第8話
「今、ちょうど食事の支度をしてたのよ。さあ、入ってちょうだい。いっしょに食べてってちょうだいね、ちょうどよかったわ」
さあさあ、とワインレッドおばさんがゆっくり手招きをしながら、ゆっくり玄関のたたきにおりてきて、ゆっくり私の手を取って、奥に引き入れようとした。
「あ、いいえ、そんなつもりでは。ちょっとお話しうかがいたかっただけなので」
「たいしたものはないのよ、さあ、あがってくださいな」
「いえ、あの、あと2人もいっしょなので」
「息子さん?2人もいらっしゃるのね、みなさん、ごいっしょにどうぞ、ほらほら」
振り返ると、わくは「入って」というように、私に小さく頷づいた。
「それではお言葉に甘えて遠慮なく」
「さあ、どうぞどうぞ」
玄関から続く廊下の左手に、二間続きの和室がある。廊下を挟んで右手がキッチンになっているらしい。
「さ、おすわりになって。今、お茶を淹れますから」
和室の隅に重ねてある座布団を取りに行こうとするのだが、とにかく動作が緩慢で時間がかかる。見ていると危なっかしいので、わくに目くばせすると、わくはすぐに立って弘中さんに「僕がやります」と声をかけ、座布団を運んできた。私に一枚手渡しながら「超ウェットです」と耳打ちする。なにが?と思いながら座布団を受け取ったとたんドキッとした。
まるで、干しておいたのに雨に降られ、取り込みそびれた座布団のように湿りきっていた。
しかも強烈なカビの匂い。30分もこれに座っていたら体調をくずしそうな気がする。
「今、お茶を淹れますね」
「どうかおかまいなく。お食事すませてらしてください。
お邪魔でなければ、私たち、ここで待たせていただきますから」
「そうそう、おいしい玉露があるわ、待ってらしてね」
弘中さんはキッチンの方に行こうとするのだが、その歩みはタルコフスキーの映画の登場人物のように遅々として進まない。お茶を淹れるにしても30分はかかるのではないか。
不躾ではあるが、歩行を見守りつつ、私もキッチンについて行った。
家の中の様子を見てみたいという面もある。食事の支度はまだなにもしていなかった。
これから?全力で阻止せねばと思った。幸い、お湯はポットの中にすでに準備されていたので、あとは急須に茶葉、湯呑があればいい。キッチンのダイニングテーブルの上に置かれた丸いお盆に、急須と湯呑があったので、「これを使ってよろしいいんでしょうか」と聞くと、
「あら、そうよ。いつもそれ使ってるでしょう?」という。
わあ、誰かと間違えてるわ。無視して進むしかない。古伊万里だろうか、唐草模様の急須や湯呑は、古いものだが大切に使われているのがわかる。生活用具の使い方はボケないタイプの人なのかと思った。茶筒の中の茶葉は、玉露の深い香りを保っている。
「今日は、デイは楽しかったですか?」
「楽しくないわよ。行きたくないけど、迎えにくるから行くのよ」
「週何回くらいいらしてるんですか?」
「毎日よ」
相当楽しそうだな、ばーさんよ、と心の中で突っ込む。
「芋ようかん、お持ちしたんですよ。お気に召すかわかりませんけど」
「あらいやだ、それならお食事、少しにしておけばよかったわね。食べ過ぎちゃったわね」
とコロコロ笑う。
「あ、あはは!ですよねえ、いやだ〜」
和室からキッチンまでの移動時間で、この人の中では食事が終わっていた。
よかった、と思いつつ、食べたことを忘れて、まだ食べていないという高齢者はいるらしいけれど、食べていないことを忘れる人もいるのだと勉強になった。そういえば弘中さんはとても痩せていて、手など骨の上にかろうじて皮膚が乗っているという感じだ。
どの指にも指輪はしていなかった。
お茶を淹れて和室に戻る途中で、わくたちが大急ぎで座布団に戻る様子が見て取れた。
部屋の中にあるものをチェックしていたに違いない。
「あら、お食事、もう下げちゃって大丈夫だったかしら」
弘中さんの問いかけに、わくとコウタは一瞬の沈黙ののち
「あ、もう全然。大丈夫です。ごちそうさまでした」と答えた。
やっと本題に入れると思い「ところでおうかがいしたいことなんですけれど」
と私が口を開くと、
「あなたのお聞きになりたいことはわかりますよ」
と弘中さんが言ったので、ドキッとした。
多分、ほかの2人も驚いたに違いない。
「ねえ、民生委員の方は本当に大変よねえ」
と弘中さんが言ったので、ああ、そういうことかと理解した。
私はいつの間にか、近所の水田ではなく民生委員さんに変貌を遂げていたのだ。
「松下さんのことでしょ?」
「あ、何か、ご存知ですか?」
とりあえず松下某さんに踏み石としてご協力いただこう。
「亡くなる3日前にお会いしたばかりだったから、もうびっくりしたんですよ。
あのね、亡くなったことに息子さんのご一家、ぜんぜん気が付かなかったんですって」
「そうなんですか?」
「そうなんですって!二世帯住宅で上に住んでらっしゃるのに気がつかないって、ねえ。
もうそれなら2階に住んでいても北海道に住んでいてもおんなじじゃありませんか?
ひどいお話ですよ、ねえ」
「ああ、ねえ。ところで、弘中さん、お宅に、これと同じような指輪がありませんか?」
もう単刀直入に行くしかない。機は熟しているはず。
「指輪?ああ、もうね、指輪とかネックレスとか、新しいのを買うつもりはないのよ。
申し訳ないんですけど。今買ってももう、冥土にしていくくらいしかないもの」
「ねえ、私ももう新しいものは必要ないですねえ」
同感と協調作戦で行こう。
「長年しているこの指輪がすごく気に入っているんです。弘中さん、似たような指輪、以前、してらっしゃらなかったですか?なんだか、拝見したような気がするんですけど。
そのとき、私のと、とっても似ているなあと思って。差し支えなければ見せていただけないでしょうか?」
「あらそう。そんなの、あったかしらねえ。ちょっと待ってらしてね」
弘中さんはよっこらしょと立ち上がろうとした。箪笥につくまでに目的を忘れられても厄介だ。
「この部屋ですか?僕、取りましょうか」
とわくが立ち上がる。
「その箪笥の、戸棚の中・・・木の箱をとってくださらないかしら」
わくがいそいそと木箱を取り出して持ってきた。
弘中さんが蓋を開けるのをみんな身を乗り出し、食いつくように見守る。
中にはブローチやネックレス、指輪の収納ケースと思われる小箱などが入っていた。
「古いものばっかりよ。ああ、これは父がロシアで買ったものよ。まだ帝政ロシアだった頃のものね。これは私がオランダで買ったものよ」
メノウらしき石を金で縁取ったポップなデザインのものだ。弘中さんの服が、どうりで下北沢あたりの古着屋で買ったような、60年代スタイルだったはずだ。襟の大きい茶色のワンピースはウエストのところで絞ってあり共布のベルト付き。ベルトには花びらのような形のバックルがついている。多分、海外に行く機会がひんぱんにある人だったのだろう。当時のファッションが時代を超えて、そのまま弘中さんを包み、夢と現実の狭間を運んでいるように見えた。
指輪のケースもすべて開けた。
でも、どこにも目的の指輪は入っていなかった。
「ほかにもアクセサリーとか、どこかにしまってあったりします?」
「それで、これはね、パリで・・・」
延々説明を続ける弘中さん。
「えー、すごい!みんなすっごく素敵ですねえ!
それで、ほかにもあったりします?」
「これはロンドンで買ったのよ、まだギニーとかシリングとかあったころね」
「ああ、ぽいぽい、ロンドンぽいです、
これ以外にもたくさんお持ちなんでしょ?ほかのも見たいなあ」
食い下がるしかない。
「ほかに?見せたいけど、ないわねえ。みんなここに入れてあるのよ」
お目当てのものがなかったことにがっかりしたこともあるが、以上の会話をすべて大きな声でしていたので、私はどっと疲労感に襲われた。
わくを見ると、もう目が泳いでいて足も半ば浮き上がっている。まったく堪え性のない子だ。
「素敵なアクセサリー、見せていただいて、本当にありがとうございます。
突然お邪魔したのに申し訳ありませんでした。もう遅いのでそろそろ失礼します。
これ、片付けますね」
「あら、まだいいじゃないの。お見せしたい絵とかもあるのよ」
これは危険だ。ネバーエンディング・ストーリーが展開してしまう。早いとこ切り上げねば、と思いながら、ふと弘中さんの身をかがめた胸元を見ると、ネックレスの先にチャーム代わりに設えてあるのは、まごうことなき、あの湧水一族の指輪だった。
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