仮面が語る文学人生

をさぴ

第1話

 へぇ、令和の私小説か。

 私小説とは、思うに、小説家自身を主人公にした一種の芸術家小説だろう。文人の身辺雑記でもある。リアリズムの一つの極限の世界だが、社会性はない。リアリズムという概念も広いからな。世間から落伍した小説家が、制外者ならではの目で身辺のあれこれを観察し描写するのも、一つのリアリズムの表現になる。制外者の目と対象との距離は、突き詰めれば無くなる。それは、内面と外界が無によって統一された心境小説であり、禅みたいなもんだろう。日本の自然主義は、禅やそれから仏教の本覚思想なんかにつながってるんじゃないか。もっと基層にはアニミズムとか。

 私小説には社会性がない。社会性とは、近代的な個人として、社会での決まり事や「正しさ」に適応しつつ、エゴを実現し、社交し、振舞っているあり方を言っている。だから社会性があるというのは、俗物とか偽善者とかいう意味合いもある。そういう公式的な世界から外れてしまった個の領域が私小説の場所であり、社会性の無さと言っている。勿論、自らの生存を維持し、他人と生きる上では、制外者とて偽善の一つも必要だ。

 ヨーロッパの近代文学を基準に私小説を叩いた人たちの念頭には、近代的自我への憧れがあった。ヨーロッパの近代的自我の背景には神がいるとか言ってね。ギリシャ哲学やキリスト教由来の「普遍」思想。それを本尊とする日本の知識人。ヨーロッパ人の自我の文化的獲得には、メカニカルには心理的去勢、自然から切り離される過程がある。洗脳の一つであるが、日本のミーハー知識人から絶対的な孤独の相貌があるとか言われる近代ヨーロッパ人の主体性の、これが正体だ。近代的自我を持った文明人に対して、持たない我々は自然と融即の土人だとさ、ありがてぇ。ヨーロッパ近代文学の自意識は、神を失った不安による探究や彷徨であるが、主体性のある近代的自我が他者や自然に向かうのと、近代的自我を持たない日本人が強いられた近代化の葛藤に嫌気がさして楽になろうと自然に向かうのとでは、全然違うわけだ。最初から去勢されていない、あるいは封建制の残滓に塗れている日本人は、近代的とか社会的とか言ってもそのフリをするだけだったし、それを偽善的と感じる者はさっさと自然に回帰して私小説を書く。文人と庶民の自然は同一ではないにしても、つながっている。

 とか、適当なことばっか言ってないで、ひとつ学者さんが書いたものを覗いてみるか。イルメラ・日地谷=キルシュネライト『私小説~自己暴露の儀式』(1992年)より。


 私小説は、二十世紀初頭に、日本の自然主義を母体にして成立した文学ジャンルである。日本の自然主義は、ヨーロッパ自然主義を模範とし、真実の忠実な再現と、「露骨なる描写」とを旗印とする文学潮流であった。しかし、価値観を交えぬ無条件の現実模写というこの要請は、やがて、ありのままの自己表出という方向へと、一種独特なかたちで解釈しなおされてゆく。そしてまさにこの独特な解釈転換を経てはじめて、日本の自然主義は、広く一般に受け入れられてゆくようになったのである。文学の対象としての私生活主義へのこの転換と、自然主義の潮流の告白文学への流入とによって、ジャンルとしての私小説が成立したのであり、以後、告白文学としての美的な質は、告白の正直さの度合いによって測られるようになってゆく。(30頁)


 ああ、疲れた。もう読むの止めよ。これで十分だわ。ヨーロッパのリアリズムの影響を受けて、ありのままの自己表出なんてものがあると思っていたお目出度い人々が、文学の対象を私生活主義に転換し、私生活描写における露骨さや告白の正直さを評価基準にするに至ったということらしい。自然主義の意味が変わってしまってるんだな。

 思うに、私小説って詩歌の伝統を汲んでるんじゃないか。芭蕉とかさ。空気感が似てる。さっきの禅やアニミズムの話もそうだが、こんなふうに伝統と直結させるのは無媒介過ぎるか。ま、いいや。これはいわゆる隠者の系譜だが、半ば乞食の伝統と言ってもいいものだ。制外の、無や死の視線からの文学だから、近代市民社会でそれをやると、小説家が市民的な価値観を離れて、たとえば末期の目で世を見るというようなものになる。日本だったら禅だけど、現象学なんかにも通じる。だが、私生活を正直に露骨なる描写で書く自己暴露小説とか言ったって、いくらでも嘘が書けるからな。迫真の嘘を書くのが文学という考えもある。いや、それこそが文学だろう。だから往年の私小説だって、小説家が、いや小説家だけではなく関わっている連中がみんなでついている壮大な嘘だったんじゃないのか。

 私小説は一応純文学になるのか。しかし、この純文学って何だ。色々とこじらせた厨二病の小説家が、世間と対峙して自我を主張するとかいうものなのだろうか。違うかな。純文学というと、つまらない文学というイメージしかないけど。今の純文学は私生活をそのまま書いたり暴露したりするようなものではなく、ファンタジーみたいなものが多い気がする。迫真の嘘ですらなく、ひ弱な自我を屈折した形で出している。あんまり読まないので知らんけど。小説では、面白いのが直木賞、面白くないのが芥川賞というカテゴライズを勝手にしているが、これも偏見かもしれない。なんせ直木賞系しか読んどらんもんね。

 私小説演技説というのを聞いたことがあるが、あれはどういう意味だ。自作自演、自転車操業で私小説を書いていく。作品というより、人生そのものがパフォーマンスになっている、というような意味かな。自分をカリスマとして演出するってのもあり得るな。そう言えば直木賞の場合は作家を神格化しないけれど、芥川賞はちょっとぐらいは神格化することも多いんじゃないか。作品がつまらない分だけ作家のキャラ付けをして売ろうという算段だ。直木賞は作品で勝負、芥川賞は天才や無頼派とかのキャラで勝負。ま、売れれば何でもいいんだろう。

 米津玄師とかあいみょんとか、私小説ぽっいな。ユーチューバーは私小説家みたいなものか、私生活を晒すのが好きな人が多い。これも動画の種類によるか。一九八五年にソニーのハンディカムが出て、子供の頃から親に日常生活を撮られるようになってからの世代は、ふだんの自分を晒すのが普通になったというが、ユーチューバーはさらに自己表現メディアが発展して個人配信が可能になった時代の申し子だ。感覚的にSNSが日常性を形成しているのだ。あっけらかんとしたAV嬢なんかも、伝統的な日本の性モラルの低さに加え、父権や対幻想の喪失で抑圧の蓋が外れたことや、自己露出的な潮流の上にあるのだろう。現代社会の多重人格性ということもあるかもしれない。まあ日本人は流されやすいというのもあるが。ユーチューブもすでに陳腐化しているが、ほのぼのしたコンテンツは世界平和に寄与しているな。無頼派の私小説家は迷惑系ユーチューバーみたいなものか、さすがに違うか。いや、結構当たってるか。

 さっきのイルメラさんの本、読むの止めよと言いながらもう少し先まで見ていると、こんなことが書いてあった。私小説の元祖である田山花袋『蒲団』は大人の一般読者には読まれなかったらしい。


一般読書が好んだのは、むしろ明治の巨匠、森鴎外と夏目漱石の文学のほうであり、しかもそれは、自然主義作家たちとは比較にならぬほど高かった彼らの社会的地位によるところが少なくなかった。新しく登場した自己暴露小説の最も熱心な読者は、おそらく文学青年たちであった。彼らは言わば文壇の底辺を支える階層であり、彼らにとっては、自分たちが手本とする作家たちの日常生活を暴露するゴシップ小説ほど刺激に満ちたものはなかったのである。(110~111頁)


 ほら、やっぱりユーチューバーと同じじゃないか。若者こそがアホなことをやっている人をロールモデルにして、アホなことをやるものなのだから。

 そもそも文学ってなんだよ、という話だよね。少なくとも隠し持っている内面において厨二病とかひきこもりじゃないと、文学なんかやるかね。しかも、そんな性格の癖に自分のことを表現したがってるというのが痛いな。いや、そんな性格だからこそか。「書きたがる病」ってやつだね(これもイルメラさんの本で覚えた。芥川龍之介の言葉らしい)。近代文学はそんな痛い連中が多いだろう。

 しかし、独自の人間認識を表現するにしても、社会批判をするにしても、言いたいことを誰かに聞いてほしいから物を書いているわけだろうし、自分を知ってほしい承認欲求がなかったら文学なんかやらない。そして人間は承認欲求を持つ者だから、そこを批判するのは違うだろう。人間は言葉と一体であり、自我が不安定で、言語的なコミュニケーションをしてなんぼの生き物だから。他人に自分を知ってもらおうと表現することでドーパミンがドバっと出るらしいし。

 あと、文学は言語を縦横に駆使するのに長けた人間の言葉遊びというのもある。自分の才能を生かして、しかも楽しんでる。それを職業にしてるわけだから羨ましいかぎりだ。美貌の持ち主がモデルになり、歌の上手い人が歌手になるようなものだ。

 それからもう一つ、これはもう病気の域になるが、承認欲求というより表現することで辛うじて正気を保っているような、表現しないと発狂するタイプがいるんじゃないか。厨二病とかひきこもりとかじゃなくて、このタイプの芸術家はもうキだ。精神崩壊の危機のキ。頭の中でキキキキキと音が鳴っている人たち。太宰治とか三島由紀夫とかそうなのかな。浜崎洋介『三島由紀夫~なぜ、死んでみせねばならなかったのか』(2020年)は、そうしたキ劇として三島の文学と行動の歩みを描いていた。言語を操ることに長けた、人にあらざる孤独な生き物が、さびしくて人間になりたくて健康な身体と仲間と必然性のある死を探していた(死への道行きを脚本演出主演していた)というストーリー。三島のほうがよほど私小説だな。だけど案外、それらは全部文学上の虚飾であり、たんに死に遅れた戦中派の一民族派の志士がいただけかもしれないじゃないか。

 文学一般の話から私小説に戻るが、私小説って露出狂的な変態という類型も考えられる。まあこれも、他者の視線によって自己の存在を確認できるというところに根っこがあるのだとすれば、承認欲求のバリエーションとも捉えられる。AV嬢なんかもこれと近いかもしれない。それから、奇人変人という類型もある。でもこれは無頼派、破滅派、隠者、乞食なんかと同じか。どっちにしても、制外にいて(一見内部にいながら心は外ということもあるだろう)、そこそこ文章を操れる人が書くと、なかなか迫力のある私小説になるということではないだろうか。

 人間界から距離を置いた観察者の立場は、私小説でなくとも可能だろうが、私小説は実人生の自己をも容赦なく晒してしまう暴露小説なので、自分やその身辺を題材にしてその俗物性や低劣さや性癖を描くのはたしかに一つの徹底したリアリズムであるとともに、そんなことをするのは社会性をかなぐり捨てたアウトサイダーの証明にもなる。暴露系や迷惑系のユーチューバーとも重なるのだ。

 たしかに社会の外にこぼれ落ちた者にも、独自のアプローチで社会に向かい合い、寄与できる可能性はある。しかし、こんな話は人間界に籍を置いて、他人とつながっていたいがゆえの未練たらたらの弁明であるだろう。

 それから、私小説ってゴシップの興味で読ませるというのもあるな。モデル小説の論議もこれだ。これって週刊誌と同じで、通俗の極みだ。どこが純文学だよ。いや、純文学とか私小説って本質はそういうものなのか。やっぱり題材の、つまり生き方の特殊性が売り物になるということだろう。貧乏とか不倫とか革命とかポルノめいたものとか、その他もろもろの外道行為とか、そういうものに商品価値がある。そうなると、平坦な人生ではネタがないということで、それを作為することにもなる。あっ、これがまさしく私小説演技説か。逆に、平坦な人生をそのまま(しかし認識はそこそこ鋭く)書けば、日常系の身辺雑記になるのだろう。

 堂々巡りをやってきたけれど、ちょっと私小説というものが見えてきたぞ。


 日本の近代文学はヨーロッパの近代文学の影響を受けつつも、両者は別物ということを踏まえておかなければならない。今はヨーロッパ精神もバラバラになってきて、大方の人間は日本人と変わらずその日その日を生きているだけだろうが、文化的な差異をごちゃ混ぜにして、ヨーロッパに憧れる近代主義者が願望を投影して論じると、様々な誤解が生じる。そのちぐはぐさ、誤解に基づく喜劇が日本近代文学の歴史でもあるが、ともかく、日欧の違いを前提とした上で、そもそも私小説の範疇化や概念化、定義をめぐる議論はバカバカしい。ましてや文学の基準や規範、正しさなどをピーチクパーチクやり出した日にはその悲惨さたるや目も当てられない。

 私小説はこれという形式的な定義があればまだしもわかりやすい。たとえば小説家と同一人物であると思われる登場人物(一人称に限らず三人称や二人称や無人称でも可)が、事実と思しき事柄を記述している小説(日記や身辺雑記などの随筆と区別ができなくても可)とかいうような定義。しかしこれとてあやふやなものだ。バリエーションやグラデーションは無限であり、内包と外延がしっちゃかめっちゃかになり、私小説とは何か、何が正しい私小説かなどという真理ゲームで紛糾することになる。小説は何でもありの表現形式だ。無定型だ。それを定義しようとしたりするのは研究者や出版社の商売上の行為でしかない。私小説とは私小説をめぐる言説、恣意的に概念の境界を作為した臆見であり、それは、その人間が(作者が定義ゲームに参加する場合は作者も含めて)私小説をどう思っているかを表しているだけのことだ。そもそも私小説は実在するのか、実はそういう性格の話なのだ。

 岡庭昇という文芸評論家が『私小説という哲学~日本近代文学と末期の眼』(2006年)という本で、そのことを指摘していた。私小説ファンだという岡庭は、自らを私小説作家の「芸能ファンクラブの一員」と捉え、


私小説が事実を描く文学だとか、あるいは日記的雑事に解体しているとかの決まりものの認識は、本当は作品によるのではなく、評論家やファンが勝手にそう決め込んだだけと考えるのが妥当ではないのか。(38頁)


 だいたい私小説家に新規参入しようとする若者がいたとして、その動機を慮るに、たまたま読んだ私小説に完全にノックアウトされてしまったという純真なケースもなくはないだろうが、ユーチューブと同じで私小説とかいうものがトレンドになってるらしいから俺も一丁やってやるかってなところじゃないのか。文学なんてそのくらいのものであろう。それこそ私小説の神様がいるとかいうのは、神話の創作であり、英雄譚を語っているのである。無頼派とか破滅派とか言っても同じことだ。

 もっとも、何であれ話題になること、話題にすることはいいことだ。私小説を文化商品として売るためのプロモーションである。それは研究者にとっても研究対象の価値を高めるものにもなる。


 乗りかけた船なので、自らに苦行を課して、私小説研究本を覗いてみた。こういう良心的なところを捨て切れない。十冊や二十冊は読んだ。三十冊だったかもしれない。無論、熟読はしていない。チラ見しただけだ。

 さすがにポストモダンとか構築主義とかなんだとかを通過した現在、私小説の神話を創作したり英雄譚を語っていたりするものはあまり見かけなかったが、いずれにせよ、私小説に限らず、文学の研究なんか無意味なものだ、というのが今回苦行をしてみた感想である。それらは大学という制度に依存し、教員・研究者という商売を、これって意味がある行為だよね、と暗黙裡に合意して、共同的に遂行しているだけでのものある。ディスコースやナラティブとやらを研究をしている連中のディスコースやナラティブを研究すると、彼らの商売が見えてくる。それは大学や出版という制度に回収できるものだ。そこには政治的なものも含まれよう。まあ当たり前の話だ。創られた研究ごっこがそこにある。文学研究は謎解きゲームや業界用語のパズルでしかない。そこには、自然科学のような社会的有用性は何もない。無意味なものだが、自分たちの無意味さに気づけば研究は融解するので、目をつぶっておいた方がいいということになる。しかし全く無意味だと思っていることを続けられるはずがないので、本人たちは意味があると思ってやっているのだろう。いや、金や地位が与えられればそうでもないか。それこそ承認欲求でやっているとか。いずれにしても、文学部が無くなれば95パーセントは雲散霧消する程度のものに過ぎない(文学部が無くったって森銑三みたいに自分で研究するもんね、って言う人もいるかな?)。どこの世界でもそういうところはあるので、これは特に文学研究だけを批判しているわけではない。人間社会はどこの分野でも概ねゴミの生産である。

 そういうなかでも、知性きらめき、楽しんでやっている学者さんもいるもので、今回の苦行でも幸運にもそうした本に遭遇した。安藤宏『近代小説の表現機構』(2012年)はそういう一冊。太宰治の研究をしてきた人らしいが、近代小説が置かれてきた歴史的なコンテクストを把握した上で、安易に歴史に還元せずに、自律性を持つものとして小説の表現機構を、日本語の特質(主観と客観の表し方とか一人称と三人称の使い方とか)に即して考察するというアプローチで、ハッタリがなく、一見穏健に見せかけつつ透徹していて、丁寧に平易に書かれている。小説家たちが、日本の現実とそして日本語と格闘してきたことがよくわかる。用語の定義や分類などもいったん自分で考えてやっている感じがする。第7章「『私小説』とは何か」をとりあえず読んでおくだけでも私小説の理解には充分間に合う。

 それから個人的に大当たりだったのは梅澤亜由美『増補改訂 私小説の技法~「私」語りの百年史』(2017年)という本で、聡明で視野が広くて考察が行き届いていて精神が安定していて端正な落ち着きのある文章と論理のはこびで、ひときわ光っていた。その認識世界は安藤宏に近いが、人間は環境によって「私」を与えられ強いられながら、それを根拠に、そしてそれに抗して、新たに「私」というものを創りながら行きつ戻りつ進んでいくというのをしっかりつかまえている。ベタな実体論ではないが、ベタな虚構論でもないところに、私小説の場所はあると捉えている。不安定な再帰的自己はシステムに適応するだけではなく、アイデンティティに(カウンター的なものであれ)強迫的に引き寄せられていくこと、そしてその裏には権力意志も隠されていたりするというようなことも全部わかっていそうな人だ。多様に理解を行き届かせているがゆえの相対主義ぎりぎりのところでとどまり、良き自己のあり方を探りながら生きていくという思想の持ち主ではないかと思う。これだけ物が見えていると、社会学や心理学や文化人類学や言語学や哲学なんかをやっても優秀な研究者になったことだろう。言うまでもなく、梅澤亜由美が面白かったのは個人の好みの問題だ。「それってあなたの感想ですよね」に過ぎない。

 もう一冊、小林敦子『純文学という思想』(2019年)も違う意味で興味を引いた。高見順に惚れ込んでいる研究者だ。本書でも、高見に依拠して純文学論を展開している。死を宣告されたはずの作者の復権を唱えている珍しい人で、小難しい理屈ばかり並べている最近の研究とは違い、あんまり誰も改めて言わないようなことを正面から主張している。獅子吼していると言ってもいい。高見の文学理念は北村透谷の大上段に構えたロマン主義的な文学論(内部生命論)の系統を引いているようだが、志賀直哉や高見は大衆文学のように読者のために書くのではなく、自分の創造行為として文学をやる、これが純文学だと主張していたらしい。私小説は純文学の中の純文学ということになるようだが、高見によるとどのジャンルでも純文学として書き得るという。その他、小林秀雄もベルクソン派として「私」の創造の場を確信していたらしい。そういう純文学の読者層として青年がいたと本書でも書かれている。青年期は社会と対峙する時期だからそういうことになるのだろう。高見などはマスプロではなく同人誌を純文学の場として大事にしていたようだが、とにかく、小説家が純文学を書くということは、誰でもなくこの「私」として、真剣勝負で、集中してフロー状態で、予定調和的に先取りされていない創造の行為として書くという話だろうと思った。近代の申し子である文学の場合は「俺は作者だ」という叫びが聞こえてくるが、ジャズの演奏とか、料理を作ってるのと変わらないだろう。客体化を拒絶して無になって創造する状態である。真摯で求道的な自己陶酔、いや、自己没入。揶揄しているわけではない。それでいいと言っているのだ。


 しかまあ、私小説研究業界にケチをつけてきたけれど、学問として共同的に営業が成り立っていて、研究者たちが趣味的に研究を楽しんでいるのだからそれはそれで結構なことだ。人文系の学問では何でも研究対象になり得る。ニッチ探しが大切な世界だ。プロレスは八百長じゃないかと指摘する子供みたいな態度ではなく、大人モードに切り替えよう。

 文学研究は仲間内(いわゆるアカデミックの世界)のごっこ遊びだというのは間違いないが、これは研究対象の小説業界にも言えることだ。文壇とか出版業界とかいう領域は完全に共犯的な共同行為の場である。つまり仲間内の話だ。小説もまたそういう場に依存して成り立っている。この辺のことについて、安藤宏が書いていた。前掲書の第6章「表現機構としての『文壇』」の一節。ちょっと長くなるが、引用しておこう。


 一般にどの言語圏においても、近代商業資本のもとでは「誰が書いたのか」という「作者」の情報が、「商品」としての作品受容にあたってそれまでとは比較にならぬほど大きな役割を果たすことになる。日常の個人を写実的に、しかも顔の見えない不特定多数の読者に提示するにあたって、いわば「あの漱石」「あの鴎外」の書いた作品である、という形の神話化は、なかば必然的な道程でもあった。こうした中で、作者を思わせる「小説家」を主人公にするという手だては、あらたなコンテクストの発信装置としてたしかに有効なものであったにちがいない。ひとたびコンテクストができあがれば、次にはそれを利用して作者の実生活の事実に寄りかかった小説が大量に生み出されることになるだろう。それは、たしかにある意味では安易な方向ではあったにちがいない。しかしそうした数多くの小説が錯綜する中で、それらをコンテクストにあらたな小説機構が立ち上がり、自律性を兼ね備えたテクストが出現して近代小説の全盛期を迎えることになった経緯もまた、まぎれのない事実としてわれわれの前にあるのである。

 近代文学の研究に関していえば、当初きわめて素朴な作家論から始まったそれは、一九七〇年代以降にテクスト論の洗礼を受け、いわば起源としての作者の権威を相対化する方向へと向かうことになる。だが、神話としての「作者」を再生産してしまう研究も、これを否定してテクスト自体の自律性に立脚しようとする研究も、この場合、いずれも事態の一面を押さえることにしかならないだろう。問われるべきは、近代独自の神話や説話が生み出されていく必然を、一個の可逆関係として見極めていく発想なのではあるまいか。

 (略)

共同性をコンテクストとして生み出していく作用はテクストによってさまざまな強弱があるが、おそらくこれがゼロになることはありえない。テクストに内包されたその指数をここであえて「文壇」と名付け、その相乗作用が展開されていく様相を読み解いてみたいと思うのである。(133~134頁)


 なかなかシビレる。文壇と言っているが、どう見ても研究者もそこに入っている。この文壇とか出版業界とか学界とかの共同性こそが文学を産み出していくわけで、この文壇ゲームを踏まえずに「近代小説を表現機構として読み解いていくことはきわめて困難になってしまう」(134頁)というのだ。安藤先生はカラクリを全部言っているじゃないか。「これがゼロになることはありえない」と、自らの活動基盤もしっかり確保している。さすがっす。

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