決心

 ようやっと休みがやってきて、今日はついに戸籍のうんぬんかんぬんが終わる。まぁ、その後は事故の裁判が待ってるんだけど……。


「なぁ、少し話をいいか?」


 シズさんが神妙な面持ちで言った。早朝で休みで気の抜けていた俺の体に、わずかな緊張がほとばしった。


「なんですか?」

「私の戸籍ができたら、私たちは一緒に居られるのか?」

「戸籍ができる時はいられると思うけど、事故に関しての裁判の時は、ちょっと分からないですね……」

「ならば、その事故の裁判、私はしないことにする」

「え……」


 あまりにすんなりとそんなことを言うシズさんに呆気に取られてしまう。


 しばらく唖然として立ち尽くしていると、シズさんが首を傾げた。


「どうした? 早くいくぞ」

「いやちょっと待ってください。今、なんて言いました?」

「だから、裁判はしないといった」

「え、な、え? どうして?」


 俺が口をぽかんと開けて聞くと、シズさんはすまし顔で答えた。


「正直、私は何も不便してないし、いろいろと世話になったのは事実だしな」

「え、でも、ほら、賠償金でウハウハできますよ? それに、もし仮に亜衣さんの家に泊めてもらえたとしても、お金はいりますよ?」

「うむ。しかし、ここまで世話になった人間に、あだで返すようなことはしたくない」

「……そ、そうですか」


 でも、シズさんっていつまでここにいるつもりなんだろう……。流石にずっとっていう訳にはいかないし……。


「それでは、今度こそ行こうか」


 …………。


 ………………。


 長い戦いを終えて、ついにシズさんは戸籍を取得した! どんどんパフパフ!


「いやぁ、長かったですね」

「そうなのか? 私からしたらそこまで長くなかったが……」

「そうですか。それじゃあ、ここからはシズさんが社会に出られるように頑張りましょうね!」

「え……」


 俺が伸びをしながら、沈みゆく夕日を背にしたシズさんの方を向くと、まるで魂でも抜けたような声を出した。


「どうかしました?」


 何をそんなに驚いているのか分からず、質問をすると途端にシズさんが小刻みに震え始めた。


「え、どうしたんですか⁉」

「ま、毎日深夜までずっと働き詰め……」

「……あの、もしかして俺のような生活を想像してます?」


 そうだった。シズさんは俺との生活しか知らないもんな……。そりゃあそれが当たり前だと思うよな。


「だ、大丈夫ですよ! シズさんが頑張って勉強をすれば!」

「だ、だが、この世は学歴次第で人権がはく奪されるんじゃ……」

「シズさん。実は結構ネットに触れてたでしょ……。まぁ、確かに学歴は大事だけど……」

「じゃあ、私はこの世界では学歴がないから人権が……」


 まずいな……。かなり偏った知識がシズさんに蓄えられている!


「だ、大丈夫ですよ。そんなこと言う人は大体、幸せになれなかったなれの果てみたいな奴ばっかですから」

「そ、そうなのか?」

「えぇ。だって考えてみてくださいよ、幸せな奴がわざわざ他人の悪口を言いますか? それも、不特定多数の……」

「う、うむ……。考えてみれば確かにそうかもしれない」


 何とか納得してもらえた……。


 まぁでも、シズさんは肉体労働が向いてる可能性もなくはないから、全然やりようあるな。


「なぁ、今日は飛び切り美味しい料理が食べたい」

「そういうと思って、今日はうまいラーメン屋を予約しておいたんですよ」

「ラーメンヤ?」

「来たらわかりますよ」


 今からでも、シズさんのあの満面の笑みが頭に浮かぶ。


 そう思うと何故か足取りが軽くなった。


「あ、ちょっと速いぞ!」


 少しだけ早歩きになってしまう俺に置いて行かれまいとかけてくるシズさん。


 こんな本当にちょっとしたなんてことのない時間に言いようもないような充足感に満たされる。溺れてしまいそうなほどだった。


 そしてほどなくして、いつもは通らない道を通っていくと、シズさんが徐々に徐々に不安をあらわにする。まぁ確かに地味に狭い場所だし、日も落ちてきて怖くなるのは当然だ。


 というか、本当にシズさんは怖がりなんだな……。正直、転生してきたということを知らなかったら、まさかこの人が騎士なんてものに就いているとは思わなかっただろう。


 なんだったら、知ってもなお信じられない。だって……。


「し、シズさん? あの、ちょっとその震えどうにかなりませんか?」


 徐々に徐々に勢いを増してきたシズさんの震えは、まるで工事現場で地面をならすために使われる、ランマ―のように上下に震えているのだから……。


「こ、こ  で  誉  騎士団  団 だぞ!」  

    れ  も  ある   の  長

「無理ありますって……」


 しかし震えは止めようとして止められないものなので、そっとしておくことにした。


 それにしても見事なものだ。工事現場から聞こえてくるけたたましい音がまさになっているように感じる。


 ま、誰でも知らないことは怖いよな。


「あ、ここですよ」


 俺は暖色の光のこもれる店を指さしてシズさんもそっちに向いた。シズさんは目の前の店を凝視する。


 建物は木材建築で何年も建っているのであろうことがその木の寂れ具合から伝わってくる。


 シズさんはしばらく佇んだ後、くんくんとにおい嗅いだ。


 ――ぎゅるるぅ……。


 かわいらしい音が狭い路地に響いた。

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