第6話


 翌日、人生で初めて仕事をサボった。


 サボり。そう、サボりだ。

 私にとって重大事案なので二回言ってみた。


 出勤時間が近づくにつれて胸がドキドキしたけど、過ぎてみればなんてことはない。


 向かいのパン屋さんでベイクドチーズドーナツと五種サラダのガレット巻きを買い、たっぷり時間を使ってアトリエで朝食を取ると、ああ、今まで何かに追い立てられるようにして出勤していたのはいったい何だったんだろうかと思えてくる。


『どーなつ、おいしいねぇ!』


 クリスタが透明な羽を揺らし、もりもりと食べている。


 小さなほっぺたがドーナツで丸くなっているのが可愛い。

 目玉をほしがる精霊には見えないんだよなぁ……。


 朝食を済ませて外に出る。


 屋根を見上げれば、水晶屋根に小さな虹ができていた。

 裸眼で見る世界はとても美しかった。


『いい家だね』


 肩に座っているクリスタが目をぱちぱちと開閉した。

 聞けば、クリスタは私以外には見えず、声も聞こえないらしい。


『私もそう思うよ』


 通行人に変な目で見られないように小声で返しておく。

 古代語で独り言をしゃべっている女とか、変人扱いされかねない。


 ゆっくりと、大通りを進む。


 ラピス王国は犯罪率も低く、王都は観光地としても有名だ。


 王都の街並みは、歴史的な観点と美術的な観点から見て大変に価値のあるもので、整然と区画整理されたレンガ敷きの並木道と、要所に施された石像などの美術品が、街に気品を与えている。また、舗装された道は馬車の揺れが少なく、他国の使者が羨むらしい。


 十分ほど歩いて商店街に入った。


『みんな忙しそうだね』


 クリスタが賑わう店を指さした。

 商人が大声で呼び込みをし、それに反応した主婦らしき女性が集まっている。


『買い物をしてるんだよ』

『へえ、前の契約者は海の街だったからなぁ。ここはここで面白いね』


 ふわふわと宙を飛び、クリスタがにこりと笑う。


 昨日は色々と質問攻めにしたけど、前の契約者のことについては聞いても教えてくれなかった。わかったのはクリスタが水晶精霊ということぐらいだ。


 すれ違う人も多くなってきたので、笑顔でうなずくだけにし、目的地のメルゲン書店に向かった。


『眠いからポケットで寝てるよ〜』


 クリスタが大きなあくびをして、ワンピースのポケットにもぐり込んだ。


 不思議なことに、服の上から触っても何も感じない。

 手のひらでそっと押すとポケットが潰れた。


 中にはいるけど、物質の干渉を受けない……ということ?


 原理が知りたいところだ。


 気を取り直して、書店の大きな扉に手をかける。


 メルゲン書店はカフェテリアが併設されためずらしい本屋で、観葉植物が所狭しと置かれている。元造園業の店員によって改造されてから、王都で一躍大人気の店となった。


 カラン、と入店を知らせる鈴が鳴る。

 私は本屋の奥にある従業員口へと向かった。


 店員の女性がこちらを見て、一礼した。


「あ、オードリーさん。モリィさんなら店長室にいますよ」

「ありがとうございます」


 礼を言って、従業員口から通路を通り、店長室のドアをノックした。


 親友であり、小説の趣味友であるモリィとはもう十年来の付き合いだ。


「はーい、どうぞ」


 明るい声が響いた。

 仕事をサボったと伝えたら、モリィはなんて言うだろうか。


「失礼いたします」


 驚く彼女が見たくて、従業員っぽく返事をし、入室した。


 暖色でまとめられた室内の執務机にモリィが座り、書類を読んでいた。


 黒髪にショートカット、耳につけた黄玉トパーズのピアスがよく似合っている。年齢は二十二歳。モリィはその魅力からか、男女問わず人気者だった。


「今、手が離せないの。少し待ってね」

「かしこまりました。お待ちしております」


 神妙な調子で返すと、私の声に気づいたモリィが顔を上げた。


「え、オードリー? やだ、ちょっと、言ってよ」


 モリィの大きな瞳がくしゃりと横に広がる。


「驚かせたくて」

「こんな時間に来るなんてめずらしい。あれ、眼鏡は?」


 モリィが素早く立ち上がって、私の顔を観察してくる。


「実は色々あってね。何から話せばいいのかわからないんだけど……少し時間もらえる?」

「それはいいけど……仕事は平気?」

「サボったよ」

「えっ?!」


 モリィが空から魔宝石が降ってきたと言わんばかりに驚き、一歩引いた。


「何度辞めろと言っても出勤し続けた頑固者が! サボり?!」

「私ってそんなに頑固者かな?」

「頑固者なのはお父さんさん譲りでしょ」

「……親友に向かってひどくない?」

「オードリーだって遠慮なく言ってくるじゃない。お互い様よ」

「まあ、そういうことにしておこうか」


 私たちは見つめ合い、笑顔を交換した。


「では親友の記念すべき初サボりに、とっておきのコーヒーを奢ってあげる。テラスに行きましょ」


 モリィに連れられてカフェテリアへ移動した。


 午前九時半ということもあり、店内は空いている。


 席について奥を見ると、ガラスの向こうに書店が広がっていた。

 本とカフェ……なんて最高な組み合わせだろうか。


 モリィがウエイターに注文をすると、十分ほどでコーヒーが出てきた。


「ラピスマウンテン。オードリーが飲みたがっていたものよ」

「これが……」


 カップに顔を近づける。

 なんともいえない芳醇な香り。ため息が漏れる。


 ラピスマウンテンはラピス王国で一番標高の高い山で栽培されている、めずらしいコーヒー豆だ。高級品なんだよね。カフェで注文すると、一杯二千ルギィくらいする。


「お代は気にしなくていいよ。この間、古書の整理を手伝ってもらったから」


 モリィが白い歯を見せてウインクしてくる。


「そういうことなら、ありがたく」


 カップを手に取り、ラピスマウンテンを一口飲んでみる。


 独特な香味が口に広がった。苦味は少なく、フルーティーな香りがする。五秒ほどすると、味わいが変化し、喉を通過したあとも、しばらく余韻が残った。


「はああぁぁ〜〜〜っ……サボって飲むコーヒー……至高だ……」


 あまりの幸福感に、鼻から長い息が漏れた。


「やだ、笑わせないで」


 モリィがラピスマウンテンをこぼしそうになり、ハンカチで口元を拭いた。


「それで? 何があったのか聞かせてくれる?」


 大きな瞳を輝かせ、モリィがこちらを見てきた。


 静かにうなずき、昨日の出来事を詳細に説明することにした。



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