交渉……。
珍しく有休を自主的に取った俺だが、当然もろもろの手続きなんかがあってろくすっぽ休めなかった。むしろ、家に自分以外の人がいる違和感というか、ストレスにやられて、いつもより疲れているようにさえ感じてしまう。
「おはようございます先輩!」
「おはようございます。……元気だな」
俺がデスクに座って早々、快活な挨拶をかけてくる女性。俺の後輩で、名前は福原亜衣さん。ここがブラックだと知ってなおとどまっている稀有な女性だ。
「そうですか? いつもこんなものでしょう!」
「あぁ、いつも元気だ」
「それにしても先輩、昨日はどうしたんですか? 先輩が休むなんて驚きですよ!」
「まぁ、なんだ……。色々やることがあってな。大丈夫だったか? 仕事」
「皆死ぬほど残業でした……。って言うのは嘘で、私が普段やってる事務的なものとかをなしにして、先輩の分やってました」
「すまん……」
亜衣さんは普段、実務的なことにも関わるが、基本的には補助に回っているのでそういうことが可能だったのだろう。
ある意味、この人がいないと会社は回らない。重要な存在だ。
普段から明るい性格で、職場内の空気もよくしてくれている。社内のアイドル的存在でもある。中には、亜衣さんがいるから働くみたいな人もいるくらいだ。
さて、あらかた午前中にやっておくべき仕事を片付けたら、給料の交渉に踏み出すか……。一応、メールで時間等の打診はしたが……。
「すいません。先日メールでお話しした件なんですが……」
「……給与についてか。残念だが、なしだ」
「は?」
「私の方で色々調べていたが、給与を上げるほどの成果を上げているとは到底いいがたい……」
上司は横柄な態度で俺の持ちかけた交渉に挑む。
「……私は自分の評価をあなた一人に一任したつもりはないですが」
「……ん?」
「これは交渉です。それに、成果を上げていないと言われていますが、確実に三年ほど前から業績はよくなっておりますし、その成長と、これからに投資をしていただきたいんです」
俺がつらつらと言い放つと、場内の空気が一気に張り詰めたのが分かった。中にはひそひそと噂話を立てるものもいた。
「やけに上司に強く出てないか、宏さん……」「なんかうわさで聞いたんだけど、宏さんはあの上司に手柄横取りされたらしくて」「え、ほんと⁉」「そうそう、それで負い目を感じてるとかそんな感じで、宏さんには強く当たれないんだって」
手柄を取られたのは本当だ。しかし、この男が俺に強く当たれないのは、この男が負い目を感じているなんて優しい理由じゃない。そもそも、そんな負い目を感じるぐらいの奴なら、人の手柄を嬉々として横取りしたりしない。
「……交渉を始めましょう」
「あ、あぁ……」
上司はその手を強く握りしめ、怒りをあらわにしていた。
ほどなくして交渉が終わり、自分のデスクへと戻ると、ぽかんと口を開けたまま茫然自失の亜衣さんがいた。
「手、止まってますよ」
「あ、すいません……。…………」
亜衣さんは仕事をしながらも俺のことが気になるのかちらちらと視線を向けてくる。
「……あの、落ち着かないので聞きたい事があったら聞いてくださいね?」
「あ、なんていうかその……。す、すごいですね。宏先輩。上司に臆面もなく……」
「あぁ……。まぁ、ちょっと話長くなるから、休憩時間にでも話すよ」
その後、昼休憩まではいつもの通りこなすべき仕事をこなす。相変わらず仕事量が多い……。
「そ、それで、どうしてあんなに強く出れるんですか?」
「ん……、まぁ、あれだ、俺から手柄を横取りしたっていう噂は知ってるか?」
「はい」
「あれ、ほんとの話なんだけど……」
「え、じゃあ今すぐ課長とか部長とか、しかるべきところに言わなくちゃ……!」
「……まぁ、いつでも上に報告できるし、証拠もあるけど、こうやって困ったときに振りかざせるほうがいい。出世してもあんまりうまみないしな」
「へ、へぇ~……」
亜衣さんは関心するような、若干引いているような声を絞り出した。
「……それにしても、急に昇給交渉するなんて、どうしたんですか?」
「あぁ~……」
亜衣さんになら話してもいいかな? 女の人だし、シズさん関連で困ったときは力になってくれるかもしれない。
「まぁ、事故にあってな……。その人、色々事情が事情で……」
「じ、事故ですか……」
「そうなんですよ。弁償とかもろもろ……」
「なるほど……。他には?」
「え、他って?」
「いや、なんとなくなんですけど、何か隠し事してる感じだったので」
す、鋭い……。でもなぁ、女性と同居してるなんて言ったら、通報されそうだし……。
「……相手が家のない人で、同居してるんだ。まぁ、それで生活費がいるんだよ」
「え、そ、そうなんですか……。ちなみに、その同居人ってどんな人なんですか?」
「え……」
まずい。いや、絶対来る質問だと思ってたけど、どうしようか……。正直流してほしかったが……。
「……な、なんでそんなことを聞くんですか?」
「だって先輩、手柄を横取りされたり、なんか厄介ごとに巻き込まれるというか……。そういうイメージがあるので……」
ぐうの音も出ないほど正論だ。確かに俺はちょっとそういう不運な目にあいやすい。少なくとも人並み以上には。
「ま、まぁ、変わった人だよ」
「へぇ~……。一回家行ってみてもいいですか!」
「なんで⁉」
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