第11話
「私、辞めます」
予想以上に大きな声が出た。
「な……」
ドール嬢が息を飲む。
しんと室内が静寂に包まれた。
ゾルタンが怒りで眉を上げ、大きく口を開いた。
「……まだ自分の立場がわからないのか? おまえのような婚約破棄された女は、他の商会に就職できない。ここを逃したらおまえは生きていけないのだぞ?」
ゾルタンが語気を荒くする。
言うぞ。言わなければ。
一歩前へ踏み出せ、オードリー。
あのご令嬢のように。
「私は自分の力で生きていきます。だから……赤の他人であるあなたにとやかく言われる筋合いはありません」
どうにかつっかえずに言えた。
胸のもやが晴れていくような気分だ。
「……貴様……」
ゾルタンが眉間にしわを寄せた。
気にせずバッグから契約書を取り出し、私は両手で握った。
『オードリー、やっちゃえ』
クリスタの言葉に小さくうなずき、契約書を半分に割いた。
紙の破れる音が室内に響く。
「私、辞めますので」
半分に割いた契約書をデスクに置き、バッグからメモ用紙を取り出して、呆けた顔をしているドール嬢に突き出した。
「これ、業務の引き継ぎです。月次報告書は二段目の棚に入っています。シフト表の作り方も書いておきました。参考にしてください」
強引にドール嬢へメモ用紙を握らせる。
「それから、二万五千ルギィです」
ポケットに入れておいたお金をゾルタンへ差し出した。
彼は冷たい視線で紙幣と金貨を見下ろす。
「なんだこれは」
「婚約破棄の事務手数料は折半とのことでしたので、渡しておきます」
「給料から天引きのはずだが?」
「辞めるのに天引き? 意味がわかりませんよ」
これ以上、この場にいたくない。
お金を押し付けると、ゾルタンは緩慢な動きで受け取った。
「陰気女……あんたねぇ……」
ドール嬢が顔を真っ赤にしてこちらを指さした。
「婚約破棄された魔力ナシを雇う商会があると思って!? 本当に頭が悪いわね! 今なら許してあげるわ! とっとと契約書にサインなさい!」
ドール嬢の金切り声が室内に響く。
ここでしっかり証明しておかないと、家に乗り込んできそうだ。
「こちらをご覧ください」
ポケットからDランク鑑定士のシルバーバッヂを出し、さっと胸につけた。
「昨日、試験に合格しました」
「なっ……どういう……」
「幸運なことに魔力を手に入れたんです」
「シルバーバッヂ?! 昨日まで魔力ナシだったのにおかしいじゃない!」
「ありがたいことに飛び級しました」
「嘘よ! あんたが飛び級なんて嘘よ! この私だってEからDに上がるまで一年かかったのよ!? どんな手を使ったのか教えなさい!」
ドール嬢が今にも飛びかかってきそうな勢いで顔を寄せてきたので、素早く自分のデスクに置いてあった私物のペンを取り、ドアへと移動した。
彼女を無視して、ゾルタンを見つめた。
そういえば、面と向かって目を合わせるのは今日が初めてかもしれなかった。
「そういうことなので、よろしくお願いします」
私が言うと、ゾルタンは腕を組んで思案顔を作り、一つうなずいた。
「Dランク鑑定士になったのなら話は別だ。ちょうど
「だから、辞めるんです。何度言ったらわかるんですか?」
「おまえのためになる提案だ」
本気でそう思っているのか、それとも私から搾取するつもりなのか、ゾルタンが悪びれもせずに言う。
「私のためでなく、あなたの利益のためですよね?」
「俺が利益を求めて何が悪い」
ダメだこの人……会話にならない。
本当に何を考えているのかわからないよ。もう帰ろう。それがいい。
「私たちは赤の他人です。これからはお互いの人生を歩みましょう」
できる限り、余裕の笑みを浮かべる。
「おまえはうちで働く――」
「それでは皆様、ごきげんよう」
ゾルタンの言葉を遮り、あの小説のご令嬢のように、優雅に一礼した。
「陰気女ッ! 調子に乗るんじゃないわよ!」
ドール嬢が今日一番の大きな声を出した。
「ドール嬢も、ごきげんよう」
彼女にも一礼し、振り返らず、さっさと退室する。
うまくカーテシーできただろうか。
階段を下りると、事務所からドール嬢のヒステリックな叫び声が聞こえた気がしたが、もうどうでもいいことだ。
何年も使った階段を下りきり、事務所から足早に離れる。
「……緊張した……」
大きく息を吐いたら身体の力が抜けた。
はしたないと思いつつも、壁に寄りかかってその場にへたりこむ。
疲れたよ……。
でも、すっきりした気分だ。あとでモリィに報告しないとな。
『カッコよかったよ、オードリー』
クリスタがにこりと笑い、嬉しそうに小首をかしげた。
『今の心境は?』
彼に聞かれ、私は分厚い眼鏡を取った。
『私は私のお気に召すまま』
やっと自由になれた気がした。
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