはなさそうだ。常連さんに好まれそうな雰囲気だし、まわらなくなったとしても多少の融通はききそうだ。
常連さんは料理にお金を払うというよりかは、あの温かい空間にお金を払っているのだろう。
温かい・・・?
先ほど見せた宝生さんの微笑を思い出す。
「あの店好きなんですね」
「えぇ、あそこにいるとやり直した気分になるのよ」
「やり直した気分?」
「働いてみたらきっと分かるわ」
彼女の言葉の裏を探ってみる。あの空間に触れて彼女が感じるであろうことを。
『過去を変える術はない。失ったものは戻らないわ。二度と、永遠にね。
どれだけもがき苦しんでも懺悔しても祈っても、過去への扉は開いてくれないのよ』
以前宝生さんが吐いた言葉を思い出す。過去に執着しているというのは分かった。
荒れていたころの黒歴史を払拭したいという単純な話ではない気がする。
もっと人間の本質的な何か。
『失ったものは戻らない』
彼女は何を失ったのだろうか。
『どれだけもがき苦しんでも懺悔しても祈っても、過去への扉は開いてくれない』
いったい彼女は何を求めているのだろうか。
俺と彼女は似ていると考えたことがあるが、それは勘違いだった。
俺は失ったものを一切求めない。過去への扉なんてものを欲しない。
砂浜で作ったお城を破壊する。どれだけ修復を繰り返しても、全く同じ形には戻りっこない。
出来上がるのは不格好でまがい物のお城だ。失ったものを求めるのは愚かな行為である。
でもどうしてだろうか。
彼女の必死にもがく姿を愚かだと一蹴することができない。
目の前のスカイツリーを見上げる。
やがて目、鼻、口が映し出された。
口角を上げて嘲り笑うように目を細めて、俺を見下ろす。
ただの無機物なのに無性に腹が立つ。
それはきっと、中途半端な奴だと見下されているように感じたから。
人力車から降りたあと、俺たちは買い物をした。
宝生さんは包丁研ぎを買いたかったらしく2、3店舗まわった。
キッチン用品には強いこだわりを持っているらしく、彼女は長時間比較検討していた。
そういえば宝生さん、俺んちのキッチン用品全く使ってないもんな。
無事買い物を終えた頃には時刻は17時をまわり、浅草の街並みは徐々にオレンジ色に染まっていく。
割烹着を着た飲食従事者らは夕焼けに目を細め、夜の営業の準備を始める。
一方俺たちはというと閑静な裏路地に入り、駅へと向かっていた。
ちらっと横目で隣を見ると宝生さんが・・・
いない。
振り返ると宝生さんは3、4歩後方で立ち尽くしており、反対側の路地に繋がる小道の先を見つめていた。
「ちょっと遊ぼうって言ってるだけじゃんかー」
「さわんじゃねーよ。失せろ!」
「このガキが!こっちが下手にでてりゃー調子に乗りやがって」
「大人の怖さ教えてやろーぜ」
少女の声と2人の若者らしき男性の声が聞こえてくる。
何やら揉めているようだ。
宝生さんは小道を抜け、声のする方へと向かった。遅れをとった俺は小走りで彼女の後を追う。
現場に着くと2人の大学生らしき若者と金髪の高校生らしき少女がいい争いをしていた。
少女はどこか既視感のある制服に身を包み、男性2人に牙を向いている。
「その辺にしておきなさい。あなたたちの姿はスマホに収めたわ。大ごとにされたくなかったら彼女のいう通り失せることね」
宝生さんはスマホを男性2人に向け淡々と話す。
「んだとこの女!」
男の1人が宝生さんへと向かってきた。手を出してもおかしくないような形相で。
「・・・・・・」
夕日が建物に被り、あたり一面薄暗くなる。
沈黙が流れた。いいや、沈黙なんて表現は生ぬるい。
血の気が引くような禍々しい空気。
山でクマに遭遇してしまったかのような静かな時間が流れる。
宝生さんに睨みつけられた男の足は戦慄していた。
これ以上距離を詰めることはできない。
2人は生物としての本能が働いたのか小走りで去っていった。
「大丈夫?」と宝生さんは少女の肩に手を乗せる。
少女は壁に寄りかかり視線を落としている。宝生さんの呼びかけに少女は顔をあげて、不満げに口を開いた。
「別に助けてなんて頼んでないし」
「・・・」
何秒経っても宝生さんの返答は聞こえてこない。怒っているのだろうか?
いいや、違う。
こちらから宝生さんの表情は伺えないが、明らかに動揺している様子だった。
「ちょっとねーさん?何黙ってんの?」
「嘘でしょ・・・」
ぼそっと力の抜けたような声が聞こえてくる。
何ごとかと宝生さんの顔の見える位置へ移動すると、彼女は目を見開いて唇を震わせていた。
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