第8話 それはだめ

 アンはピアノを聞くのが好きだ。

 もっと正確に言えば、スバルが弾いてるピアノが好きだ。俺と一緒にいるときには見せないような顔をしてる。

 だから2人が一緒にピアノの音に浸ってる間、俺は何となく近付けない。


 ……………

 …………

 ……



 スバルのピアノ教室の日、俺が渡された楽譜集には、初心者用の音符の少ないページに1、2、3、4、5と運指の数字が書き足されてた。この前持ち帰った楽譜をそれぞれのレベルに合わせて配ると、生徒のおばさん達はパラパラとめくって各々感想を述べあっている。最初はスバルが町に降りてピアノを教えていたらしいけど、人が増えてからは近所の人は教会に来てもらう事にしたらしい。教室にはアンバーさん、キャンディさん、ヨランダさんの3人が通っている。


「レオンはバイエルから。この順番通りに指を動かせば弾きやすいから」


 そう言われたのはいいけど、バイエルとかいうのは音を上っては下りてを繰り返す単調な曲ばかりでつまらない。

 すらすら弾くスバルがうらやましくて始めたピアノなのに、このままじゃピアノなんてつまらないという印象で塗り替えられそうだ。


「懐かしいわねぇ私も小さな頃はバイエルを弾かされたわよ。もっといろんな曲が弾きたいって先生に駄々こねて怒られたものだわ」


 鮮やかな色のスカーフを巻いているアンジーさんが愛おしそうに自分の楽譜を抱きしめている。アンジーさんは上級者だから俺が100時間練習しても弾けない難しい曲に挑戦するらしい。スバルが手本を見せた時は簡単そうに弾いていたのに、見せてもらった楽譜は意味のわからない音符の羅列で目眩がしそうだった。


「そのうち弾いてて楽しい曲もあるわよ」

「ブルクミュラーまで行けば一気に曲になるわよ、楽しいわよ」

「やだ、俺今もっと楽しいのやりたい〜ディズニーとか」

「まともな音も出せないうちは、それはだめ」


 教室では1人30分のレッスンが終わったらみんなは勝手に1時間ほどお茶して帰っていくのが決まりだった。俺達はそれに参加したりしなかったりで、今日はスバルに仕事がない日だから参加してる。俺は仕事としてお茶を入れないといけないのがちょっとだるいけど、いつもよりちょっと豪華なお菓子が貰えることもあるのでこの時間が割と好きだ。あと偏見かもしれないけど、ピアノをやってる人はのんびりしてて絡みやすい。


「レオンくんもうここの生活は慣れた?」

「だいぶ慣れたよ。変なとこだけど別に地球だし、元々アメリカなんでしょ?ここ。あんま実感ないけど」


 蛍光ピンクの服を着たキャンディさんはよく俺を気遣ってくれる。名前と同じで派手な服装をよく着てるから100m先にいても認識できるので覚えやすい。ヨランダさんが焼いてきたジャガイモのキッシュをおやつに、多目的ルームで俺達は今後何の役にも立たない話をしていた。


「アメリカなんて国名、学生の時ぶりに聞いたわねぇ」


 江戸時代のことなんて俺は分かんないのと同じノリなのか、おばさん達は何故かゲラゲラ笑っている。


「ねえねえ、そんなことより200年前はどんな事が流行ってたの?」

「俺、最後の方は家に引きこもってたしよくわかんね。プレステとか?」

「お前プレステほんと好きだなぁ」


 クソ親父は俺を外に出さないことに罪悪感でもあったのか、家にゲーム機が一通り揃ってた。元々特別好きとかではなかったけど、遊び道具がそれしかなかったから他人と比べればやり込んでた方だと思う。


「私、子供の頃にマリオならやったわよ」

「そうなの?ポケモンは?」

「そんな古くさいゲーム誰もやってなかったわよ〜」


 70を超えてそうなおばさん達がゲームの話で盛り上がってるのは俺的に違和感しかないけど200年も経てばこんなもんなのかなぁとも思う。空になった俺の皿にキッシュが追加されたから、お礼を言ってから食べようとした。すると、ヨランダさんが取っておいたとっておきの話題と言わんばかりに瞳をキラキラさせながら、口紅の塗られた口を開いた。


「ところでスバル先生とアンちゃんはいつ結婚なさるのかしら!?」


 突然の話題にスバルがちょうど口をつけたコーヒーを吹き出して爆弾みたいな咳と飛沫を飛ばした。

 汚!と思ったと同時に「何ていい質問をするんだ!」と心の中で拍手を送る。だってスバルにこういうこと聞こうとしても睨まれるし、アンに聞いたらヘラヘラ笑うだけで結局何にも教えてくれない。

 そうだよ。なんで思いつかなかったんだろう。俺が不在の半年の話は噂好きのおばさん達に聞けばいいんだ。


「先生がここの世界にきてから半年でしょ〜?私たち今か今かと結婚のお知らせを待ってるのよ〜」

「アンちゃん絶対白のドレス似合うわねえ!すらっとしてるし」

「ま、ま、ゲホ!!おえ!待ってください!うえ!……だから!何度も、ゲホ!違うって言ってるじゃないですか!僕とアンさんはそんなんじゃ」

「でもこの前キスしてたよね!何回もちゅっちゅって!!」


 理想の会話へ誘導するため、俺はスバルに被せて速攻で大嘘をついた。


「はぁ!?このバカ!!」


 首まで顔を真っ赤にしたスバルがこっちを見てきたけど、おばさん達がいるから、レオンをいつもみたいにぶん殴るわけにはいかない、という葛藤を感じる。やってやった。後からどんなに怒られようと同居人2人のことを知るのは俺にとって価値がある。

 絶対今日はとことん聞き出してやる。俺の大嘘におばさん達はきらめきだって、予想通り突如湧いて出たスキャンダルに騒ぎはじめた。


「ままま!家の中ではそんなにお熱いのね……!」

「ちが、レオンが嘘をついてるんです!」

「アンバーさんったらレオンくんに見られて恥ずかしがってるんだからいじらないでさしあげてよ〜!」

「まぁー!うふふふ!」

「おほほほほ!」


 スバルが何を言おうが全く聞き入れるつもりがないみたいだ。俺の思惑通りだ、してやったり。

 いい気分になったからスバルに向けて思いっきり悪い顔で笑ってやった。


「アンちゃんったらかわいいのに、全然浮いた話を聞かないからおばさん達みんな心配してたのよ〜!」

「そぉよねぇー!かといってお節介でおじさんとお見合いさせるわけにいかないものねぇ〜!」


 ポップコーンがいっせいに跳ねるみたいに話が続く。がんばって話を遮ろうと努力を続けていたスバルだったけど、みんながあえて無視してることに気付いてからは無言で頭を抱えていた。女が集まると話は止まらないのは200年経っても変わらないみたいだ。


「アンちゃんがスバル先生を連れてきた時はみんな噂したのよ。あのシスターについに男ができたって」

「スバル先生も男前だから〜みんなで喜んだものよぉ」

「スバルってクリスマスに来たんでしょ!?その頃どうだった?」

「レオン、お前、調子に乗るなよ……」


 スバルの目が血走ってるけど今だけ咳のしすぎってことにしよ。


「あらいいじゃないスバル先生。レオンくんも知りたいに決まってるじゃないの。というか、これから一緒に住んでいくならある程度の経緯は伝えないといけないんじゃないの?」


 アンバーさんがおほほと上品に笑いながら諭していた。


「……ご存知じゃないですか。僕が来た頃の話ってポジティブな話題だけじゃないんですよ」

「そうだけれど、色々仕方がなかったじゃない」


 頭を抱えたままのスバルが疲れたように呟いたのをアンバーさんは励ましてた。何をそんなに落ち込む様なことがあるのか俺には分かんなくって、ついストレートに聞いてしまった。

 

「何かあったの?」

「スバル先生が来てすぐ、アンちゃんのお母様が亡くなったのよ」


 ――急に空気が、ずんと沈んだ気がした。踏んではいけない地雷を無神経に踏み抜いてしまったんだと分かり、黙ってスバルの方を見たけど不機嫌そうにしている。――……確実に踏み抜いて爆発したらしい。


「……はぁ。まぁそれは、そうかもしれない、ですけど」


 くたびれたようにため息をつくと、スバルは目頭を押さえそのまま流し目で俺を見る。無言でたまにうーんと声を漏らすと、また大きくため息をついた。そして覚悟を決めたように体ごと俺の方に向けて椅子に軽く座り直した。


「そりゃ、いつかはレオンに言わなきゃとは思っていましたよ。うーん、正直アンさんがいない時に教えるの気が引けるんですけど……まぁ、いい機会か」

「ごめん。俺、そんなん知らなかったから」


 アンの母親が亡くなったのはもっと前の話だと思ってた。スバルが来た去年のクリスマスに亡くなったんなら、アンの母親が亡くなってから夏の今日まで半年程度しか経ってない。

 俺もママを亡くしたから分かるけど、大切な人が死んだ心の傷が半年やそこらで癒されるはずがない。アンはいつも笑顔で太陽みたいな人だから、気にならなくなるくらいずっと前に亡くなったんだとばかり思い込んでいた。


「レオンには前、アンさんが元々お母さんと暮らしてたのは話しただろ?僕が年末にここに来て、居候させてもらってる間に亡くなったんだ、持病で。僕は最初の頃は過去に帰るつもりでアンさんとその方法をずっと探してたんけど、まぁ……色々あったんだよ。詳しくは言えない。繊細な話だから特にアンさんにはそれ以上踏み込むなよ。……色々あってアンさん凄く落ち込んでたから、過去とかそれどころじゃなくて、まぁ、つまり、ほっとけなかったんだよ」


 できれば秘密にしておきたかったという空気をひしひしと肌で感じた。その証拠に、虫食いにあったみたいに肝心な部分は空白なままだし、それ以上聞き出すことは拒否するという無言の圧をビンビンに感じる。


「――――その悲しみに暮れるアンちゃんを支えて、愛を育んだのがスバル先生なのよ」

「泣けるわぁ。純愛ね」

「――は!?嘘!?この流れでその話題続くんですか!?」


 スバルは信じられないと言いたげな顔で驚いていたけど、おばさん達は「だってお葬式も済ませたしね」とか「半年前の話だものね」とか「私たちは元々アンちゃん大好きだし」とあっけらかんとしている。この世界の人たちが人の死に対して意識が低いのか逆に高いのか俺にはよくわかんない。


「アンちゃん小さな頃から可愛かったのよぉ。みんなでお姫様ーって呼んでたんだから」

「え、アンの小さい頃見たい!写真ないの?」

「探せばおうちにアルバムがあるんじゃない?家族でよく写真を撮ってたはずよ」

「スバルアルバム持ってき――」

「楽しそうですね!!」


 音もなく俺の背後に張り付いたアンが俺の肩をバシン!と強く叩いたから、びっくりしてガラスが割れるような叫び声が出た。

 どうしてこの人はいつも気配を消して忍び寄ってくるんだ。俺は心臓をバクバクさせていたけど、アンは天使みたいににこにこしながら俺とスバルの間に無理矢理入り込むように座った。


「昔の話であんまりスバルをいじめないであげてください」


 アンはより一層微笑みながらスバルの二の腕に抱きついてさすさす摩っている。だけどスバルはアンと目も合わせず、萎れた花みたいに元気がなくなってしまっていた。


「こう見えてこの人結構ナイーブなんですよ。でもそこが可愛いでしょ?」


 そのまま項垂れているスバルを「ママのことならもう大丈夫なんだから、落ち込まないで」と優しい口調で励ましている。スバルはまだ落ち込んでいる様だったけど、憂鬱な雰囲気のまま「ごめんなさい」と小さく呟いてた。


「やだ、私たち調子に乗っちゃったかしら」

「い~え、大丈夫です」


 申し訳無さそうな顔のおばさんにアンは太陽みたいな微笑みを返していた。


「今はレオンくんもいますけど、元々男女2人で住んでたんですからそう思われるのは当たり前です。でも、そんな噂が立つのはお互い承知の上ですよ。大体ね?スバルはもうちょっと上手にかわせるようならなきゃだめよ?私より大人なんだからさ」

「でもそういわれたって」

「『でも、だって』はだーめ♡」


 アンがスバルの脇腹を軽く小突く。スバルが「やめてください」と言いながら押し返していた。


「それに私たち、ちゅっちゅなんてしてませんよ。ね〜?してないもんね〜スバル〜」


 俺のせいで空気が沈み切ってしまったから、家でよく見る光景に変わりつつあることに俺はちょっとホッとした。

 けど、結局イチャイチャしている様にしか見えない。脇をこちょこちょしてきゃっきゃする2人は、何もないと言い張るには近すぎる距離だ。怪しむ俺の顔に気付くとアンはすぐ「おみとおしだぞ」と言いたげににこっと笑顔になった。


「……ごめんなさいおばさん達。さっき俺が言ったのは嘘――」

「してたのはディープキスだもん……♡」


 アンを除いた全員の動きが、時間を止められたかのようにピタッと止まっていた。

 

 アンはにこにこしながら俺の太ももに手を置くと、そのままゆっくり爪を立てて膝へと滑らせた。半ズボンのせいで直で爪の軌跡を感じた俺は、電流が走ったかのようなゾワゾワに耐えれず飛び跳ねた太ももをテーブルの底にぶつけてしまう。

 だけど、コップや皿が派手にガチャンと飛び跳ねて水滴がテーブルに飛び散ろうが、アンはそんなのは全部見ないふりしてテーブルのみんなに聞こえる音量で、わざと、ねっとりとした声で囁いた。


「レオンくんは大人のキスしたことある……?」

「え?大人?え?は?」


 動揺する俺の顎を白い指が掴み、人差し指が俺の唇を奪う。

 肩を震わせてびびる俺を無視する桃色の声と青い瞳の奥は、大人の色っぽさで溢れていた。


「舌をね、お互いの口に入れて這わせ合うのよ。相手の唾液が甘く感じるまで唾を交換するの――こ〜やって」


 あったかいアンの舌がアイスを食べるかのように俺の耳をぺろっと舐めた。

 普段ほっぺたをこねくり回されてる時とは全く違う感覚が全身をおそって、頭と足の先からお尻の穴の毛穴までぞぞぞと一気にそびえ立った。体中が一瞬で熱くなって、首に汗が流れ始める。


「…………うわ!うわうわうわ!」


 足がないのに立ちあがろうとしたから、頭から転げ落ちた。心臓はバクバクしてて痛いし、体温が上がり続けて変な汗をかいている。


 経験だけはあるつもりだったけど、魅力的だと思ってる女からの過激なアプローチに無反応なんて無理だ。15歳の俺は自制心が効かない暴走車みたいに恥ずかしさで転げ回っていた。


 そんな俺をよそに、いつの間にかアンは腹をかかえて爆笑していて、スバルは足を組んだまま顔を隠して笑いを堪えていた。おばさん達は床で心臓を抑えて倒れた俺を見ておほほと上品に笑い合っている。


「なーんてね!嘘に決まってるでしょ!オオカミ少年め!ぜーんぶ聞こえてたわよ!私はあほたれレオンくんを懲らしめに来たんです!嘘ついてるのは聞こえてたけど奥で薬作ってたからすぐ来れなかったの!!」

「は!?へ!?ひあ!?」


 収まりきらない動揺とネタバラシに混乱する俺に、


「嘘なんてついたら地獄行きよ!罰として1週間トイレ掃除だからね!」


 という甲高い叱責が飛んだ。星が散らばる頬をぷんぷんと膨らませつつ、米袋みたいに俺を抱き上げて椅子に座り直させる。アンは軽く咳をすると、教会で説教をする時用の厳かな空気を体中から醸し出しながらおばさん達の顔を1人ずつじっくりと見回した。


「皆様お忘れかもしれませんが、私、神に操を捧げる身です。ですからスバルとの関係も否定させていただきます。私だってね、清らかなイメージ目指して頑張ってるんですから変な噂は勘弁してくださいね。ちなみにさっきのキスの話は小説から引用したセリフです」

「この前読んでたエロ小説ですか」

「ロマンス小説って言ってちょうだい」


 小声で呟いたスバルに早口で被せていた。


「――みんな2人はお似合いだと思ってるんだけど~」


 キャンディさんが残念そうにつぶやいた。


「もちろん1番の仲良しですもの!スバルは私のビジネスパートナーとしてこれ以上ない人ですし、美しき男女の友情ってやつですよ」

「残念だわぁ。でももしもの時には結婚式呼んでちょうだいね」

「その時は真っ先にお呼びしますよ、スバルの生徒さんですもの。皆さんでピアノ弾いてくださいね」


 アンはスバルの肩を叩きながら陽気に笑っている。そんな2人を見て尚更おばさん達は残念がっていた。


 みんな帰ったあと、俺とアンはリビングのソファに座っていた。スバルはすぐに夕食の準備に取り掛かかったのでずっと台所に立っている。


「…………あぁ言ってたけど、ほんとは付き合ってるんじゃないの?」


 台所のスバルに聞こえないように話しかけた。アンは乾燥したタバコの葉っぱを紙で包んで巻き煙草を量産しているところだった。


「どうしたのレオンくん。まだ信じてくれてないの?」

「誤魔化しただけかなってちょっと思ってる。ね、ほんとのこと教えて?おばさん達には言わないから」

「だから付き合ってないわよ〜。大体ね、スバルったらさぁ元の世界に結婚前提の彼女いたんだから」

「えっ」

「過去の女なんてさっさと忘れたらいいのにねぇー……」


 アンにしてはちょっと素っ気ない態度だ。ツンとした態度をとったと同じタイミングで、「ちょっとちょっと」と言い訳しながら、スバルが木ベラを片手に俺たちの方へと飛んでくる。


「アンさん何レオンに暴露してるんですか!こっちに聞こえてますよ!」

「別にいーじゃない。もう忘れるって言ってたし。その人のことがまだ好きなのよ〜このお兄さんは」


 アンは気にせずに乾いたタバコの葉を匙ですくい薄い紙に載せていく。なのに慌てふためくスバルの風圧のせいで葉っぱがいくつか飛び散った。


「……彼女がいるのにアンと住んでるってこと?」

「そう」

「うわ!そうなんだ!最低!!浮気男!!!」


 アンの態度を見ればそれがどういうことか理解するのなんて簡単だった。

 ラブコメで見るやつだ!

 男が過去の女を忘れられなくて言い寄ってくれる女の子とは付き合わないくせに、でもちゃっかりキープはするから、見てるだけの読者がもやもやするやつだ!


「し、仕方ないでしょ!?僕、突然2022年から飛ばされて来たんですよ!?大体、人の気持ちなんて簡単に整理も優劣も付けらんないんですよ!!まともな恋愛したことない奴らに何も言われる筋合いないですから!」

「それでもさいてー!スバルなんてやめなよアン!」

「あはは、ごめんごめん。そういうわけじゃないのよー。私とスバルはいい友達。それは本当。ただ、いつまでもウジウジしてるのは、見てられないわよねーって話」


 アンはけらけら笑いながら巻き終えた煙草を保存用の箱に移し替え、机に散った細かい葉を手でかき集めてゴミ箱に捨てた。


「あ、そういえばアルバムだっけ。晩御飯の後に見せてあげる。私ね、パパとママ大好きなの!お話いっぱいしてあげる!」


 そう言いながら手のひらの埃を叩うアンは顔だけ見ればいつものアンだったけど、ちょっと寂しそうに見えた。


 騒ぐスバルを無視して手際よく片付けを進めているけど、アンが寂しい気持ちを抱えてるなら俺はそんなん嫌だと思った。アンは嫌なことから俺を救ってくれた人だから、いつも笑っててほしいし、毎日幸せでいてほしいと思ってる。


 急にスバルのピアノを聴きながら幸せそうな顔をするアンの顔が浮かんだ。そう。理想を言うなら、俺はアンにいつもあぁいう顔をしててほしい。

 俺はピアノ弾けないけど、贅沢言うならピアノ以外であの顔にさせられる男になりたい。


「じゃあ、アンがいつか結婚したいのに相手がいないってなったら俺が結婚してあげる」

「え?」


 俺の突然の言葉にエプロンで汚れた手を拭くのを止めて、アンが大きな目をさらに丸くしていた。


「俺、サトウさんに義足作ってもらったら身長180にしてもらうし、ちゃんと歩ける様になったら仕事も手伝うし、っていうか俺がアンのこと養えるくらい働くし、アンのこと他にも助けてあげるし、――あと、えっと、」

「あげるし?」

「お、も、してあげるから」


 自分で言い出したことなのに最後は恥ずかしさが勝っていっぱいいっぱいになっていた。

 それでも俯きながら伝えたら、アンはぷっと吹き出してあははと明るく笑った。

 

「ほんと?うれしい!えへへ、聞いてた?スバル。私プロポーズされちゃった〜」


 でもそれは俺をばかにした笑い方じゃなくて、大人のお姉さんがにプロポーズされたとき、思わずこぼれ落ちる『愛おしい』という意味を含んだ笑みと同じだと思った。

 現状だとは俺だ。悲しい事にアンからすればきっと俺は『可愛い弟みたいな存在』ってだけ。少しも本気で捉えてくれてない。


 アンの顔を見てればそれくらいわかる。


 俺は年下だし、アンより背が低いし、お金を稼ぐ術もない。特技の演技と朗読なんてこの世界じゃ披露する機会もないし何にも役立たない。

 そりゃ、顔はスバルより100倍以上良い自信があるけど、顔の良し悪しは恋愛においては案外戦力にならない。アンからすれば7つも下の男なんて異性として論外でしかないはずだ。


 だけど別に俺は弱気になんて少しもなってない。今の俺のままじゃ無理ってだけだ。

 その程度の障害ならこれから徐々に逆転させてやればいいだけのこと。


「だからっ!そん時は、スバルなんて振ってやんなよ。アンは、か、かわいーんだから」

「ふふ、ありがと〜!レオンくんも男前だよ〜!」


 アンは俺をぎゅーっと抱きしめながら俺のつむじにキスをすると、ご機嫌に鼻歌を奏でながら煙草セットを持って階段を駆け上がっていった。

 こっちを恐ろしい顔で見てるスバルにマウントを取るためにニィッと意地悪な顔してやる。すると、ズンズン近づいてきて無言で俺の手首を掴みあげてきた。


「は!?何すんだよ!」


 振り解こうとする手を無理やり掴んだままスバルは俺の指輪を外し、回らない舌を必死に動かしながらある言葉をつぶやいた。俺はそれに対して『はぁ?』と思わず言い返したけど、もう一度言い聞かす様に言い直されたから、威圧感に負けてつい黙った。スバルの顔が真剣そのものだったし、顔が首まで真っ赤で倒れそうな顔をしていたからだ。

 

 そのタイミングで階段を降りてきたアンは俺とスバルの妙な空気にすぐに気がついて、不思議そうな顔をしながら部屋に入ってくる。


「何?翻訳リング外しちゃって私に内緒話?ずるいわ私も混ぜてよ」

「下ネタ話してただけです」

「えっ!尚更混ぜてよ」

「IQが5くらいしかなかったからだめ!」


 スバルは俺の指輪を俺の手元に投げ、自分の指輪だけはめなおして返事をすると「ご飯の味見してください」とアンを台所へ連れ去った。「何々?」とアンは不思議そうだったけどスバルは一度もこっちを振り返ることもなく、俺はそのまま蚊帳の外にされた。


 ――指輪を外すと世界共通語話者のアンは俺ら日本人の会話を聞き取れない。だからあいつ、なんて言い返すか分からない爆弾みたいな存在の俺の指輪を無理やり外したんだ。


 そこまでして俺に言わずにいられなかったのか?

 リビングに置いて行かれた俺はしばらく何もできないままスバルの言葉を頭の中で反復する。


「……あ゙!?牽制かよ」


 台所の騒がしさとは対照的に、がらんとしたリビングでイラつきながら俺は呟いた。

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