21話 劣等感と競争心は氷を溶かす

 「人酔いするな・・・」


 学校を終えた俺は筋肉痛を抱えた重い足を一歩一歩進めて、東明高校の最寄りである池袋駅へと向かっていた。


 筋肉痛の体を操縦するのには慣れたが、相変わらずこの人の多さには未だに慣れない。


 某調査によると池袋駅の1日当たりの乗降者数は約200万人で、世界第3位みたいだ。


 俺の地元の駅は1日当たり360人くらいらしいから・・・

 たった1日で15年分くらいだろうか。


 地元が極端に田舎というのもあるがどちらにせよとんでもない数だ。


 ちなみに第2位は渋谷駅で第1位は新宿駅となっている。


 TOP10のほとんどを日本の駅が占めており、我が国は世界一の鉄道大国を誇っているのだ。


 ん?なぜ俺がどや顔?


 駅構内に入り人混みに圧倒されていると後ろからトントンと肩を叩かれた。


 いや、道を尋ねられても俺は戦力になりませんよ?それとも変なビジネスの勧誘?いや、制服を着ているからさすがにないか。じゃあ職質?俺怪しい風貌じゃないんだけどな・・・


 そう疑心暗鬼になりながら振り返ると、赤みがかった黒髪のポニーテールが白い歯をこぼす。


「どうしたの?そんなに顔を強張らせて」


 水原日和は挑発的に微笑みながら質問を投げかけた。


「田舎者なんで色々と慣れてないんですよ」


 テーピングが巻かれた彼女の右手首に目がいく。


「そういえば手首は大丈夫そうですか?」

「まだ少し痛むけど大丈夫かな。まぁ、戦いに犠牲はつきものだから」

「何だか壮大な話ですね・・・」


 昨日のことを思い出す。たかだか遊びのテニスに、全てを賭けていたような彼女の姿を。


 現役時代の血が騒いだみたいなことを言っていたが本当なのだろうか。正直昨日の彼女は異常だった。


「ねぇねぇ、寄り道していこうよ」

「寄り道ってどこに?俺帰らないと・・・」

「いいからいいから!大都会に住む高校生なんだから放課後の寄り道くらい楽しまないと」

「は、はぁ・・・」


 水原さんに言われるがまま俺は改札の反対方向へと進んだ。



         




 軽やかなピアノの音色が耳に優しくとても心地よい。


 店内はダークブラウンを基調としており、主張しすぎないシャンデリアや革製でいかにも高そうなソファー、さりげなく置かれている三日月型の間接照明が映える。


 モダンな空間でいかにも女性客に好まれそうな造りだ。


 窓際には何種類もの可愛らしい観葉植物が置かれており、窓から見える気落ちしそうな雑踏を緩和しているように思える。


 レジ横にあるショーケースに目をやるとケーキや洋菓子がお行儀よく並べられておりどれも美味そうだ。


「こういうところ来たことないんでなんか緊張します」

「あはは、コーヒーでも飲んで落ち着いて」


 俺は水原さんに連れられ、彼女の行きつけのカフェに来ている。


 窓際のテーブル席に座り、俺はアイスコーヒーを、正面の水原さんはバニラロイヤルミルクティーを飲んでいる。


「あっ、水原さん。さっきのお金です」


 この店は前払い式だ。水原さんは店の雰囲気に圧倒されている俺に気を遣って、まとめて会計をしてくれた。


 俺は手のひらに500円玉1枚と100円玉1枚、計600円を乗せ、水原さんに差し出す。

すると水原さんは首を横に振った。


「ここに来たのは神田君に昨日のお礼をするためだから、お金はいらないよ」

「いや、そういうわけにはいかないです。そもそも俺は何もしてない」

「カッコつけなくていいからー。こういう時は素直に奢られる後輩力をつけないとダメだぞー?」


 いいや、カッコつけるとかではなく、俺は人に貸しを作るのが苦手なのだ。


 だが彼女は意志の強い人だ。それはあの瞬間でよくわかった。


「それじゃあお言葉に甘えさせていただきます」

「うんうん、100点満点の回答」


 彼女は満足げに微笑んだ。


「でもお礼なら矢口君にもした方がいいんじゃないですか?」

「矢口君?」


 水原さんはきょとんとした顔をしている。


 そしてはっと思い出したかのように口を開いた。


「あぁ、矢野君ね!今日学校で見かけたから学食御馳走したよ」

「いや、彼は矢口君です」

「そうなの?矢野君じゃなかったんだ」


 もうどっちでもいいや・・・


 矢口君からしたら呼び名なんてどうでもいいのだろう。


 今日の矢口君、異常にテンション高かったからな。2人で食事をしている絵が容易に想像できる。



 以下俺の脳内。

「いやー、水原さんと2人っきりでお昼過ごせるなんて・・・逞しく生きてきた甲斐があったっす」

「大袈裟だなー」

「目の前に水原さんがいるだけで茶碗10杯はいけそうです!おばちゃん、おかわり!」



 こんな感じだったんだろうな・・・


 きっと夕飯は水原さんとの昼食を思い出してさらに10杯いくまである。矢口家では今晩米騒動が起こりそうです。


 そんなくだらないことを考えていると水原さんは窓の外を眺めながらぼそっと呟いた。


「ほんとに良かったよ。昨日は」


 彼女の視線の先には4人家族がいる。30代くらいの父親と母親の横に小学生くらいの姉妹が仲良く歩いていた。


 彼女は今にも泣き出してしまいそうな潤んだ瞳をしている。


「昨日のテニスですけど、何か理由があったんじゃないですか?」


 考えないようにしていたが、彼女の哀愁漂う横顔を見て聞かずにはいられなかった。


「神田君には分かっちゃうんだね」

「俺じゃなくても分かると思いますよ。あれを負けず嫌いと言うには無理がある」


 はぁ、と彼女はため息をつく。


 2人の間で沈黙が流れた。


 聞こえてくるのは客の会話とコーヒーをかき回すスプーンの音、店内に流れるジャズのBGM。


 先ほどまでは全ての音が心地よかったが、今はひどく不快に感じる。


 ちらちら様子を伺っていると、沈黙を破るように彼女は語りだした。


「私のお姉ちゃんってすごく優秀なんだ。勉強はいつも学年1位だったしスポーツは何をやらせても上手。友達がいっぱいいて人望もあるの」

「それって水原さんも全く同じじゃないですか?」

「全然違うよー。私は学年1位じゃないから。お姉ちゃん、大学は東大だよ?私が行ける学力じゃないって。勉強以外にも体力テストだって私とは全然スコア違うし、テニスだってお姉ちゃんの方が成績良かった」


 彼女は自嘲気味に笑い、話を続けた。


「私の家ってすごく実力主義でね、いつもお姉ちゃんと比べられてたの。家に帰れば勉強やら部活やらそんなつまらない話ばかりで」


 変わらず微笑む。


 彼女の笑顔は仮面のようだ。仮面の中は、悲しみが極まって無色の瞳をしているに違いない。それを表に出さないよう必死に灯をともしているように見えた。


 彼女は続ける。


「それで最近どうでも良くなって、親に啖呵切って諸々投げ出したの。でもいざ勝負ごとってなると親とか周りの評価とか考えちゃってつい熱くなる。ほんと惨めだよね」

「惨めでいいんじゃないですか?」

「え?」


 彼女は意表を突かれたような顔をする。


「俺なんて惨め極まりないですよ。地元を逃げるように去って、親とか友人からの連絡には一切出てません。その後親戚に頭を下げて使ってないマンションに住ませてもらいました。でも1人になったらなったでできないことばかりで自分の無力さを思い知らされてます。予想外のハプニングも生まれて散々ですよ。さっきだって、こんな店来たことないからあたふたして水原さんに気を遣わせた。とんでもなく惨めな少年じゃないですか?」


 水原さんは何かを言おうとしている。そんな彼女に目もくれず俺は語り続けた。


「でも俺は平穏ならそれでいい。無理をして辛い環境に残って潰されるくらいだったら、誰も知らない土地で惨めな日々を送る方がずっといい。逃げ出したことで最悪な世界からマシな世界に変わった。逃げちゃダメなんてただの理想論で強者のポジショントークです。

最近ちょっと予想外なことはありましたけど、俺は今の生活を案外気に入ってますよ」


 言葉を発した後、再び沈黙が流れる。


 しばらくして大きな笑い声が聞こえた。


「ぷっっ、あははははははははははははは」

「今そんな笑われるような話しました?」


 少し苛立ちを見せる俺に水原さんは「ごめんねー」と切り出す。


「いや、意外だったからさ。神田君って結構おしゃべりなんだね」

「いや、これはその・・・何というか・・・」


 似たような境遇を持つ彼女だからか、ついつい語ってしまった。こんなこと普段は絶対に誰にも話さない。


 無事黒歴史が更新されました。恥ずかしい。死にたい。東京湾に飛び込みたい。


 純度100%の笑われる話だろこれ・・・

 すべらない話でも笑い話でもなく『笑われる話』というのがポイントだ。


 何を人生の2周目みたいに語ってるんだ俺は。そもそも水原さんは俺の1個先輩である。


 本当に何してるんだよ・・・


 手持無沙汰でコーヒーに手が伸びる。


 気づいたときには中身を空にしてしまっていた。


「でも少し気持ちが楽になったかも。なんか分からないけどすごく言葉に説得力があった」

「そうですか。まぁ、気がまぎれたなら良かったです」


 羞恥心が襲い、何を言われても素直に喜べない。


 そんな俺の気も知れず水原さんは質問を投げかけた。


「神田君は地元で何かあったの?」

「あぁ、まぁ、いや、親とのいざこざで。そんな大した事じゃないです」


 適当にごまかすと、水原さんは「そう」と相槌をうち、それ以上は追及してこなかった。


 彼女は窓から外の雑踏を見つめて呟いた。


「私も逃げることを努力してみようかな」


 一見表情は明るくなったが相変わらず目は虚ろだ。


 彼女は俺とどこか似ている。”あの人”とも。


 特別な過去を抱えもがき苦しんでいるようだ。


 いいや、自分が、水原さんが、”あの人”が特別というのはひどく傲慢な考えだ。


 早坂さんや、お調子者の矢口君だって何か大きな問題を抱えているかもしれない。


 雑踏の中には俺なんかじゃ想像もつかないほどの苦痛に向き合っている人間がいるかもしれない。


 先ほど俺が吐いた言葉を思い出す。


 逃げちゃダメというのが強者のポジショントークだとするならば、逃げるのが正義というのもある意味での強者のポジショントークになる。


 俺は何か間違えたのではないだろうか、言ってはいけないことを言ってしまったのではないだろうか。


 彼女の虚ろな目を見てそう思った。


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