第12話 鳳仙花の花言葉- Ⅱ -

「おはよう、柊くん」

 朝、百合原さんに声を掛けられ、ぼーっとしていた頭が覚醒する。

「お、おはよう」

「柊くん、今日も園芸部に行く? 行くんだったら、一緒に行きたいんだけど、いいかな?」

「うん……行くよ」

 そんなやりとりもあり、僕は今日も園芸部に行くことにした。

 放課後、百合原さんとともに園芸部へ向かっていた。途中で、ふと百合原さんが立ち止まり、言った。

「そうそう、園芸部に行く前に、寄り道したいところがあるんだけど、いい?」

「うん。どこに?」

「図書室」

 しまった、と思った。行き先を確認してから承諾するんだった。……図書室には行きたくないのに。

 ──あの人がいるだろうから。

 だが、今更止めるのも悪い。僕は百合原さんの後に続いた。

 図書室に着くと、閲覧室に文芸部の姿はなく、僕は思わずほっとした。が、ベランダに女子生徒を見つけた。相模先輩だ。

 相模先輩は眩しそうに太陽を見つめていた。透き通るような白い肌と黒曜石のようにきらめく髪が日の光に照らされて、とても神秘的な雰囲気を醸し出していた。綺麗な人だな、と思わず見とれてしまう。──しかし、そんな気持ちは視界の隅に捉えた鈍い輝きに吹き飛ばされた。

「相模先輩、何やってるんです!?」

 がらり、と勢いよくドアを開けて、思い切り叫んだ。先輩は弾かれたように振り向き、僕の顔を見て、どこか困ったような柔らかな笑みを浮かべた。

「なんだ、気づかれてしまったか」

 その一言で気づく。先輩の笑みは、悪戯を見咎められた子供のそれのようだった──

 僕は袖が捲られて露になっている先輩の左手首に目を止めた。──無数の、切り傷と思われる傷痕。もう一方の手に握られた鈍い輝きを放つものは、カッターナイフ。──リストカットという言葉を導き出すのに、そう時間はかからなかった。

 僕にとっては、自殺の象徴──

「よくこれだけでわかったものだ。完敗だよ」

「完敗って……何を言っているんですか!? 僕はあなたに勝負を吹っ掛けた覚えも、あなたに勝負を吹っ掛けられた覚えもありませんよ!! なんで学校でそんなことっ」

「学校じゃなければいいのか?」

 しらっと真顔で先輩は切り返した。僕は一瞬呆気にとられ、それからこみ上げる怒りのままに言い返そうとした。

 だが、瞬間、出かかっていた言葉が消えた。頭が、真っ白になる。

 脳裏に蘇るのは、血塗れのナイフ、落ちた林檎、泣いている母さん、幾重もの傷、あの子の笑顔、遺書。

「僕は……」

 どうにかそう紡ぎ出したとき、

「柊くん、用事済んだよ」

 百合原さんが入ってきた。彼女は相模先輩の姿を認めてはっとするが、呆然としたままの僕に近づき、手を取って、いそいそと図書室から出た。僕はかろうじて歩くことができた。

 歩き出しても、頭の中は真っ白なままだ。

 フラッシュバックと赤い記憶。

 僕は一体、何を言おうとしていたのだろう……?


 ◇◇◇


「カナタ、またやってたの? ……と、珍しく今日は未遂だね」

「ん、アラタか。……実は、見つかってしまってな」

「へえ、誰に?」

「あの柊って後輩だ。ついでにこの間の話の続きをしようと思ったのだが、また逃げられてしまった」

「カナタが直球すぎるから、びっくりしたんだよ」

「んー、そういうものなのか……」


 ◇◇◇


「柊くん、大丈夫? 相模先輩に何か言われてたみたいだけど」

「うん、大丈夫。ありがとう」

「ならよかった」

 そう言って微笑んだ百合原さんを見て、小脇に何やら分厚い本を抱えていることに気づいた。

「その本は?」

「さっき図書室で借りたの。花言葉事典」

 私も花言葉覚えるんだ~、と意気揚々に百合原さんは言った。

「……百合原さんは何の花が好きなの?」

「んー、カーネーションかな。色んな色があって可愛いから」

「意外」

 僕が思わずそう口にすると、百合原さんはにこにこと、どうして? と訊いてきた。

 気のせいだろうか、声が冷たくなった気がする。

「……なんとなく、百合が好きなのかなって思ってた。名前にも入ってるし」

「あはは、そんなこと言われたの、初めてです」

 返ってきたのは、乾いた笑いだった。……冷たい声も気のせいではなかったらしい。笑顔も、眼差しも全然今の百合原さんに合っていない、ちぐはぐな印象だ。

「正直、私はあまり百合の花は好きじゃありません。昔は好きだったんだけどね」

 苦笑しながら階段を降りつつ、百合原さんは続けた。

「いつだったか、似合わないって言われて。……それから何故だか、百合の花の香りだけ、鼻をつくようになっちゃって、苦手なの」

「そうなんだ。……でも、白百合とか似合う気がするんだけどな……」

 なんとなく、百合原さんには白い花のイメージがある。名前の影響もあるけれど、僕に親切に話しくれる彼女は純朴できよい人のように思えた。

 そんな彼女は寂しげに微笑んで、囁くような声で言った。

「私はそんなに天使じゃないよ……むしろ黒百合だって言われるから」

「え……?」

 問いかけようとしたとき、ちょうど園芸部のところに着いた。

 黒百合。花言葉は確か、呪い。

 昔から色恋に絡んだ呪いに使用されることの多かった黒百合は、いつしか存在そのものが呪いであるように受け止められ、この花言葉となった。とてもいい由来とはいえない。

 どうしてこの子はそんな不吉な花言葉を差し向けられたのだろう?

 こんなにも、優しいのに──

「お、柊くんと百合原ちゃん。今日も来てくれたんだ」

 と、物思いに耽りかけたところを部長に声を掛けられ、慌てて挨拶を返す。百合原さんは咲いているチューリップを見つけ、あっという間にそちらへ行ってしまった。華やいだ声は先程の奇妙さなど微塵も残っておらず、僕はなんだか安心した。そんな百合原さんの様子を微笑ましく眺めてから、部長は僕の方に歩み寄ってくる。

「百合原ちゃんは訊くまでもないとして……君はどうする?」

「えっと……?」

「入部するかってこと」

 言われて、即答できなかった。正直なところ、よく考えていなかったのだ。今日もただなんとなく、百合原さんについてきただけだったから。

 でも、園芸部というのはいいかもしれない。卓球部でも文芸部でも、僕は桜のことを思い出して、苦しくなるだろう。その点、この部なら軽くて済む。だったら、この部にするのも悪くはないように思えた。──脳裏に親友の顔がちらりとよぎるが……

「……考えておきます」

「前向きにな」

 ふっと笑って部長は話題転換した。

「柊くんは、もっと鳳仙花みたいな子だと思っていたよ」

「色々あったって聞いて……もっとつんつんしてて、近づくなオーラが出てるのかと思ってたんだ。こんな話しやすい子だとは思わなかったよ」

 文芸部の部長と真逆のことを言う。けれども……どちらが正しいのだろうか?


「関わりたくなさそうだもの、周りと」


 僕は周りと関わりたくないんじゃない。桜という思い出に触れたくないだけ。……忘れたいだけ。

 触れられたくないんじゃない。僕はただ……触れるのが、怖いだけ。


 ◇◇◇


「弓ちゃん」

 ある日の昼休み、百合原はその声ぴくりと反応した。振り返ると園芸部の眼鏡の男子部員が。彼と百合原の家は近所で、互いに幼い頃から知り合いだ。

「先輩、どうも、お久しぶりです」

 しかしながら、幼馴染みというには些かよそよそしい挨拶を百合原は返した。心なしか、表情も暗い。

「うん、久しぶりだね。まさか君がここに入学するなんて思ってなかったよ」

「そうですか?」

「まあね。……でも、一緒に部活ができそうでよかったよ」

 先輩はにこにこと笑うが、百合原の表情は一向に晴れない。

「……まだ、園芸部に入るって決めたわけでは」

「入るだろう? 君は花が好きだから」

 百合原の弱々しい主張は先輩の温かいようで虚ろな声に遮られた。

「……入り、ます……」

 花の好きな少女はしかし、消え入りそうな声で入部を決めた。

「そうだよね。そうじゃなきゃ。今日も部活で待っているよ。……ねぇ、弓ちゃん」

 空虚に満ちた猫なで声に呼ばれ、百合原は震えた。小さな声で返事をすると、とたんに冷たい声で先輩は訊ねた。

「今日はあの柊くんって子は一緒じゃないよね?」

 百合原に返答の選択権などなかった。

「……はい……」


 ◇◇◇


「珍しいね。君が図書室に来るなんて。カナタの一件があったから、もう来ないかと思っていたよ」

 図書室に足を踏み入れると、そう言って神田先輩が迎え入れてくれた。神田先輩以外に人はいない。神田先輩が来ると、もれなく相模先輩もついてくるので、腫れ物に触りたくない生徒たちはそそくさと退散するのだそうだ。

 僕も腫れ物には触りたくないのだが、どうしても神田先輩に訊きたいことがあって来た。幸い、相模先輩はまだ来ていない。

「神田先輩、僕って、他人と関わりたがっていないように見えますか?」

「唐突だねぇ」

 そう言ってから少し考え、この間のことかい? と訊き返してきた先輩に僕は頷いた。

「少なくとも、カナタに対してはそうだったと思うな。あと、たまに見かける君は決して自分から挨拶しないし行動しない。受動的な人間に見えたから」

「それは僕が……触れないようにしているんです。他人ひとに」

 僕の返答を聞き、神田先輩は困ったように笑った。それから一言、きついこと言うけど、と断って続けた。

「それは関わりたくないっていうのと一緒だよ。コミュニケーションは一方通行じゃ成り立たないんだから」

 少し険しい顔つきで先輩は言う。

「例えば、君と親しくなりたくて、よく話しかけてくれる子がいるとする。その子は毎日会話しようって頑張る。君が話題に乗って会話が続けば、それは嬉しい。でも、ずっと自分が話題提供するだけで、君は適当にそれに応じるだけ……それってコミュニケーションって呼べるの? 会話とは呼べるかもしれないけど、意志疎通は? ……思いが伝わらなきゃ、その会話にコミュニケーションとしての意味はないんだよ」

 言われてみると確かに、僕はいつも受け身でいた。神田先輩の例え話に百合原さんが当てはまる。


「こんな話しやすい子だとは思わなかったよ」


 それは話しかけやすいというだけの意味だった。園芸部の部長と神田先輩の認識にはこんな差異があったのだ。わかりづらい、見落としやすい部分たった一つで真逆の認識が生まれる。

「そういうことだったんですね」

「あ、あんまり感心しないでね。俺個人の勝手な考えだから」

 慌てて神田先輩が言う。先程までの険しい表情は嘘のように消え、代わりに苦笑が浮かぶ。

「ごめんね、説教みたいになっちゃって。こんな答えでよかったかな?」

「はい。ありがとうございました」

 いい人だな、と思った。この人のような向き合い方が理想なのかもしれない。

 ──一方通行、か。

 死んだ桜の卓球への思いみたいだ。好きだから努力して、それでも上手くならなかった桜の……

 向き合わなくてはならないのだろうか。桜のこと……

 忘れるのでは、いけないのだろうか。

 ──それでは本当に一方通行になってしまう。一所懸命だった桜だけが馬鹿みたいだ。そんなことにはさせたくない。

 桜を貶すのは、嫌だから……桜を貶した僕が言うのは、なかなか滑稽な話かもしれないけれど……

 桜と向き合うことができれば、悠斗ともきっと元に戻れるのかもしれない。

 悠斗とはあれ以来、ろくに話していない。数少ない、唯一といっていいほどの友達だったのに……


「俺、気づかなかった……」


 桜の通夜の日、悠斗が言ったことを思い出す。


「桜がそんなに思い詰めてるなんて知らなかった。……俺、好きだったのに。桜の力になりたいって思ってたのに。桜からは卓球とか勉強とか教わってばっかで、全然、返せてないのにっ……!」


 伝えられなかった思い。多分、悠斗の中でそれは溶けない氷のように漂っているんだ。僕の心に、桜の一言が留まっているように。

 きっと悠斗は桜を忘れようとはしないだろう。彼は大切なことは絶対に忘れない。そこが僕とは違う。だから悠斗は逃げようとする僕が許せなくて、僕は忘れずにいる悠斗が遠く思えて怖いんだ。友達のはずなのに、全然違う、遠い存在のような気がして……

 でも、このままでいいはずがない。まずは、そこから始めよう。


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