群青の朱翼連理

藤居 薫衣

第1話

 

「おお、寒い寒い」

 足下に茂る草に夜露が降りる。その空気をできるだけ避けようと身を縮こまらせながら、男は急ぎ足で薪小屋へ向かう。口元から零れる淡く白んだ息にはどこか弾むような色が見えた。

 山岳地帯にあるこの国、イグレティカは森林限界付近に生活拠点を構えている。そのため、夏季であっても夜更けは冬に近い気温となり、暖を取るための薪はこの国には必須であった。昼間のうちに勤めていた人間がその在庫確認を怠ったのだろう、夕方に交代した男は今になって詰めていた建物から離れた薪小屋へと走らねばならなくなったのだ。

「まったく冗談じゃないな」

 小屋の壁一面に積み上げられている薪の束を鷲掴みにすると、確認を怠った同僚に対して軽い悪態と深い溜息をついたが、男にとってそのようなことはこれから起きる出来事に比べれば些細な事だった。

 国の象徴であり国名にもなっている大白鷺おおしらさぎ。大昔から貴重な労働力として馬や牛以上に重宝されてきたこの鳥は、翼を広げ大空を舞うその優美な姿を花に、湖上で羽を休めている姿を宝石と称えられ、そして大白鷺に跨がり外敵と戦う白鷺騎士は人騎ともに国民の憧れと誇りであった。

 その大白鷺の卵が、そろそろ孵化の時期を迎えているのだ。


 大白鷺の個体数は国によって調整されており、怪我や急逝、または老成によって引退し配属数を減らした分だけ交配によって増やされる。国の象徴ゆえに雛の誕生は国民の大きな関心事のひとつであった。男は白鷺騎士ではないが、鷺の世話係になって三年ほどになる。繁殖期には世話係が交代で昼夜を待機することになるが、十数年勤めていてもその瞬間に立ち会えることは滅多になく、巡り合わせとはいえ自分のような若輩者が孵化した瞬間を見られるかもしれないことは間違いなく僥倖ぎょうこうだ。それに比べれば寒空の中で薪を取りに行くことも、夜勤勤めであろうとも苦にも感じることはない。男は冷たい外気に再び晒される前に大きく息を吸い込み、小屋の扉を開けた。部屋の空気と入れ替わるように流れ込む冷気を頬に感じながら外へ出れば、手を伸ばすだけで届きそうな位置で燦めいている星々が視界の端まで広がる。標高の高さと澄んだ空気のおかげでその輝きは平地よりもずっと多く、そして強い。しばらく足を止めて見ていたかったが、自分の役割と思い出すと星の海に飛び込むように夜道を駆け、勤め場所である厩舎きゅうしゃへと戻っていった。


「おう、ご苦労さん」

薪の束を両手に抱えた男が厩舎の扉をくぐると、すぐさま労いの言葉がとんでくる。暖炉のすぐ傍、熱源が消えぬよう炎の番をしていた白髪の男が厩舎に残っていた最後の薪の一片を手に取っていた。

「戻らなかったら、椅子の脚を折ってくべていたところだ」

 本気とも冗談ともとれぬ言葉でそう話す男性の顔は深い皺に刻まれ、表面は少々赤みがかっている。酒で体温を上げようとしたな、という言葉を若い男は苦笑いに隠して答えた。目の前の白髪の男性は大白鷺の世話係を四十年も続けている老練だが、酒癖が悪いと評判でもあった。学ぶところが多い人物であっても、尊敬できない部分は多々存在する。もっとも、この大事な時期に酒に呑まれて酩酊するようなことはないと思いたい。男は薪を束ねた紐を解きながら、せめてこれ以上酒を呑まないようにと切に願った。

「もうそろそろですかねぇ」

 話題を逸らすついでに子育てのために隔離している白鷺の様子を探ろうと、鳥房ちょうぼうの扉に付けられた細長い引き戸から覗き込もうとする。

「あまり頻繁に覗くなよ、親鳥が警戒する」

 逸る気持ちを抑えるよう老練の男は若い世話係に釘を刺した。いくら人慣れしてるとはいえ、繁殖期の親鳥である。神経を尖らせている状態で余計な刺激を与えてはどう転ぶかわからない。外敵と認識した親鳥が、奪われる前に自ら卵を割ってしまうことさえあり得るのだ。

「まあ焦らず構えていろ。生まれるのは今日とも限らん」

 名残惜しそうに鳥房の扉に何度も目をやる若い世話係に対し、老齢の男は椅子に深く腰掛け、空になった陶製の杯を手の中で遊ばせている。

「夜明け前には生まれてきてほしいもんですよ」

 そう答える男の言葉には自らの子供が生まれるかのように焦燥の混じった溜息が混じる。夜が明ければ交代の時間だ。次に順番が回ってくるまで雛が孵るかもしれない。雛の誕生を確認し、それを宮廷へと報告する役目はこの仕事における最高の栄誉と称される。できることならばそれを自身の手で成したいと思うのは世話係ならば誰しもが思うことだろう。

 彼の気持ちは倍以上の歳を重ねた老練の世話係にもよくわかっていた。新しい薪がくべられ、勢いを取り戻した暖炉の炎を眺めながら昨日の事のように思い出す。長い経験の間、雛鳥の孵化に立ち会ったことが三度、その度に自身の子や孫が産まれたときのように喜び、そして跳ねるように王宮へ駆けていったことを。次の機会があれば、報告の誉れは若手に譲ろうと彼は考えている。もっとも、その機会がこの落ち着きのない男に訪れる保証はできないが。

 思考を巡らせながらも男の手は空の杯に新しく蒸留酒を注ぎ、ぐいと呷る。あっと若い世話係が声に出そうとした瞬間、甲高い鳴き声が鳥房内に響いた。

 雛が殻を破ったのだ。慌てて駆け出そうとした若者を白髪の男は腕を伸ばして制する。まだ早い。その目はそう言っていた。大白鷺の親鳥は、雛が孵るとまず自分の声を聞かせる。そうすることで雛は自分の鳴き方を覚えるのだ。親が声を聞かせない場合、雛は一生その鳴き声を発することはない。二人は刺激しないよう息を潜め、ただ親鳥の鳴き声と燃えていく薪だけが音を発する時間が流れた。どれだけ待っただろうか、数十秒にも数刻にも思える時間が過ぎ、やがて親鳥の声に混じって小さなさえずりが聞こえ始めた。

「そら、確認してこい」

 若い世話係の背中を叩いて押し出すと、老練の男は向かいの鳥房の様子を小窓を使って窺い始めた。最初のつがいの雛が孵ったならば、残りの卵の孵化もそう遠くない。男はひとつひとつ鳥房を確認していく。どの卵も孵化の前兆となるヒビが見当たらずどうやら今日は最初のつがいの雛のみとなりそうだ。と少し肩の力を抜き、若い世話係のほうに声をかける。

「可愛いもんだろう、生まれたての雛は」

 その言葉が聞こえていないのか、若い世話係は反応を示さず立ったままでいる。初めて立ち会う雛の誕生に感動でもしているのだろうか。その心境は老いた身にも覚えがある。大白鷺の雛は生まれたてとはいえども成人男性の両の掌にも余る大きさで、人間の赤子よりも大きい。かつて我が子の誕生に立ち会ったとき、その重さと放つ熱量は命というものを強く実感させられるものだった。彼はまだ伴侶となる者を見つけてはいないが、やがては自らの子を取り上げる日が来るのだろう。少しばかり早いかもしれないが、よい経験となる。と老夫は微笑ましく若者を眺めていたが、少し様子がおかしい。

「どうした?」

 再度、声をかけてみたがやはり返事はない。それどころか、暖炉の火明かりに照らされているはずの彼の顔は土気色のように見えた。まさか、と慌てて駆け寄る。雛のさえずりは親とともにはっきりと聞こえている。死産ではないはずだ。最悪の可能性を脳裏からかき消し、老練の世話係は小さな引き戸から中の様子を覗く。そして彼はすぐに若者と同じく顔から血の気が失せ、同時にその理由を知ることとなった。

 大白鷺の雛の産毛は本来、灰色にくすむ部分と黒い部分が殆どを占めている。だが、この雛の産毛は淡くくすんだ緋色に染まっていた。

朱鷺あかさぎか……」

 極々稀に突然変異として産まれる朱鷺。成長すれば銀朱の翼を広げ、イグレティカの建国以来その希少性の高さから王族の乗騎としても重用されていたと記されている。だが戦場では大空を翔る際に空の青とも雲の白とも馴染むことが出来ないその色が仇となり、朱鷺に跨がった騎士の戦死率は極めて高い。また朱鷺が産まれた年の多くは災害や戦乱に見舞われており、やがて朱鷺の産まれは凶事の前触れ、凶鳥として忌諱される存在となっていった経緯をもつ。

 その朱鷺が産まれてしまった。若い世話係が狼狽ろうばいするのも無理はない。長く経験を積んだ老練の世話係でさえ、朱鷺の姿を初めて目にするのだから。どうあれ王宮には雛の誕生を報告しなければならない。たとえそれが凶鳥の誕生であったとしても。酔いの覚めた顔で老夫は今回の報告は自分の役目だろうと腹に決めた。

 年期の入った厩舎の隙間から差すわずかな薄明かりに気がつけば、夜空はすでに地平の際から日が昇り白んでいる。完全に夜が明けるその間二人は口を開かず、ただ緋を溶かした空と同じ色をした雛だけが、静寂の中でぴいぴいと鳴いていた。

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群青の朱翼連理 藤居 薫衣 @kunue-fujii

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