第20話 仄かに光る菜の花畑 - Ⅲ -

 その朝、上靴には何も異常はなく、下駄箱への悪戯もない、机もいつもどおりの場所にある、平和な朝だと思った。

 机の上に、花瓶に生けられた花がなければ。

 梅雨に入る手前の季節に、この年最後であろう菜の花が生けられていたのだ。

 私の机に、菜の花が。

 

 当てつけだと、すぐにわかった。

「……ねえ、誰かな? 私の机にお花生けてくれたの」

 私はにっこり微笑んで言った。誰もが静まり返る中、ずいずいと一人の女子生徒が出てきて言った。

「あらぁ? なのは先輩の妹さんじゃないですか。お亡くなりになられたのでは?」

「……ああ、そういうこと」

 やったのはこの女子生徒だということは明白だったが、私はどうでもよかった。

 笑いが込み上げてくる。暗い笑いだ。なのちゃんはもういないのに、馬鹿みたい、と思う。

「いなくなったのは、なのちゃんの方だけど」

「……調子乗ってんじゃないわよ」

 そういえばこの人、私の前の学年一位で、卓球部の人だったっけ。

 卓球できなくても、教え上手だったなのちゃんは、後輩たちから人気だと橘先輩が言っていた気がする。

「生意気なのよ、あんた。聞いたわよ? 自殺未遂したせいで取り柄の運動ができなくなったんですって? ざまぁみなさい。でも? 今度は勉強ができるようになりました? ふざけるんじゃないわよ!! 勉強ができるのはなのは先輩でしょう!? なのは先輩がいなくなったからって、成り代わろうとしてんじゃないわ!!」

 成り、代わる……?

 ……

 …………

 ………………

 ああ、この人にはそう見えていたんだ。

 ………………

 …………

 ……

 いいかもしれない。

 というか、今までどうしておもいつかなかったのか不思議なくらい、それは名案に思えた。

 確認でもなんでもなく、私は呟きをこぼす。

「……そう。あなたは要するに、私じゃなくて、なのちゃんが生きていればよかったんだと。そう言いたいのね?」

 それなら──躊躇いは、なかった。

 かしゃーん!

 透明な音を立てて、花瓶が割れる。私は水と黄色い花弁を被りながら、自分のこめかみに花瓶をぶつけて割った。

 つぅっ、と何かが伝う。目が焼けるように痛い。それでもかまわず続けた。

「あなたもやったら?」

 割れた花瓶の欠片を差し出す。その子はひっ、と悲鳴を上げて後退りする。なんて情けない。

「どうしたの? 私はいらないんでしょ? 必要なのはなのちゃんなんでしょ? 大丈夫。私、知ってるから。みんな、私よりなのちゃんが好きなことくらい。だから、怒ったりしないよ? 復讐もしないし。だから安心して、やりなよ?」

 ほら、と花瓶の欠片を出し、催促する。欠片には、赤黒い汚いものが付着していた。……そうだよ。私の中身は、こんなに汚いものなの。

 だからこの膿を出しきって、浄化しないと、私はなのちゃんにはなれないの。

 ねえ、みんな手伝ってよ。おんなになのちゃんなのちゃんなのちゃんなのちゃん言っていたのに。何? 口ばっかりってわけ?

 私が責め立てようと呼気を吸いかけたところで、がらがらと教室の扉が開く。

「おい、何をやって……!」

 入ってきた先生はその場で硬直してしまう。なんだ、止めないのか。

 それなら、私は、とにっこり微笑む。

「先生もやります? ほのか殺し」

 笑顔で言う私に先生は震えるばかり。

 ああ、なんで私ばかり、欠陥品みたいに。

「あはは、はは、はは、ははははは……」

 ともすれば楽しげにすら聞こえる笑い声を上げて、私は自分の顔をめった刺しにした。


 顔はもうぼろぼろだった。見る影もない。

 女の子である私を哀れんだ両親は顔を治すために有り金はたいて治療費を出してくれた。

 そんな二人には悪いけれど、[私]はもう消えてなくなった。戻るつもりはない。だから──


「ほのか、顔の手術は成功したって……っ!?」

 私の顔を見たお母さんが声にならない悲鳴を上げる。

「お母さん、綺麗になったでしょ?」

 私は今までで一番無邪気に笑えていたと思う。……それが尚更、怖かったのだろう。お母さんは何も言わずに姿を消した。

 私の顔は、なのちゃんのそれになっていた。

 これで、[私]は死んだよ。[なのちゃん]が生きているんだ。

 そうだよね? お母さん。

 私は短くしていた髪を伸ばし、なのちゃんのように結い上げた。

 そして彼女が愛用していたリストバンドを着ける。

 鏡を見る。……よし。


 でも、先輩たち、私だって気づいてくれるかなぁ……


 案の定、高校で再会した先輩たちは、私をなのちゃんと勘違いした。

 二人とも、なのちゃんのことから立ち直って、普通に高校生活を送っているようだ。

 ただ、あの頃と違うのは、柊先輩が卓球部ではないこと。

 卓球をして、きらきら輝いているあの先輩の姿が見られないのは何か寂しい気がした。私はあの瞬間の先輩に憧れたのに。

 理由を訊くと、先輩はこう答えた。

「……桜のこと、思い出すから。……どうしても、辛くなる」

 そっか、なのちゃんのせいなんだ。

 なのちゃんだって、先輩のあの姿が好きだったのに。死んでも、その姿だけは失わないでほしいって、手紙にまで書いたのに。

 なのちゃん、馬鹿だね。

 馬鹿ななのちゃんのせいで、先輩が不幸せだよ。

 だから、私は言った。

「忘れちゃえばいいじゃないですか」

 先輩の肩がびくんと跳ねた。

「なのちゃんは、確かに悲しい死に方をしました。でも、死んでしまったんです。死人にくちなし。もう生き返ったりしないんです。だから忘れても責めたりしませんよ?」

「な……」

「なのちゃんのために、すごい才能を埋もれさせるのはすごく勿体ないと思います」

 呆然とする柊先輩を見ながら私は思った。

 私って変。

 [なのちゃん]を残すためになのちゃんの顔になったのに、[なのちゃん]が生きることを一番疎んでいる。

 うん、知ってるよ。私はなのちゃん以上の馬鹿だ。

 先輩が傷つくのだってわかりながらやっているんだ。

 でも、傷つけることができた。それが、こんなにも嬉しい。

 なのちゃん以上の傷を、先輩に残せたら……


 けれど、傷ついたのは私だった。

 風邪で休んだ先輩の家に行くと、知らない女の人がいた。若いし、柊先輩のお母さんは亡くなっていると聞いているから……誰?

 相模叶多、と柊先輩が紹介してくれた。

 恋人ではないらしい。思わずほっと溜め息が出た。

 安心したところで、一枚の写真立てが目に止まる。──葡萄の柄が刻まれた写真立ての中には、斜めに撮られた二人の姿。柊先輩と……私。

「こんな写真が、まだあったんですね」

 私は手に取り、わざと落とした。

「あ、ごめんなさい。手が滑っちゃって……」

 よく言う。拾った写真立ては、上手く割れていた。私の顔の部分に見事なまでの亀裂が入っている。

「気にしないで。後で別なのに移すから」

「いえ、このままにしておいてください」

 気を遣って言ったのであろう先輩の一言に、私は間髪入れずに返した。

「……昔の自分、嫌い?」

 わかりきったことだろうに。先輩はわざわざ聞いてくる。……意地悪だ。

「大嫌いです!!」

 みんなが嫌いなんだ。私を。なのちゃんの方がいいって、みんなが言うんだもの。だから、私は私が嫌い。私じゃなかったら、こんな思いはしなかったのに。

「ほのかちゃん……」

 先輩、違う……

「そうよ! 私はほのか!! [桜なのはの妹]なんて名前じゃないわ!!」

 違うよ。あなたは私をあなただけは私を名前で呼んでくれた。

「どうしてあんな何もできない子の付属物みたいな扱いを受けなきゃならないんです!? 私は!!」

 ほのかって、呼んでよ。あの頃みたいに。呼び捨ててよ! あの頃みたいに!!

「では訊くが……桜 なのはは[桜ほのかの姉]ではなかったのか?」

 相模さんの一言で、私は頭が冷えた。

 ……そう、だったの、かな……

 考えたこともなかった。

 もしかしたら、私の知らない陰で、なのちゃんは「あのスポーツ万能な桜ほのかのお姉さんなのに」とか言われていたりしたのだろうか。

 そんな、そんなことが、あってたまるか。なのちゃんも苦しんでいたなんて。なのちゃんのことを誰も彼もが大好きな世界で、なのちゃんの苦しみや悲しみにだけは我が事のように同情する。ただそれだけの人々が、なのちゃんを私の付属物扱いなんてする?

 あり得ない、と私はその可能性を一笑に伏し、続ける。

「……柊先輩、知ってましたか? なのちゃんが先輩のこと、好きだってこと……」

 だってあの子は、あの子はいつも、

「悠斗から聞いたよ」

 幸せそうだったんだもの。

「知ってて、振ったんですか?」

 能天気に笑って、私がどれだけ苦しいかなんて微塵も知らない顔で。

「いいや。僕がそれを聞いたのは、桜が死んだ後だ。告白されたことも知らなかったよ」

「ああ、そうなんですか……」

 馬鹿みたい。

 ううん、馬鹿だ。

 私も、なのちゃんも、私も。

 馬鹿馬鹿しくて、笑えちゃう。

 あはは、ははは、あはははははは……

「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」

 まるで、道化だね。

「私、なのちゃんが大嫌いなんですよ……」

「うん。知ってたよ……だから僕は君が苦手だ。あまり好きじゃない」

「っ!!」

「特に今の君は」

 ──道化の方が、まだましかもしれない。

「……先輩は、なのちゃんのこと、好きだったんですか……?」

 私は最終確認のつもりで先輩に訊いた。

「好きだよ。きっと君の言う好きとは違うけれどね……」

 ああ、やっぱりそうだ。

 私は、なのちゃんには勝てない。

 でも。

「……償いも、できないくせに……」

「え……?」

「償いも、できないくせにっ!!」

 傷を、刻みつける。私がなのちゃんに敵うとしたら、それだけ。

 だから、出てくる言葉を止めない。

「自分のせいでなのちゃんが死んだってわかってるくせに! 命の償いなんてできないくせに!! なんで今更[好きだ]なんて言えるのよぉっ!?」

 歪んでいる。わかっている。

 でも、もういい。

 私はなのちゃんにはなれない。そんなの、最初からわかっていた。

 だったら、桜ほのかとして、精一杯の傷をつける。

「どうして忘れないのよ!? 卓球は捨てたのに、どうしてっ……どうしてなのちゃんのことは……っ!!」

 わかっている。

 それが、なのちゃんのつけた傷の深さ。

 だから、だから……


 私はそれに勝ちたいの。

 譬、どれだけ歪んでいても。


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