8話 宝生さんの弱点
トントントンとリズミカルに包丁を叩く音が聞こえる。
部屋中にはラベンダーのシャンプーの匂いが漂っており、地べたに散らばっていた洋服は綺麗に畳まれリビングの隅に置かれている。
まるで自分の部屋じゃないみたいだ。
キッチンを覗くとサラサラな黒髪を1つにまとめ、黄色のエプロンを身にまとった宝生麗華が立っている。
まるでキッチン用品のCMを見ている気分だ。
って、彼女の美しさは周知の事実であり今更感心している場合じゃない。
宝生麗華との奇妙な共同生活が始まってしまったんだから。
今俺は完全に劣勢だ。
物理的な力も社会的地位も彼女のほうが上なのだ。
その上宝生麗華は俺の高校生活を脅かす弱みも握っている。
真っ向から勝負したところで勝算はない。
だから彼女をこの家から力づくで追い出すのは不可能。現実を受け入れて冷静になる。
ひとまず彼女の要求を飲み、何か弱みを握って関係を対等にするのが得策だろう。
またまた俺の部屋か?と疑うほどテーブルには栄養バランスの整った食事が並べられている。
白米になめこの味噌汁、ボリューミーなアジフライに千切りのキャベツ。
小鉢サイズに盛り付けられた切干大根が置かれている。
「本当に料理できたんですね」
「元ヤンは料理できないとでも思った。案外堅い脳みそしてるのね」
「料理は1人暮らしで習得したんですか?」
俺の問いに宝生さんは一拍置いて答える。
「幼い頃から料理をする機会が多かったわ。その頃からその辺の主婦レベルくらいには作れた」
「ほぉ~」と感心していると宝生さんは手を合わせ味噌汁をすすった。
一つ一つの所作が上品でこの空間が宮殿だと錯覚させられる。
見れば見るほど道を踏み外していた人間とは思えない。
「何か?」
俺の視線が気になったのか、彼女は怪訝な目を向け続ける。
「あまりジロジロ見られると食べにくいんだけど」
恐ろしい功績を持つ人間にも恥じらいという感情はあるらしい。
案外普通の女の子かもしれないな。
「昔の癖で視線を感じると無意識に交戦態勢になるから気を付けた方がいいわ」
全然女の子じゃねぇ。というか平々凡々な男子高校生すら視線をそんな風には捉えないぞ。
「気を付けます」
そう呟きアジフライにかぶりついた。
「・・・」
不覚にも感動してしまった。
名店で出てくるようなサックサクの衣にキレのある身の旨味が口の中に広がる。
揚げ物はくどさを感じがちだが彼女の作るアジフライはいい意味であっさりしている。
「美味しいです」
俺が正直な感想を伝えると彼女は「そう」と言い斜め下に目線を落とした。
やはり家庭料理に敵うモノはない。彩のある食卓を眺めてそう思った。
皿洗いは俺が担当することにした。
無理矢理押しかけて勝手に料理を振る舞ったとはいえ、味にあそこまで心を動かされてしまったものだから何かやらないといけないという使命感が生まれてしまった。
今思えば皿洗いをしたのは久しぶりな気がする。
キュッキュッとスポンジで皿を撫でる音が懐かしい。
ラスト1枚の皿を洗い終え、水切りカゴに乗せる。
タオルで手の水気を拭き取り、リビングに戻ると宝生さんと目があった。
「きちんと約束は守ってるでしょうね?」
約束というのは彼女の過去を口外しないということだろう。
「もちろんですよ。自爆行為をするほど乏しい脳みそしてません」
「そう。信頼関係は築けていないということを忘れないでね」
「無理もないです。俺たちはまだ出会って間もないですから」
今俺がすべきことは2つだ。
1つは彼女からの信頼を得ること。
2つ目はいざというときのために彼女の弱みを握っておくこと。
それを達成することができればマイホームという俺のオアシスを取り戻すことができるかもしれない。いいや、取り戻す。
宝生麗華が美人だろうと料理が上手かろうと関係ない。こんなラブコメ展開は御免だ。
「目に力が入っているようだけど何か不満がある?喧嘩でも売っているの?」
心の中での決意が表に出てしまったようだ。さすがは元ヤンキー。
そういったところは鋭い。
彼女の瞳を見ると、売られた喧嘩を買いに行くような禍々しい雰囲気だ。
その瞳の先にいるのは俺・・・・・・
俺の遥か後方だ。彼女の方から「はっ」と小さく呟く声が聞こえた気がする。
普通の人間には見えない物体でも見えるのだろうか。そういう体質?ここが事故物件なんて聞いたことないのだが。
彼女の瞳を見ると先ほどのような殺気はなく、ライオンに怯える草食動物のような目をしていた。
「たす、けt・・・」
「え?何です?」
今何か言ったような気がする。彼女らしくない弱々しく小さな声だったため全然聞き取れなかった。
「あ、あれ!何とかして」
彼女は指で示した。
その先を目で追うと俺の後方にある白い壁にたどり着く。そこには何やら黒い小さな物体がこんにちはしていた。
おいおい嘘だろ。可愛いじゃねぇか。元ヤンだろ?この人に限ってそんなことあっていいのか・・・・・・
「あの、もしかして蜘蛛苦手ですか??」
「・・・うん」
「こんなに小さいのに?」
「・・・うん」
米粒サイズの蜘蛛も無理なくらい虫が苦手らしい。ゴキブリなんて出た日には気絶するのではないだろうか。
さっそく弱み掴んじゃったよ。
俺はティッシュを手袋代わりにして蜘蛛を捕獲する。外に逃がしてあげよう。
俺が捕獲した姿を見て彼女は安堵した表情を浮かべる。
このティッシュを彼女に向けて追いかけまわせば元の家に帰ってくれるのではないだろうか。
いいや、そんな安直な考えではダメだ。
仕返しが怖すぎる。報復を逃れるには俺自身が行動を起こさないことだ。
俺自身が行動を起こさない・・・?
これだ!この家を彼女にとって劣悪な環境にするのだ。
「すいません、この家虫が多いみたいで」
嘘です。家に蜘蛛が出るのは今回が初めてです。まぁ、いくらでもごまかしようはある。
外で捕獲した虫を適当に放し飼いにしておけばいい。
恐怖心も不快感もないから虫と同居することなんて朝飯前だ。
「う、うそ」
案の定俺の嘘に彼女の表情は強張っている。
これはなかなかいい流れかもしれない。
しかし、俺の微かな希望はあっという間に打ち砕かれた。
「まぁーいいわ。虫が出たらあなたに処理して貰えば」
「い、いいんですか?俺のいないときに出るかもしれませんよ?」
「その時は電話で呼び出すわ。寝てたら叩き起こす」
「むちゃくちゃだ・・・・・・」
「私にとって過去を知る人間を放し飼いにする方が恐怖だもの」
俺の計画は脆くも崩れ去り、体中の力が抜ける。
脱力したせいか蜘蛛の入ったティッシュが手からこぼれ落ちてしまい、再び蜘蛛がフローリングの上でこんにちはをする。
この蜘蛛はきっとオスだ。なぜなら嬉々とした様子で彼女に向かって走っているから。
「ひゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
普段の彼女からは想像もできないような声が部屋中に響き渡る。
というかこの声量はマンション中に響いているのではないだろうか。ごめんなさいご近所さん。
「もたもたしてないでとっとと捕まえて!」
彼女に言われるがまま俺は蜘蛛を必死に追いかける。しかし、なかなか捕まえられない。
蜘蛛ってこんなにすばしっこいっけ?こいつドーピングしてないか?
「早くしろっての!!」
「は、はい」
あの、宝生さん?昔使っていたであろうヤンキー口調が戻ってますよ?
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