第8話 ある少女
柔らかいクッション材の壁で囲まれた部屋で、女性がソファーに座って足を揺らしている。
「結局最後の日まで、フランツはずっと仏頂面してたわね」
向かいに置かれたソファーに座って、バインダーに挟んだ紙に何かを記入している男に向かって言った。彼は白い防護服のようなものを着て、髪を後ろで結んでいる。
「じゃあ今日の業務は終わったから、帰る」
そう言って、フランツは立ち上がろうとした。
「ちょっとちょっと、タンマタンマ」
彼女は慌てて止めた。
「最後の日なんだから、お別れの挨拶とかないの?」
「配置換えなんだから、仕方ない」
フランツは、ソファーに座りなおして言った。
「あーあ、フランツがいなくなったら、もっと寂しくなっちゃうな。他の人たち全然しゃべらないんだもの。フランツ、あなた自分のこと無口だと思ってるのかもしれないけど、実際あなた、ものすごいおしゃべりなのよ」
彼女は八重歯を見せて笑った。
「そうか」
しばらく沈黙が流れる。
「ねえ、次はどんな仕事なの」
「分からない」
「フランツがうらやましい。外に自由に行けて」
「正直なところ」
フランツは問いかけた。
「きみは、外に行きたいか」
彼女はまっすぐにフランツを見返す。部屋の隅からは、監視カメラが二人を見ている。
「…フランツも、ここの人たちも、人のためになる仕事をしてるって信じてる。この命が人のためになるなら、血を抜かれようが不自由だろうが、構いやしないわ」
フランツは、彼女から目をそらし、下を向いた。
フランツは何も言えなかった。彼女たちベータ保持者は、ここで行われていることを知らない。
部屋を出た後、フランツは同僚から声をかけられた。
「よお、フランツ」
「K22、フランツと呼ぶな、F17と呼べ」
K22と呼ばれた男は、気にせず続ける。
「彼女の担当、変わったんだってな。おまえをフランツと呼んでたあの子」
ああ、とF17は答える。
「ベータってのは、つくづく不思議なもんだな。ベータ保持者が普通の人間の体液を摂取したら、普通の血液に変わっちまうんだから」
F17は何も言えなかった。彼女は今後、他のベータ保持者との間の子どもをもうけることになっている。そういう計画だ。
K22の言っていることは本当だ。ベータ保持者同士で交配しなければ、貴重な血液が失われてしまう…。
「最近の研究じゃ、ベータには、保持者の記憶が宿るっていう説があるみたいだ。ベータを輸血したら、人格が乗っ取られたケースがあるらしい。嘘みたいな話だよな」
気落ちした様子を見て明るく話しかけてくる同僚に、やはりF17は、何も言えなかった。
彼には、どうしようもできない。
部屋を出るときに彼女が声をかけてきた。
「勘違いしないでね。あなたを信用するから、我慢してここにいるっていうことじゃないわ。私に流れているこの血は、私が生きているっていう証。誰のものでもない私の命。私の意思で、私は今ここで生きてる」
彼女はまっすぐにフランツを見つめた。
「だけど、自分の信念にそぐわない生き方はしたくないの。不自由なんかよりも、その方がずっといや。だから、フランツ、また会えたら」
彼女は真剣な目をして言った。
「今度はあなたが、私に正直なところを教えて」
彼女は笑った。
「じゃあね、フランツ」
相変わらず八重歯が目立つ。
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