14話 春と夏、未来と過去

 「「・・・っっっはぁぁぁぁぁぁぁ」」


 リビングに入った。

 宝生さんはソファーに、俺は地べたに倒れこむ。


「いい?気を抜いちゃだめよ。気を許してうっかり私の過去を語ったら・・・」

「分かってます。分かってますから」

「それにしてもまさかこんな偶然があるなんてね」

「俺もびっくりしました。最寄りが一緒ってことは知ってたんですけどまさか隣人だったなんて」

「彼女の追及怖かったわ」


 ほう。これは意外だ。


「宝生さんにも怖いものってあるんですね」

「私を誰だと思っているの?恐怖を感じる瞬間くらい人並みにあるわ。この前の蜘蛛もそうでしょ?」


 呆れたように彼女は言う。


「蜘蛛で思い出しました。宝生さんの悲鳴、早坂さんの家に聞こえてたらしいですよ。物騒だと思われたらしく彼女の父親が警察に通報しそうになったとか」

「それは大問題ね。警察の厄介になるのはもう御免だわ。今すぐ壁を取り替えて防音にしてもらわないと」

「カラオケルームにでもする気ですかー?声量を抑えれば済む話です」

「自分でコントロールできないから言ってるんじゃない」


 この人は時々めちゃくちゃだ。否、常時めちゃくちゃだ。正常な人間は弱みを知られたくらいで監視のための同居生活はしない。


 昨日と同様携帯のバイブ音が室内に鳴り響く。電話の差出人を確認しすぐに通知を切った。


 それを見ていた宝生さんは俺を訝しむように詰め寄る。


「昨日も思ったけど誰?」

「別に誰でもないですよ」

「いいから答えなさい」


 傍から見るとこのやり取りは女性からの連絡をひた隠しにする彼氏とそれに嫉妬し咎める彼女だ。しかし、俺たちの関係はそのようなものではない。


 おそらく宝生さんは過去を誰かに話していないか不安なのだろう。無理もない。彼女からみたら俺の行動は不自然だ。


「心配は不要ですよ。宝生さんの過去を話す相手なんていませんし、そもそもそれをばらしたところで俺にメリットがない」


 報復が怖いからね・・・


 しかし、俺の言葉に納得することなく彼女は俺の携帯をのぞき込もうとしている。


 やっぱこの人異常者だ・・・


 らちが明かないため俺は着信履歴を開き、彼女の顔の前に提示する。


「父親ですよ。これで信じてもらえましたか?」


 先ほどまでの勢いはなくなった。


 視線を斜め下に落とし、捨て犬のような弱々しい顔をする。

 怯えるような表情にも後悔しているような表情にも見えた。


「どうして電話に出ないの?」

「ちょっと考え事してたので。後でかけなおしますよ」

「後でなんてくるのかしら」


 何やら意味ありげな呟きだ。ふと以前上野先生が言っていたことを思い出す。


 真意を探っていると、彼女は人差し指で俺の携帯をタップした。


 プルルルルルル。


 急いで携帯を自分に向けると着信画面が表示されていた。


 どういうわけか彼女は父親に折り返しをしたのだ。


『もしもし、蓮人!?蓮人なのか!?』


 聞き馴染みのある声がスマホのスピーカーを通して聞こえてくる。


 頭が真っ白になった。手足が震えていることだけは分かる。これほどまでに自分の携帯を投げ捨てたいと思ったことはない。


 すぐに通話終了ボタンを押した。


「何するんですか!勝手なことしないでくださいよ!!」


 久しぶりに大きな声を出したと思う。宝生さんは顔色ひとつ変えずに、じっと俺を見据えた。


「・・・あなたも同じなのね」


 彼女は何かを悟ったような顔をして自嘲気味に微笑む。


 俺は言葉をはさむことなく続きを待った。


 ふー、と彼女が深呼吸をして言葉を吐き出そうとした時インターホンが鳴る。


 俺が呆然と立ち尽くしていると彼女はすたすたと玄関まで行き、何やら大きな段ボールを抱えてリビングに戻ってきた。


「何ですかそれ?」

「布団よ。昨日注文しておいたの」


 そういえば来客用の布団がなく、昨夜彼女は寝袋で睡眠を取っていた。


「そういうことだからソファーで寝るのはもうやめなさい」


 どうやら俺の心理を読み取っていたらしい。それにしても行動の早い人だ。


 宅配業者をはさんだせいか先ほどの重々しい空気はなくなった。でも一応大声を出したことは謝っておこう。


「あの、さっきは大声だしてごめんなさい」

「本当よ。少し驚いたじゃない」


 嘘つけ。まばたきすることなく動じずに立っていたじゃないか。


「とうとう早坂家が110番するわよ?」

「それはまずいですね」


 さっきのやり取りで早坂さんが隣に住んでいるのをすっかり忘れていた。大声はもちろんのことだが、普段の会話も配慮しなければいけなさそうだ。


 ごほん、と宝生さんは咳ばらいをして俺に正対する。何事かと俺は姿勢を正した。


「私も大人げないことして申し訳なかったわね」

「え?」

「何よその顔?私だって自分が悪いと思ったら謝罪くらいするわ」


 俺といるときはいつも暴論を吐き力でねじ伏せるような人だから少し意外だった。

こうして素直に謝罪されたのは初めてのような気がする。


「あなたと父親の間に何があるのか分からない。別に詮索しようとも思わないわ。現状を変えるのはあなたにしかできないのだから。今や未来は人である以上誰だって変えることができる。だから自分のペースで進めばいい」


 静かなトーンだが一言一言どこか熱を感じる。


 でもね、と宝生さんは続けた。


「過去を変える術はない。失ったものは戻らないわ。二度と、永遠にね。

どれだけもがき苦しんでも懺悔しても祈っても、過去への扉は開いてくれないのよ」


 妙な説得力を感じた。彼女の言葉は不思議な力を持っている。


 頭の中に海底が広がった。


 深く、重く、一筋の光も見えない真っ暗闇。水圧に押しつぶされ胸が苦しい。

 ふと自分の胸元に目をやると、左手がYシャツを力強く掴んでいる。


 俺は視線を戻し宝生さんの顔を見た。何かを諦めたような優しい微笑み。


 季節はまだ春だというのに夏の終わりを感じた。


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