第2話
深夜の王都を歩く。
街灯が濃い影を作り、使い古した革靴の靴底がレンガ畳の道路にこすれた。
あの後、
残業六時間。残業代なし。
ブラックすぎる。
「はぁ……」
疲労のせいか妙に熱い息が漏れる。
とぼとぼ歩いていると、婚約者であるゾルタンの酷薄な瞳が脳裏に浮かんできた。
あの人、何を考えているんだろうか?
私は十六歳で婚約してから五年間、商会のお手伝いと称してゾルタンにこき使われている。
十八歳なったら結婚すると彼は言っていたけど、父さんが体調を崩してからというもの、のらりくらりと結婚を延期し、現在にまで至っている。父さんが死んでからは露骨に私を避けるようになった。
よく考えれば、婚約者だからといって、月給十万ルギィで私を雇っているのはおかしい。
たった十万だよ?
十万ルギィは、見習いの事務員がもらう金額とほぼ同額だ。
それもこれも、私が原因な気がする。
婚約してすぐの頃、十六歳だった私は、それはもう張り切って働いた。
残業も嫌な顔をしないようにしたし、他の社員の方の仕事も率先してやるようにした。
別にゾルタンのことは好きではなかったけど、父さんの安心した顔が嬉しかった。
きっと、それが裏目に出た。
私が仕事をやりすぎたせいか、日に日に仕事量が増えていった。
あれが間違いの始まりだ。
便利な道具として仕事を押し付けられていると気づいたときにはもう遅かった。
ゾルタンに一度相談したけど、「結婚するまではしっかり働け」と言われてしまい、なんとなく流されるがまま、五年もの歳月が過ぎてしまった。
前からそうだ。
自分のやりたいことを口に出すのが苦手だった。
父さんの仕事が忙しかってせいもあって、我慢に慣れてしまったのかもしれない。
魔力ナシと判明してからは、自分の意見を言うことがもっとできなくなった。
こうやって頭の中でぐるぐると考えることだけが得意になった。
あまり考えすぎるなと友人のモリィには言われるけど、どうしてもあれこれと考えてしまう。
気持ちを切り替えるべく、一度大きく息を吐いた。
「一万ルギィは貯めておいて……生活費と……今月分の家の固定資産税を役所に払って……残りは五千ルギィ……。コーヒー豆を買ったら新作の小説は我慢するしかないか……あっ、魔道ランプの魔力が切れかかってるから、
脳内で収支を計算する。
手取り十万ルギィじゃ、生活するだけで手一杯だ。
父さんは私のために高価な魔宝石と、アトリエと、少なくない金額のお金を残してくれたけど、それもこれも、私が鑑定士になったときのためと、貯めてくれていたものだ。未練がましく、貯金に手を出せないでいる。
あれに手を出したら、もう、私が私でなくなってしまうような気がした。
「馬車が通るよ!」
十字路からガラガラと音が響いてきた。
足を止めて顔を上げると、大量のカンテラを付けた馬車隊が通過するところだった。
商魂たくましい商人が王都から出て、どこかへ荷を売りに行くらしい。深夜にもかかわらず、楽しげな会話が聞こえてきて、別世界の出来事に見えた。
「お嬢さん、早く家にお帰りなさいな! 王都の夜は安全だけど用心に越したことはないよ!」
お調子者らしい御者が声をかけてくれたので、軽く頭を下げておく。
馬車が通過するのを待ち、足を前へ出す速度を上げた。
◯
王都大通りの終着点にある家に帰ってきた。
父さんが友人の建築家に頼んだ屋根のタイルに
最新のオシャレな家も、深夜だと闇に同化しているみたいで、屋根の水晶たちも心なしか悲しげに見えた。
家に入ると鉱物と木材の混ざった香りがして、安堵のため息が漏れた。
どっと疲労が押し寄せてくる。
このまま玄関で寝たい。
ぐっとこらえてシャワーを浴び、寝間着に着替えた。
「……何か食べないと……」
コーヒーを淹れ、キッチンにあった朝食の残りを手に取った。
クロワッサンは乾いてもそもそした食感だ。
サラダも水気がなくて新鮮じゃない。
「今の私を見たら、父さんは何て言うかな」
無気力な私に失望する? 早く結婚しろって言う?
もう一度会えるなら話をしたい。
間違いなく、父さんはゾルタンと私の婚約を、心から喜んでくれていた。
父さんの友人であったカーパシー男爵の息子がゾルタンだった、というのが婚約の経緯だ。
友人の息子を紹介する。
どこにでもある話――。
父さんの友人であるカーパシー男爵はお金で地位を買った成金男爵なんて言われているけど、父さんは信頼していたように思う。カーパシー男爵が別大陸の魔宝石採掘に行ったきり、行方不明なのが残念でならない。
結局のところ、父さんが死に、カーパシー男爵はおらず、親戚は王都から遥か遠くの町に住んでいるため、頼る相手は誰もいない。
もしだけど、ゾルタンと結婚すれば、状況が多少は改善されるだろうか?
「あの人と結婚とか考えたくない……」
想像したら身震いがしてきた。
気を取り直すため、カップに手を伸ばしてコーヒーを口に運んだ。
鼻孔をくすぐる心地よい香りに、荒んだ心がちょっぴり癒やされた。
サイドテーブルに置きっぱなしになっていた小説を手に取って、ぱらぱらとページをめくってみる。
古い本と、インクの匂いがした。
小説はつらい現実を忘れさせてくれる。
お気に入りの小説ならなおさらだ。
本のタイトルは『ご令嬢のお気に召すまま』。
一人の令嬢が騎士になるため家を飛び出して好きに生きていく物語で、快活な主人公が七転八倒しながら剣を極め、人を助け、旅をする冒険活劇だ。「女は騎士にはなれない」と言われて何度もくじけそうになるけど、不屈の精神と底抜けの明るさで、彼女は数年がかりで
私は第二章で指を止めた。
コーヒーを飲んで小説を読むこの時間だけが、私にとって至福のひとときだった。
「私、オードリー・エヴァンスは好きなように生きていく」
好きなシーンを自分に置き換えた。
口の端が上がる。
「私の進む道は私自身が決めるのだ」
声をちょっと大きくしてみる。
「誰にも邪魔はさせない」
ポーズをつけて、ご令嬢になりきってみた。
ついでに、相手の男性役も演じることにした。
「オードリー・エヴァンス嬢……貴女は強い女性だ……。望むのであれば、好きにすればよい。困難な道であろうとも、私は貴女の成功を心から願っている」
ひとしきり演じてコーヒーを飲み、小説を閉じた。
「ご令嬢みたいに生きられたら、どれだけ気分がいいんだろうね」
主人公がもし私なら、本のタイトルは『ご令嬢のお気に召すまま』ではなく、『没落令嬢はお気に召さないまま』とかだろう。
父さんが準男爵の称号を持っていたので、ギリギリ私も令嬢と言えなくもない。準男爵と言っても、爵位を引き継いでいないからいずれ庶民になってしまうけれど。
小説を閉じ、寝る前の日課をこなすことにする。
父さんから教えられた魔力操作を高める瞑想だ。
ソファから立ち上がり、目を閉じ、両手を広げる。
魔力ナシの私がやって意味があるのかと言われたら、ほとんどの人が「無意味だ」と言うだろう。
それでも、鑑定士になるための訓練は、私を現実世界へつなぎとめてくれる気がした。
◯
翌朝、出勤すると、ゾルタンが待ち構えていた。
引きずられるようにして会長室に連れていかれる。
「おまえとの婚約を破棄する」
「……はい?」
彼の手から婚約破棄届の用紙がひらりと落ちる。
「さっさとサインをしろ」
「……」
突然のことに、呆然と彼の顔を見つめることしかできなかった。
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