第7話 町を出た。
ノマヤカさんは馬の背に乗せてある袋の中から、二本の、両端に鉤爪の付いたロープを取りだした。鉤爪の一つを馬の首元にある輪っかと引っ掛けて、もう片方を馬車の扉の上側に繋げた。
次に、ノマヤカさんは浮遊馬車の周りを歩き、時折屈み込んで何かをするという作業を始めた。
屈み込む度に白い光が弱く、その場所から放たれ始めた。
ノマヤカさんは馬車の周りを一周し、白い光が馬車の周り全体から強く放たれるようになり、足下が浮き始めた。
僕は驚いて立ち上がった。
馬車が浮かびあがったのは、それは本当に短い間だけのことだった。僕はしかし馬車がこのまま上がり続けて、雲と同じ高さかそれ以上にまでなってしまうのではないかと思った。
結局、僕の手の平の長さぐらいにしか高くはならなかった。
そして床が揺れ始めた。自分の体の動きに合わせて揺れているような気がした。
だから一歩を前に踏み出してみると、床の傾きが少し変わった。その足を一歩左に動かすと、また変わった。
僕がそうやって、どの場所に立てば床がどう傾くのかを確かめていると、
お母さんに言われた。
「この乗り物が壊れちゃうかもしれないでしょ?」
僕はため息を
対面に座るタミラさんの顔の横から、父さんが馬に乗った状態で窓越しに僕の顔を覗き込んでいるのがわかった。その表情は……あまり楽しいものではなかった。
扉のガラスが軽く叩かれる音がして、ノマヤカさんの顔がそこに現れた。
「窓は換気が出来る程度に開くのと、もう一つは全開になります。その場合は突然強い風が吹き込むかもしれないのでご注意ください」
その声はガラス越しとは思えないほどにはっきりと聞こえた。
お母さんが了承した。
ノマヤカさんは最後に僕のことをチラリと見た。
何を言いたいのかはわかった。
正直、おもしろくなかった。
僕は馬の背中に飛び上がったノマヤカさんの姿から目を逸らし、窓ガラスの枠をよく見てみた。それは完全に壁にはめ込まれていて、動いたり取れたりするようなものではなかった。
だから、
「この窓が開くんだって?」
そうお母さんに聞いてみた。
「そうね、多分これだと思うわ」
それは、屋根から糸でぶら下がっているようにも見えた、赤い色の大粒の宝石のように見える物だった。でも実際には天井から糸でぶら下がっているわけではなくて、浮いていた。
母さんがそれを上から下へと引く。すると短い時間だけ瞬き、それ以外には何も起こらなかった。
母さんは周りを見て何かを確認した後にもう一度引いた。宝石ももう一度赤く瞬いた。
「窓が開きましたな」
ナラセさんがそう言うので、僕は窓ガラスがあったはずの場所を手で確かめてみた。そこには何も無くなっていた。もちろん、何も無くなっている事は目で見ただけでも分かる話だった。
初めから何にも無かったかのようだった。
本当にそんなことがあるだろうか?
しかし無いものは無い。
僕は、思わず椅子の上に膝立ちになって、窓から身を乗り出した。
それから窓枠に両腕を重ねて、その上に顔を乗せた。
馬車は、まだ町の中をゆっくり進んでいるだけだったけど、目の前に見える物が反対方向へとゆっくり移動していく所を見るのは、良い気分だった。
「ライラ、窓を閉めたいのだけれど?」
お母さんの声がしたけど僕は窓から顔を引かなかった。
「ライラ、窓から顔を引いてくれないかしら」
さらに言ってきたけど、
「もうちょっとだけ」
と答えた。
その時、お母さんがどんな顔をしていたのかはわからなかったけど、
ナラセさんが、
「走り出すまではよろしいのではありませんか?」
と言ってくれたので、僕はこのままでいていいことになった。
「そうね」
お母さんのその言葉は何故か明るかった。
さらにナラセさんが丸めて持っていた自分のマントを、僕へと手渡した。
足の下に敷いてくれとのことだった。
「ありがとう」
「いえいえ」
窓から顔を外に出していた僕の前に、
馬に乗って歩くお父さんが現れた。
そして、
「気分はどうだ?」
なんてことを言うから、
「前がよく見えない」
と答えてやった。
僕に追い払われたお父さんはノマヤカさんの隣に向かった。そして、
「この仕事は長いんですか?」
とか聞き始めた。
「長くは無いですね。少し前からです」
「そうなんですか? それにしては立派な馬車ですね」
「ええ、始まりが肝心だとも思いまして」
僕はお父さん達の話に少し聞き耳を立てていたけど、
男の子と女の子が道を連れだって、僕の方を見ているのを見つけた。僕は二人の顔と名前を憶えていた。
だから僕は両手を振ったのだけれど、二人とも僕の顔を見て困った顔をしただけだった。
何でだろうか?
「ライラ、もうちょっとで町の外に出ますから窓を閉めますよ」
僕は「はい」とだけ答えて、普通に座り直した。マントはナラセさんに返した。
お母さんが赤い宝石を上から下へ引くと、
窓ガラスが、初めからそこにあったかのように現れた。
お母さんはもう一度赤い宝石を引いた。だけど、窓は消えなかった。
窓は閉められてしまったけれど、
僕は再び長椅子の上の膝立ちに戻って、外を見ることにした。今度は自分のマントを膝の下に置いた。
僕らが町の外に出たのは、まさにその時のことだった。
一瞬、衛兵のおじさんと目が合いかけた後に、ずっと向こうの方まで続く町を囲う塀が見えた。そこから先は地平線が見えた。
建物があるのが当たり前の景色から、急に何も無い景色になったのだ。
町の方を向くと衛兵のおじさんはまだこちらを見ていた。
その衛兵の姿も、そして町の門も遠くなっていく。
周りに町があって人がいる。建物があるのが当たり前の景色から外に出て、そういった景色は実は何も無い景色の中にポツリと浮かんでいるだけだったことを知った。
僕はまだ町の外に出たことが無かったのだ。
そんな当たり前の事が、頭の中に響いた。
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