第19話 仄かに光る菜の花畑 - Ⅱ -
柊先輩は、なのちゃんのことが好きなのだろうか。
私は疑問に思った。柊先輩のなのちゃんに対する態度は他の人と接しているときと全く変わらない。あの人は仏頂面が基本仕様なのだ。
柊先輩が接する態度を変えること自体が少ないのかもしれない。柊先輩が仏頂面ではなかったところなんて、卓球をしているときと橘先輩と話しているときくらいしか見たことがない。
柊先輩はなのちゃんに平気で毒づく。でもそれは、[好きな子ほどいじめたくなる]という論理とは違う気がする。それが先輩の基本仕様なのだ。
でも、そんな先輩だって、好きな人ができたら、少しくらい態度が変わるんじゃないかと思う。だからきっと、先輩はなのちゃんのことを恋愛の対象としては見ていないんだ。
可哀想、なのちゃん。片思いだ。
そう思った私の口元には、言葉とは明らかに食い違う笑みがあった。
そう、私は歪んでいる。
柊先輩はなのちゃんのことを何とも思っていない。──ただそれだけの事実に、私は優越感を覚えていた。
なのちゃんは卓球部で相変わらず補欠だった。
いや、正確には補欠ですらない。レギュラーメンバーが欠けても、なのちゃんがそこに入れられた試しはない。下手だから。
なのちゃんは二年生になり、私が入学して、バレー部でスタメンに入れられた頃、まだその状態で、三年生になり、二年の私は次期副部長として名が上がった頃でも、なのちゃんはそのままだった。
なのちゃんが三年の秋。
事件は起こった。
卓球部で、柊先輩が全国大会に行き、優勝を手にした次の日のことだ。
なのちゃんが自殺した。
葬式には、柊先輩と橘先輩も来た。
なのちゃんを見つけたのは私とお母さんだった。
朝、いつもなら私より早く起きて早朝ランニングに出ているはずのなのちゃんが起きた形跡もなかったのを不審に思って、部屋に入ったのだ。
なのちゃんは、テーブルに突っ伏して死んでいた。カッターで左手首を切っていた。触れると冷たい右手には、カッターが固く握られていた。
ベッドの上に、手紙が置かれていた。[柊くんへ]と書かれていた。
みんなは遺書というけれど、私にはわかった。あれは告白なのだ。なのちゃんから、柊先輩への。
それに気づいたのは多分、私と橘先輩くらいだ。──もっとも、橘先輩がなのちゃんの遺書を読んだかは知らないけれど。
なのちゃんの葬式以来、柊先輩にも、橘先輩にも会わなかった。
私は一人、卓球台の前に立った。
「うわあ、すごい。柊くんのスマッシュ、綺麗なバックハンドだった……」
「……桜、下手くそ」
「あ、ひっどーい! 褒めたのに」
「そうだぞ、友人。もう少しその口調どうにかならないのか?」
「そう言われてもなあ……一度身についた口調だし、治せと言われて治るもんでもないよ」
「そんなことよりラリーの続き! 柊くんのサービスからだよ」
誰もいない。
「よっ……と」
「……れ? 珍しい。お前がサーブミスなんて」
「んん……?」
「……柊くん、もう一回」
「ああ……ほい」
「お、今度は成功」
誰もいない、のに……
「……って、おい! 返せよ」
「…………やっぱり」
「どうしたんだ? 桜」
「柊くん、バックハンドの返しは上手いのに、サービスには変な癖がついてるんだもの。勿体ないよ」
「えっ?」
「ネット際に落とすなら、半歩手前で、もうちょっとラケット立てて」
「あ、ああ」
どうして、以前の光景がこうもまざまざと蘇るのだろう。あの三人が笑い合っていたのはもう遠い遠い昔の話なのに。
なのちゃんはもう二度と笑わないのに。
「ほら、できた」
なのちゃんが笑っていた。感心した橘先輩がおお、と声を上げて、柊先輩も無言で驚いていた。
私……
私は、何をしていただろう……?
……
…………
………………
そう、ただそれを見つめていた。
羨ましくて、入りたくて、入れなくて。
柊先輩が、綺麗だな、と。それで満足していた。
あはは、おかしいな。
葬式でも涙は出なかったのに、なんで今更悲しくなるんだろう?
「はは……はははは…………はははははははは!」
乾いた笑いが溢れ出す。自分のものとは思えないくらい虚ろで、狂った笑いだった。
ああ、そうか。私、狂っているんだ。
だから、妬ましかったなのちゃんが死んで、笑いこそしなかったけど泣かなかった。泣かなかったのに今更泣いて。
泣きながら笑って。
ボールが弾む音にしかすがれずに、卓球台の前にいるんだ。
あはは、ばかみたい。
ううん、ばかなんだ。
だったらばかなりに、ばかなことをしてみよう。
私はそう考えて、懐に忍ばせていたカッターを──なのちゃんの命を切り刻んだ刃物を取り出した。
私が死んだら、柊先輩は悲しんでくれるだろうか……
疑問というより、願望だった。
葬式で、涙を流さない先輩を見ていたから。
何があったかは知らないけれど、橘先輩に殴られても泣かなかった先輩を見ていたから。
私が死んだら、泣いてくれるかな?
泣いてくれたら、私は柊先輩の中で、なのちゃんより上だって証になる。だから。
そんなことで優越感に浸りたいんだ。
私って本当にばかでしょう?
でも、これが私。
一人でボールの音を聞いているくらいだったら、死んだ方がいっそ楽かもしれないなんて思うんだ。
意外と死ぬのって難しいんだ……
私はだらだらと手首から赤い液体を流しながら、それでもやたらはっきりしたままの意識に苦笑する。
痛みはない。綺麗に傷がついている。結構深くまで傷つけられたはずだ。それなのに、私は死なない。いつまで経っても私は死なない。
どうして?
どうして私は死なないの?
なのちゃんはあんなに簡単に死んだじゃない。
なんで、なんでっ……!?
無我夢中で手首を刻む。なくならない意識。やってこない痛み。
なんでいつも、私は、私は上手くいかないの!?
もっと深く刻めばいいのかしら? ……うん、そうだわ。きっとそうだ。そうすれば、きっと死ねる!
「ははは……はは、ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ、あはははははははっ……ははっ、はははっ、はははははははははははははははははははははははははははは」
笑った。
滑稽すぎる私を。
笑った。
笑うくらいしか、することがない。
「あはは、はは、はははははっ……」
誰か、気づいてよ。
そう、お母さん。家にいるんだからさ。
なんで娘が狂っていることに気づかないの? 何年親をやっているの? 馬鹿じゃない? ああ、馬鹿なんだ。だからこんな馬鹿な娘が生まれたんだ。そう、だから私は今こんなに……
がちゃ。
「ほのか……何してるの……?」
扉が開いて、声が聞こえた。女の人の声だ。よく知っている人。
「おかあ、さん……?」
やっと、気づいてくれた。
お母さんはまだ状況をわかっていない。けれど私は、ようやく他者が入ってきたことに安堵して、倒れた。
なんだ。見つけてほしかっただけか。
私って、本当に馬鹿。
私は危ない状態だったそうだ。発見が遅れていたら、本当に死んでいたかもしれない。そう医者は言った。
なのちゃんを失ったばかりの両親が顔を青くしたのは言うまでもない。
私は一命をとりとめたものの、手首に傷痕が残る上に、痛めすぎてもう使い物にならないという。
日常生活に支障が出ないとしても、運動は無理だと言われた。
当然、バレーを続けるなど、言語道断だ。
運動だけが取り柄なのに、運動ができない。
……はははっ、滑稽すぎる。私は唯一の拠となりうるものすら失った。本当に、何もない。
両親がいるって? 私の気狂いにこんなになるまで気づかない親が、どうして私の
友達? そんなのいたら先輩たちが遊びに来たときに家になんていないわ。
先輩……そうだ、先輩! 私にはまだ柊先輩がいる。
柊先輩がいる場所に、私が行こう。幸い、先輩の入学した学校は試験はそう難しくない。少し勉強すれば入れる。
目標のできた私は、今まででは考えられないほど勉強にのめり込んだ。周りは少しばかり奇異の視線を向けてくるが、かまわない。私は柊先輩のところへ行く。
勉強した私はあっという間に学年一位の成績になった。今までなのちゃんと違って全くできなかったはずの勉強。それが嘘のようにすらすらできる。我ながら気持ち悪い。でも一種の優越感を味わうことができた。今までなのちゃんとさんざん比べて、私を見下してきたやつらが、格下に成り下がったのだ。ああ、愉快愉快。
馬鹿みたい。
そしてやつらは今度、私に妬みつらみを向けてくるのだ。本当、馬鹿だ。なのちゃんにはそんなもの、一切向けなかったくせに。なんで私には向けられるのかしら?
皺寄せはすぐに来た。
上靴に画鋲を入れるとか、机を教室の外、もとい学校の外に出すとか、置き忘れたノートに下らない脅迫文を書くとか。
多種多様な攻撃だったが、馬鹿みたい。そんな程度で私はこれ以上傷つかない。
けれどある日、とうとう私を抉る行動が成された。
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