第14話 鳳仙花の花言葉- Ⅳ -
◇◇◇
その日、相模叶多はいつもどおり、図書室へ向かう途中だった。二階の中央階段の踊り場に差し掛かったとき、ちょうど真上のあたりから、口論のような話し声が聞こえた。男女の声だ。どこにでもある痴話喧嘩だろうと聞き流しかけた叶多だったが、男子生徒の一言にはたと立ち止まる。
「何故あの柊友人を園芸部に入れた!?」
柊友人。聞き覚えのある名だ。はて、どこで聞いたのやら、と叶多が考え始めると、今度は女子生徒の声がした。
「ち、違います。柊くんは自分で……」
その声で思い出す。この少女は一度ベランダでリストカットをしようとしたときに会った。あのとき、自分を止めに入ったのが柊友人という少年だった。そして、この少女はその後少年と一緒に去っていったのだ。──叶多は滅多なことで他人の顔と名前を覚えることはないのだが、初対面のときから友人にはどこか惹かれるものを感じていた。そのため、覚えていたのだ。
何故彼がこの二人の話題になっているのか、という叶多の疑問をよそに、二人の会話は進む。
「だめだよ、弓ちゃん。ボクに嘘を吐いちゃ。ボクは見たんだ。彼に嬉しそうに大歓迎だよ、と言う君の姿を」
「っ……!」
「それに、柊くんだけじゃなく、別な男子生徒とも話していたじゃないか」
「あ、あなたはそんなところまでっ……!」
弓、と呼ばれた方の反応を見るに、男子生徒の方はどうやらストーカーらしい。さすがは異端児の集う学校だ、などと叶多は呑気に構えていた。
「だめじゃないか、そんな移り気じゃ。君はボクのことだけを見ていればいい。話すのも思うのもボクだけにするんだ」
「…………ゃ……」
少女がか細い声で何やら言う。耳を澄ますと、今度ははっきり聞こえた。
「……いやです。もういや!!」
明らかな拒絶だった。
「なんでですか? どうしてあなたは私をそく」
悲鳴にも似た拒絶は、不自然に途切れた。直後、ゴッという鈍い音が聞こえた。上の方に駆け去る足音。そして階段に赤い筋が流れてくる。
そこでさすがに非常事態だということを悟った叶多は、急いで階段を駆け上がった。
そこには女子生徒が倒れていた。頭から血を流している。おそらく、突き落とされたのだろう。──犯人は間違いようもなくあの話し相手だ。顔は見ていないが、声は覚えている。……とその前にこの生徒を手当てしなくては。でも確か頭の怪我のときはむやみやたらと動かしてはいけないのだったか。……と、冷静なようにして、叶多は救急車を呼ぶという正解に辿り着けないほどに焦っていた。
するとそこへ一人の女子生徒が通りかかり、事件現場を発見する。彼女は驚き、思わず側に立ち尽くす叶多を見──目が合った。
第三者が現れたことでいくらか冷静さを取り戻した叶多は、その女子生徒に救急車を呼ぶよう頼もうとしたのだが、女子生徒は一目散に逃げていってしまった。
叶多は困り果てるものの、ふと自分も携帯電話を持っていることを思い出し、急いで一一九番に掛けるのだった。
◇◇◇
百合原さんが階段から突き落とされたというのは、瞬く間に学校中に広まった。どうやら一人の女子生徒が現場を目撃したらしく、犯人についても証言している。その犯人というのがまた、衝撃的な人物だった。
校内一の有名人、相模叶多だった。百合原さんが倒れている側にいたらしい。
僕はこれらのことを全て、大急ぎで教室を訪れた神田先輩から教えられた。どうして神田先輩が僕を訪ねてくるのだろう、と思ったが、どうやら事件に無関係というわけではないようだ。相模先輩の証言によると、百合原さんと誰かが僕のことで口論になった末に事件に至ったのだという。
「カナタを助けてほしいってわけじゃないけど、何か手掛かりになりそうなことがあれば、教えてほしいんだ。……百合原さんのために」
「はい」
神田先輩も微妙なポジションなのだろう。相模先輩とよく一緒にいるということで呼ばれたようだ。相模先輩を庇いたいけれど、事が事だ。変に事実を曲げて伝えることはできない。それがオブラートであるとしても。
などと考えているうちに、僕らは校長室に着いた。何もやましいことはないのだけれど、その場の険悪な雰囲気も手伝って、僕はこの上なく気まずくなった。
残念ながら座席はなく、僕は立ったまま、先生からの説明を聞いた。あらかた神田先輩から聞いていたので、僕は少し飽き飽きした。
質問が始まり、僕はできる限り正確に答えた。百合原さんとさどういう関係か、どのように知り合ったのか、など。
それから、百合原さんの悩みについて訊かれ、百合原さんの近頃の様子を語った。
「元気がなかった?」
教頭に訊き返され、頷く。
「特に僕が園芸部に入ってからは日に日に落ち込んでって……」
それを聞くと、黙っていた相模先輩が口を開いた。
「犯人の男子生徒はどうして柊を園芸部に入れたのか、と訊いていましたよ。園芸部の生徒なのではないですか?」
相模先輩の一言に教師たちが唸り、教頭と校長が言葉を交わし、仕方ない、といった風に教頭が溜め息を吐いた。
「では、園芸部の者を呼びましょう」
放送をかけるためか、隣の事務室に通じる扉を開けようとし、そこで勝手に扉が開き、教頭は思わず一歩退いた。
「あ、すみません」
聞き覚えのある声がし、驚く。教師陣も度肝を抜かれたらしいが、教頭はいち早く立ち直り、扉を開けた生徒に険しい表情で訊ねた。
「君、何の用だ? せめてノックをしなさい」
「すみません。校長室に用があって来ました。ここで合っていますか?」
「ああ。だが、どういう用だ?」
その男子生徒は引っ張り出すようにともにいた生徒を教頭の前に押し出した。
「女子生徒が突き落とされたって話の犯人を連れてきました」
そう言ったのは僕の親友、橘悠斗だった。
◇◇◇
橘悠斗が昼休み、四階にいたのは、音楽室に用があったからだ。いや、用というのはおかしいか。──彼はなんとなく、静かなこの音楽室で時を過ごすのが日課になっていたのだ。そこからだと、昇降口前の桜がよく見える。だからだったのかもしれない。
そろそろ教室に戻ろう、と思い、中央階段のところに差し掛かったとき、階下から何かが落ちた鈍い音が聞こえた。直後、駆け上がってきた眼鏡の男子生徒と鉢合わせる。
「すまないが、急いでいるんだ。通してくれ」
一学年上らしいその先輩は悠斗を押し退けて進もうとした。悠斗はその焦りようを不審に思い、引き留めて問う。
「今、下から妙な物音がしたんですけど、何があったか知りませんか?」
するとその先輩は数秒押し黙り、ふてくされたように答えた。
「さあね。ボクは知らないよ。君の気のせ」
「救急です」
先輩の言葉を遮る女子生徒の声が聞こえた。どうやら真下からのようだ。救急という言葉だけで、悠斗には状況が容易に理解できた。
「あんた一体、何をしたんですか?」
悠斗は男子生徒に詰め寄った。男子生徒は首を横に振る。
「ボクは何もしてないっ……!」
「なら、見に行きましょう」
「ちょっ……!」
強引に先輩の手を引き、階段を降りる。踊り場で悠斗は立ち止まった。悠斗の目が捉えたのは、階下に倒れる女子生徒。頭にハンカチと包帯が巻かれ、応急措置がしてある。先刻の声の主は救急車を呼び、手当てだけして応援の教師を探しに行ったのだろう。
悠斗はここまでしてあるのなら下手に動かす必要はないと判断し、眼鏡の生徒に向き直る。眼鏡の奥の光には怯えの色が湛えられている。答えは訊くまでもなかったが、悠斗は問いを口にした。
「あんたが、やったんですね?」
「ち、が……」
「シラを切る気ですか!?」
少し声を荒らげただけだったが、その生徒には効果絶大だったようだ。
「違う……弓ちゃんが悪いんだ……」
「弓ちゃん?」
「その子……」
悠斗は手を掴んだまま、階段を降り、少女に近づく。その顔は見知ったものだった。
「百合原弓江……」
「そうだ。君が話しかけていた」
振り返り、改めて男子生徒の視線を受けて気づいた。その冷たい視線はいつぞや自分と百合原が会話するのを影から見ていたものと同じ。
「……そう、更に言うなら、君や、柊友人……君たちが悪いんだ」
「何……?」
友人の名が出たことに悠斗は目を細める。男子生徒はさして気に留めることもなく続ける。
「君や柊友人のせいで、ボクの弓ちゃんはボクだけを見てくれなくなってしまった。ボクだけを見るボクだけの女神なのに、彼女はそれを放棄して、ボクを裏切り、拒絶したっ……!」
「なっ……友人も俺も、クラスメイトとして普通に話しかけていただけです! たったそれだけのことが、なんだっていうんです!?」
「たったそれだけで……充分さ。弓ちゃんのボクを見る目は変わってしまった。おぞましいものを見るような目でボクを見る……そんな弓ちゃんに、耐えられなかった」
沸々と、悠斗の中に沸き立つものがあった。
それは次の瞬間には相手の左頬に弾けていた。
「馬鹿か、あんたは!?」
もう一発、と手を上げかけて、やめた。すっと頭が冷えたのだ。
この男子生徒の心情が理解できてしまう。きっと、自分に似ているからだ。桜を忘れようとする友人に、怒りを抱く自分に。
馬鹿なのは、自分の方だ。それはわかっていたつもりだった。いざ、目の前に突きつけられると、受け入れがたいだけで。
だからなのか、目の前の眼鏡の生徒を憐れに思った。いくら同じ穴の狢だとしても、彼がやったことは、侵してはならない一線を越えることだ。それを踏み越えてしまった事実が憐れで仕方なかった。
その後、すぐに悠斗はその男子生徒を引き連れ、教師を探し、紆余曲折を経て、ようやく当事者たちの集う校長室へと辿り着いたのだった。
◇◇◇
「こんにちは、百合原さん」
「……柊くん?」
僕は今、百合原さんの入院する病院へ来ていた。幸い命に別状はなかったものの、頭部の怪我だったため、一日だけ病院で様子を見るそうだ。
「まさか、柊くんが来てくれるなんて、思ってなかった」
「迷惑、だったかな……」
「ううん、嬉しいよ」
笑顔で答える百合原さんに「今のことだけじゃなくて」と付け加えた。
「僕がよく考えずに、君と話したり、部活に行ったりしたせいで、こんなことに……」
「……聞いちゃったの?」
百合原さんの顔が翳る。俯き加減で百合原さんはそっか、と呟いた。
「……私、楽しかったの。昔ね、近所に住んでたあの人と山に遊びに行ったとき、川辺に咲いていた花を採ろうとして、川に落ちちゃったんだ」
名前は出さなかったが、あの人というのが誰なのかは想像がついた。遠くを見つめて、彼女は続けた。
「あの人は私を助けてくれた。けど、そのときから肺を悪くしちゃって、激しい運動ができなくなって……あの人、バスケが好きだったんだけど、やめることになって……おかしくなったのは、それから」
寂しげに微笑み、百合原さんは顔を上げた。
「前に、私は黒百合だって言ったでしょ? あれ、あの人が言ったことなの。黒百合の花言葉は」
「……呪い」
高所に咲く、黒い百合。遥か昔より、美しくも呪われたいわれを抱く花。
「私、その花言葉だけは知ってたんです。思えば、私が採ろうとした花って、黒百合だったんじゃないかな」
なんという皮肉だろうか。「私って本当に呪われてるんだなって思いました」と苦笑いする百合原さんに返す言葉が見つからない。
「……私、憎まれて当然なんですよ」
「そんなことっ」
「だって、好きになりかけてたから!」
「え……?」
思わず凝視する僕から百合原さんはそっと視線を外し、繰り返した。
「柊くんのこと、好きになりかけてたから……」
僕は再び言葉を失った。百合原さんは何も言わない。言えないのかもしれない。そうして、沈黙ばかりが続き、時が過ぎていく。
ふと、僕は全く関係ないことを思い出し、鞄から紙袋を一つ取り出した。
「これ、花言葉事典。図書室のとは違うやつだから、後で読んでみて。それから、粗末で悪いんだけど、手作りの栞。……お詫びの意味も込めて」
「柊くんは何も悪くないよ。……ありがとう」
彼女が早速本を開こうとする。しかしその前に、と僕は一息で言った。
「僕、園芸部やめることにした」
百合原さんの手が止まり、彼女は僕を見上げた。表情は寂しげだが、何も言わない。──一分ほど経ち、ようやく彼女は口を開いた。
「何部に入るの?」
口をついて放たれた問いは、会ったばかりのときと同じもの。
「文芸部だよ」
今度はしっかり答えた。
「そっか」
彼女は笑ったのかもしれない。けれども、僕にその顔を見る勇気はなく、背を向けて、病室を去ろうとした。扉の前で、呼び止められる。
「これ、大事にするね」
「うん」
僕は振り向かずに言った。
「ごめん。──さよなら」
「うん。さよなら」
花をラミネートした簡素な栞。
百合原さんに似合うだろうと思った白い花を選んだ。
──鈴蘭。小さい可憐な花。花言葉は"幸福の再来"。
君が幸せになれますように。
桜の代わりの贖罪のようで、偽善に満ちている気がするかもしれない。でもそれは、本当に僕の願うことだから。
たとえ、僕が鳳仙花にしか見えなくても、この思いは本当だから──
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