当たり前の日常
「きゅ、急にどうした⁉」
シズさんは目を見開いて立ち上がった俺を見上げる。
「そんな野宿が当たり前なんていけないんですよ! ……俺の部下、去年入院したんすよ……」
「……入院?」
「そうです。俺もその時は、自分自身が限界に達したこともなかったせいか、『慣れ』を信頼してました。慣れは万能だと、重症である筈の傷も、小さなものになると、そう信じてました……。でも、違ったんです……。それはただ、痛みの感覚が希薄になっているだけに過ぎないんですよ!」
「…………」
「いたくなくても傷はつくし、あるときそれは、どうしようもない精神の病となって表れるんです!」
俺が珍しく声を荒らげたせいか、きょとんとした表情を全く崩さず、ただ茫然と俺の顔を眺めていた。
そんなシズさんを見て、自分が思っている以上に怒っていたことに、ふと我に返って気が付いた。
沸かしていたお湯が、ぴゅーー! と、警告音のように鳴り響く。
「す、すいません……」
俺は火を止めながら謝罪をすると、咳ばらいをしながら床に坐した。
「…………私はそんなに弱くない」
「それは……」
もしかしたらそれは本当なのかもしれない。前の世界で何があったかはわからない。ただ、一度死を経験したものが、精神的にもろいのかと聞かれたら、それを経験してない俺から何とも言えない。
ただ、それは俺が許さない。
そうだ、余裕がないのならもっと働いたり交渉して手にすればいい。
この時、俺の中でいつの間にか消えかかっていた何かが、数年前から萎えた何かが胸の家でゆらゆらと燃え盛っているのがなんとなくわかった。
「シズさんが弱くなくても、です」
「…………」
「弱くなくても、傷がないほうがいいに決まってる。俺がその当たり前の日常を塗り替えてやりますよ!」
…………。
………………………。
あれ? なんか俺、やばいこと言ってないか? なんでそんなに深いところまで行ってしまったんだ?
我ながら、自分の放った言葉に困惑を隠しきれなくなってしまう。別に、一定期間のホテル代と、ことが片付いた後のサポートだけだ、なのに、なんかこれからも一緒に暮らすみたいになってないか?
い、いや、そんなことないよな……。
「ふ、ふん。簡単に頭を下げるような男に、そんなこと言われたくない」
シズさんはそっぽを向いて、腕を組む。
「……プライドの一つや二つ、大切な何かを守るために捨てられない奴は、俺は強いとは思えない」
「……⁉」
シズさんがまた驚いてこっちを向く。
「俺は俺の生活も、シズさんのこれからも、できる範囲で手伝うべきだと思う。それが過失を犯したことへの責任だと思うからです」
「…………すいません」
シズさんはしおらしくなってぼそっと謝罪する。
しばらく冷たい静寂が俺たちを包み込むと、そんな空間に横やりを入れるように……。
どんどん! と、隣の部屋から壁ドンの音が聞こえてくる。
多分、怒鳴ってしまったせいだろう。シズさんがびくっと肩を撥ねさせてしまう。
「……ちょっとうるさくしすぎたかな。にしては反応遅い気もするけど……」
「敵ですか? 静かになったのを見計らった感じでしたが……」
なるほど、壁ドンがよく聞こえるようにか……。まぁ、怒鳴ってる最中に壁ドンしても、面倒なことになる可能性あるしな。
それはいいとして……。
「シズさん、ビビってました?」
「び、ビビってなんかない!」
「いやいや、余裕でビビってましたよ? 体ちょっと浮いてたし」
「ビビってない、さっきのはあれだ、あのー……」
「何にも思いついてないじゃないですか!」
「今考えるから待ってろ!」
「今考えるって……」
あれは完全にビビってた反応だった。でもなんだろう。この強がりがちょっとだけかわいらしく見えてしまうのは……。シズさんがところどころ見せるしおらしさのせいか?
まぁいいや。とにかく、明日からは一層頑張らないと、特に給料の面で上司に頭を下げるか……。まぁ、多分増やしてもらえないだろう……。となれば、投資か。
めぼしい企業とかあったっけなぁ……。
晩飯を食べ終わった後、俺はパソコンの前で鎮座して色々と調べていた。風呂から上がったシズさんは、あまりにもパソコンの前から離れない俺が気になったのか、今日買った猫のシャツを着たままこっちにハイ寄ってくる。
「何を見てるのだ?」
「……説明めんどくさいので、気にしないでください」
「むー……。なんか私の扱いがぞんざいになってきていないか?」
シズさんは頬をぷっくりと膨らませて、俺の肩を顎でつついてくる。
「そんなことないですよ。これに関しては本当に面倒なんです。シズさんでなくても、説明するのちょっと面倒なんですよ」
「ほう……。ならいいか……」
…………というか、調べごとで夢中になってたから意識してなかったけど、シャツ姿のシズさん、可愛いな……。ごまかしようがないぐらい可愛い……。
……いかんいかん。変な気を起こさないように気を付けないと。
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