第13話 鳳仙花の花言葉- Ⅲ -

 家に帰ると、僕は"開かずの間"へと向かった。扉にかかったネームプレートは引っくり返されているが、表にすると、[KANAE]と書かれているはず。返さないまま、僕は扉に手をかける。かちゃり、とあっさり、扉は開いた。

 "開かずの間"は母のものだった部屋だ。母が暮らし、死んだ部屋だ。母が死んだあのときの光景を僕は今でもよく覚えている。

 父が来たとき、僕は既に事切れた母に抱かれるようにして倒れていた。父には何故止めなかったのか、と怒られた。

 母が死んだその部屋はそのままになっている。父も僕も入るだけで母のことを思い出し、苦しくなるのだ。そうして自然とその部屋には入らなくなっていき、誰も入らないこの部屋を"開かずの間"と呼ぶようになった。

 僕はそんな"開かずの間"に桜と関わりのあるもの全てを閉じ込めていた。卓球のラケット、ボール、参考書……そして、桜が僕に宛てた遺書。痛くて、苦しくて、触れられずにいるものたちがそこにあった。

「……シェイクハンドのラケットケース……なんだか、懐かしいな」

 ラケットケースを手に取って、ファスナーを開く。赤と黒のラバーが貼られたラケットと、練習用の白いピンポン玉が三個、入っている。僕はラケットとボールを一つ手に取り、久々に玉つきでもしようかと思った。しかし。

 かたん。

 ラケットは手をすり抜けて床に落ちた。

 ボールもいつの間にやら滑り落ちて、ぽんぽんという特徴的な音を立てて転がっていく。僕は呆然と、空になった自分の手を見、力が入らず、震えが止まらないことを知覚する。そしてぼんやりと、ああ、やっぱりか、と思う。

 桜が死んだあの日から、僕はラケットが握れなくなってしまった。握ろうとすると手が震えて、力が抜けて、取り落としてしまうのだ。どうしても息苦しくなる。僕が桜を殺したのだと、桜が好きだった卓球を貶したのだという事実を思い出し、どうしようもなく息苦しくなるのだ。

 向き合いたくないと、心が拒絶する。深い深い心の底で、"触れたくない"と思ってしまうのだ。

 何よりもその思いが勝ってしまう。

 僕は結局、鳳仙花なのだ……


 翌朝、登校中。

「あ……おはよう、百合原さん」

「おはよう、柊くん」

 道でばったり、百合原さんと会った。思い切って声を掛けると、いつもどおりの笑顔で応じてくれる。

「今日はいつもより遅いんだね。びっくりしちゃった」

「え? ああ……昨夜はちょっと、色々あって……」

 昨夜は"開かずの間"でラケットを出してから記憶が途切れていて、気がついたら朝になっていて、僕はベッドで寝ていた。いつもより少し遅い起床だった。思ったより疲れがたまっていたらしい。

「寝坊? ……なんかちょっと意外かも」

「意外って?」

「柊くん、そういうところしっかりしてそうだったから。ほら、お父さんと二人暮らしだって聞いたからさ、家事とか自分でやったりすることが多いんでしょ?」

 思わず答えに詰まった。百合原さんの言っていることは全て当たっているのだが、遠回しに母がいないという事実を突きつけられているような気がして、胸がずきりと痛んだ。

 勿論、百合原さんにそんなつもりがないのはわかっている。ただ、どうしても、気まずい沈黙が流れてしまう。申し訳なく思っていると、百合原さんが吃りながらも切り出した。

「あー、ええっと……そうだ! 柊くん、部活決めた?」

 無理矢理感のある話題転換だったが、今は無理矢理にでも変えるべきだったので、百合原さんのこれはファインプレーと言える。自分じゃこう上手く切り替えられないので、すごいな、という感嘆と感謝をした。

 あまり間を置かないようにして答える。

「ううん、まだだよ」

「そろそろ決めないとまずいよ。確かあと一週間後が申請の締め切りだったと思うから」

 入学したての僕たち一年生は入学から月末までに部活動見学期間が設けられ、月末の期日までに部活動を確定させなければならない。部活動入部は義務で、帰宅部という選択肢は用意されていなかった。

 そして、入学から月末まで、と言ったが、それがあまり長い期間ではない。一週間から二週間の間くらいの期間しかなく、期日までに部活動を決められないと、生徒指導が入るとかいう話を聞く。だから僕も人と関わりたくないながらに、部活動を見て回っているのだ。

「そういえば、もうそんな時期か……百合原さんはもう園芸部に申請したの?」

 何気なく僕が訊くと、何故かぎこちなく彼女は頷いた。

「うん。……前から園芸部って決めてたから」

「そっか。前にも言ってたもんね」

「柊くんは、これって決めてる部活、なかったの?」

 この質問にふと、相模先輩の顔がよぎったが、首を横に振った。

「うーん、じゃあ、部活ばらばらになっちゃうね」

 寂しげに百合原さんが笑うのを見て、あれ? と思った。そう思った次の瞬間、

「僕、園芸部に入らない前提?」

 そんな台詞が口をついて出た。ものすごく自然に、言った僕自身が驚くほど、すんなりとこの言葉が出た。そして、言われた百合原さんはというと、呆然と立ち尽くすほどに驚いていた。戸惑っているようにも見える。

「えっと……僕、変なこと言ったかな」

 あまりにも長い沈黙に、僕は気まずくなって訊いた。

「え、いや、まさか。大歓迎だよ、もちろん」

 ぎくしゃくと百合原さんは頷いた。何か変だ。

「……どうかしたの?」

「ううん。大丈夫。 何でもないよ。……そうだ。柊くん、花言葉とか、色々教えてよ」

「うん。……百合原さん、花の育て方とか、知ってる?」

「うん! 何でも聞いて」

 ぎこちない感じは消え、百合原さんと打ち解けて会話ができた。

 園芸部に入ろう、と思いつつ、それが悠斗に対しての裏切りのような気がする。──そんな後ろめたさを押し隠すように、僕は笑った。


 ◇◇◇


「苦しみから逃げるのか、か……」

 橘悠斗は一人、窓に向かって呟いた。卓球のシェイクハンド用のラケットを握り、寂しげに微笑む。教室には彼一人しかいない。

「苦しむのは、仕方ないのにな……」

 悠斗は友人から、桜と何があったのか、聞いていた。それを聞いたとき、悠斗は友人を殴った。己の憤りのままに。それから、二人の間には溝ができたような気がする、と悠斗は感じていた。

 友人が苦しむのはわかる。悠斗はその理由を知っているし、彼の苦しみの深さも理解している。友人が桜に言ったことも許していないわけではないのだ。ただ悠斗は、卓球から離れようとする友人の姿に引っ掛かりを感じるのだ。何が引っ掛かっているのか、自分でもよくわからないから、もどかしくなり、友人に当たってしまうのだ。

 違うだろう、と思う。友人に当たっても桜が戻ってくるわけではない。友人が再び卓球を始めても、傷が癒えるわけではない。

 自分は、友人にどうしてほしいのだろう?

 そのとき、するりと手からピンポン玉が滑り落ちる。独特のぽんぽんという音が、誰もいない教室で響く。

「……ああ、俺は」

 立ち上がってボールを拾い、見つめながら彼は呟いた。

「友人とまた、卓球がしたいんだ……」

 桜のことなんて、抜きにして、と思ったところで苦笑いする。結局友人に当たるのはただの独りよがりじゃないかということに気づいて。

 桜のことなんて、ただの言い訳にすぎない。

 窓の外に目をやると、ベランダの隅に小さな花が咲いていた。その花は秋に咲くある花に似ていることから"ハルジオン"と呼ばれている。

「それでも桜、俺は君を忘れない……」

それは秋に咲く紫苑の花言葉。


「ああっと、ええっと、君……」

 ある朝、悠斗が声を掛けたのは、百合原弓江だった。近頃、よく友人と話しているところを見かけたので声を掛けてはみたものの、よくよく考えれば、悠斗は彼女の名を知らず、どう呼び掛けたらいいかわからず、こうなった。

「百合原弓江です。こんにちは」

 幸い、百合原はすぐに自分が呼び掛けられていることに気づき、気を利かせて名乗ってくれた。悠斗は苦笑まじりに謝辞を述べつつ、用件を話した。

「最近友人が世話になってるみたいだから、挨拶しとこうと思って。橘悠斗だ。よろしく」

 俺は友人の保護者かよ、と自分の台詞に突っ込みながら、自らも名乗った。

「……よろしくです。……友人って、柊くんのことですか?」

「ああ」

「名前で呼んでるなんて、仲良いんですね」

「いや……まあ、うん」

 冷たくあしらっている近頃の自分を省みて、少し気まずくなり、悠斗は口ごもる。

「あれ? そういえば、柊くんも橘くんも同じ"ゆうと"って名前……」

「ああ、それなら、ユージンとハルトって呼びわけ方があるんだ。友人は"友達"って意味の"友人"って書くから"ユージン"。俺は"悠久の時"の"悠"に"斗升"の"斗"だから"ハルト"」

「へえ、面白いですね」

 にこやかに笑う百合原に、悠斗は何か違和感を覚えた。それとほぼ同時に、こちらに注がれる冷たい視線に気づく。振り向くと、ちらりと扉の影から眼鏡をかけた男子生徒の姿が見えた。確信は持てないが、一学年上の学年章があった気がする。

「どうかしましたか?」

 百合原に目を戻すと、再びどこかずれた笑顔と出会う。心なしか、先刻よりも固い笑顔のように思う。悠斗はその笑顔に対する違和感を拭えずにいたが、百合原の問いに首を横に振り、別な質問を返した。

「友人とはどんな話をしてるんだ?」

 それは悠斗が最も訊きたかったことだ。気まずくて話しかけづらい現状で、どうしても本人に訊く気にはなれなかった。

「お花のお話です」

 今度は普通ににっこり笑って百合原が言った。悠斗はきょとんとする。それに気づいた百合原は慌てて「別に洒落を言うつもりだったわけじゃありませんよ!」と言った。

「私、園芸部なんです。柊くんも園芸部に入ろうかな、ということだったので、その話をしていたんですよ」

「友人が、園芸部に……?」

 その一言に悠斗は凍りつく。それと同時にやはり、という思いがよぎる。


「自分の罪を正面から受け止められるほど、僕は強くないんだ……」


 友人のあの一言が脳裏に蘇る。「逃げるのか?」と問いかけた自分の姿も。

 今は違った。

 ああ、お前は本当に、桜を忘れてしまうんだな、と。

 少し寂しく、悠斗は笑った。


 ◇◇◇


 園芸部に入部届を出した。といっても、一週間は仮入部期間で正式な部員ではないため、自由に変更できる。けれども僕の意志はほとんど固まっていた。

 しかし、僕が入部を決めてからというもの、百合原さんは日に日に元気をなくしていった。本人は大丈夫だというのだが、僕が入ったことで何か困ったことになっているのかもしれない。そう思って部長に相談してみたのだが、部長も心当たりがないということで、問題はうやむやのまま、時は過ぎていった。

 入部から四日目のことだった。

 百合原さんが階段から突き落とされたと聞いたのは。


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