【異界神話体系 幽世館】
@raguna397
第1話
私は日常よりも”非”日常が好きだ。一度は皆も妄想したことがあるだろう。隠していた実力を使い学校を襲撃してきたテロリストからクラスメイトを守ったり、夜の街で怪物に襲われた所を謎の美少女に守られたり…。少し中二病臭いかも知れないが、自分はどこかで不思議な力に目覚めたり異世界に迷い込んだりすることに憧れている部分はあった。しかし、今はそれが間違いだったことを認めよう。
日常は退屈だが、退屈という感情は平和である事の象徴だ。私はそれを今まで享受しながら生きていた。だから、目を覚ました時に全く身に覚えの無い部屋にいて、自分の名前以外の一切の記憶がない状態という非日常の中では、如何に自分が無力な存在であるのかを噛みしめていた所だ。
「ここは、一体何処なんだ?」
洋風で茶色を基調としたモダンテイストな室内。赤茶色の壁につけられたランプが辺りを照らしている。
部屋の中にあったのは普通のテレビとふかふかのベッド。小さなチェストやちょっとしたお茶菓子にお湯を沸かすためのケトル等だ。一般的にホテルに置かれていそうな物があり、別室にはトイレと洗面所が一緒になった部屋があった。ちなみに風呂はない。
先程、洗面所の鏡で確認した自分の姿も非常に不思議な格好であった。
書生姿の服装に伸びきった髪。顔には丸メガネがかけられ、目の下には酷い隈がある。自分の身分を証明する物は何も無かったが、ただ一つ、胸ポケットに金の装飾が施された懐中時計が仕舞われていた。それだけだ。
当たり前の事だが部屋という空間には必ず扉が存在する。当然、この部屋の中にも扉が着いていた。自分で何も解決できないのなら誰かしらに頼るしかない。そう思って先程の自分は意気揚々と扉を開けたのだが…。そこにあったのは、ただの赤茶色の壁であった。これが今現在に至るまでの出来事だ。
そしてもう一つ問題が発生している。私は目覚めてから現在の状況を確認するために部屋の中を全て調べ、そして出入口であったであろう扉を開けた。そこまではいい。いくら調べても壁は壁でしかなかったからだ。途方に暮れた私は再び部屋の中に向き直り、そして気がついた。目を離した少しの間に家具の配置が変わっており、そして先程まで家具が置かれていた場所に新しく扉が着いていたのだ。
「開けるべきか開けざるべきか…」
誰に言うでもなくポツリと呟く。だが、今現在私が取れる手段は限られている。
明らかに普通ではない異常な出来事。しかし物語的に言うとフラグが立ったのだろう。なら、私は前に進むのみ。
「いざっ!」
鬼が出るか蛇が出るか。気合いを入れて開けた扉の先には、先程と同じ赤茶色の壁が広がっていた。さすってみたり殴ってみたり、音を聞いてみても壁は壁だ。それ以上でもそれ以下でもない。
そして再び変化が起こる。音もなく家具の配置が変わり、また新たな扉が出来ていた。
今度はなんの躊躇いもなく扉を開けるが、やはりその先には壁がある。室内がまた変化して、そして扉が増える。開けた先は壁であり、また新たな扉が生まれる。
扉、壁、扉、壁、扉、壁、扉、壁…。
「一体何なんだこの部屋はァああああああ!!」
壁一面が扉で埋め尽くされた部屋の中に、私の声だけが虚しく響いた。
喉を開けて大きく叫んだつもりであったが、扉を開け続ける作業に体力を取られてしまい思っていたよりも声が出ない。肩で大きく息を吸い込んでは吐き、どっと押し寄せてきた疲れによりその場に項垂れた。
最早部屋の中は原型がないほど荒れており、部屋中の家具が扉を避けるようにして中心に集まっている。出る場所もない。足の踏み場もない中で、私の居場所はこの家具たちの上だけだ。
この部屋の中は非常識で溢れている。扉も床も家具も、全て正しい用途で使用出来る状態ではない。
「な、なんて非常識な空間なんだ…」
未だに息がまともに出来ない。家具の上では休むにも休めないし、かといってベッドに寝転がろうものなら何かの拍子に押し潰されそうな気配すらある。
何とかしてこの場所から出なければ。
纏まらない思考を何とか巡らせ脱出手段や出口の場所を考える。髪をたくしあげたり顔を両手で覆いながら悩んでいた次の瞬間、それは正に文字通り、空から天啓が降りてきた。
「常識が通用しないのなら、非常識になればよろしいのですよ」
天井からガチャりと音がしたかと思うと、白と黒の西洋衣装を纏った少女が軽やかに空中で一回転しながら器用に目の前の家具の上に降り立った。
空中で靡き煌めく白銀の長髪。頭に付けられた白いカチューシャと首から下げられたエプロンに、足首まで伸びた黒衣のスカート。肌は透き通るように白く、薄紅色の唇を引き立てている。胸元に縫い付けられた名札には『メイド長』と書かれていた。
彼女は白手袋を着けた手で指をピンッと天井に向けた。促されるままに視線を向けると、最初からあったのかは分からないが天井には四角い扉が着いていた。
「この部屋の出入り口は上にございます」
私が目の前の状況を飲み込めずに困惑している事など気にも留めず、彼女は涼し気な顔でサラリと言う。
「いや…。なぜ天井に扉が?」
「扉は壁にあっても扉ですが、天井にあっても扉は扉です。そこに違いはありません。いいですか。ここはそういうルールの部屋です」
言っていることが何一つ頭の中に入ってこない。というより、理解が出来ない
扉を開けると壁がある事も、何故か扉が増え続ける事も、天井に出入する扉がある事も、全て当たり前の常識であるかのように言ってのける。
彼女は何かを思い出したかのように「あぁ、そういえばそうでした」と何かを納得すると、小さくコホンと息をつき肩にかかる髪を手で払った。
「大変申し遅れました。ワタクシの名前はジョセフィーヌと申します。以後お見知りおきを、
彼女はスカートの両端を手でつまむと、片足を前に出すように交差させて深く丁寧にお辞儀をした。
私はジョセフィーヌと名乗った彼女の事を知らないが、彼女は私の事を知っている。
怪しげな雰囲気を放つ女だが、私の中の好奇心が刺激されているのも事実であった。
「私の事を知っているのか!?なら教えてくれ。私は記憶がなくて目を覚ましたらこの部屋に───」
言葉を言い切る前に人差し指を近付けられ口を止められる。彼女から漂ってくる甘い香水の香りが私のはやる気持ちを抑え、脳を溶かすかの様な感覚に陥らせた。
「一つずつ説明致します。1、ここは幽世館(カクリヨカン)というホテルです。2、あなたは本日からここで働く事になります。3、ご自分の記憶が欲しいのであれば、この紙にサインしてください。これは契約です」
どこからともなく取り出される紙と万年筆。何やら細かい文字で色々と書かれているが、デカデカと契約書と記載されている時点で嫌な予感しかしない。…というか、考えずとも契約書にサインをしたら記憶が戻ってくる何てそんな都合のいい事がある訳ないのだ。
「まるで意味が分からない…。私の記憶と契約書に何の因果関係がある?新手の詐欺にしても面白くはないぞ」
「詐欺ではありません。それにこの会話は───。失礼致しました。これは契約違反でしたね。ですが、幽世方様が仰っている疑問はもっともです。こちらをご覧ください」
またどこからか取り出された紙を見せられる。先程と同じ契約書であったが、こちらは少し色がくすみ、なんと言うか古い感じだ。しかし重要な部分はそこでは無かった。ズラズラと文章が書かれている下の空欄に、ハッキリと『幽世方 楓』と記入されていた。
見間違える訳がない。これは自分の筆跡だ。
「な、なんだこれは…」
契約書の内容は殆ど黒塗りされていてハッキリとは読めないが、見える部分から察するに確かに自分は『このホテルで働く』という雇用契約を結んでいるらしい。全く身に覚えはない。
「こちら、他にもございます」
彼女はまるで手品を見せるかのように契約書を持っている指を擦り、同じサインが書かれた契約書を一瞬にして複数枚に増やした。どれも書かれている名前は自分の筆跡で間違いないが、インクの掠れ方や紙の変色具合などを見るにどれも違う時期に書かれた物のようだ。
つまり彼女はこう言いたいのだろう。書いてある文面に多少の違いはあれど、私が覚えていないだけで何度も契約を交わしたことがある、と…。
「これは一体どういうことだ?過去に何度も同じことが?」
「それは守秘義務です。ワタクシにはお答え出来る情報の範囲が限られています。この先を知りたければ雇用契約への同意が必要です」
私は考える。この場を切り抜けるための最善の策を。
何か自分を知るための手がかりがあれば欲しいのは確かだが、ホテルで働く契約を結ぶつもりなど毛頭ない。それに、いくら自分のことを知っているからといって急に現れた謎の女を信用するというのも無理な話だ。何を企んでいるのかは分からないが、私は素直に『はい、そうですか』と話を飲む人間では無いし、ただで転ぶような性格でもない。
「分かった。生憎、今は自分の記憶が命の次に惜しい。契約を飲むとしよう」
「素直に聞き入れていただけて嬉しいです。手間が省けますので。それではこちらにサイ───」
「ただ、部屋中を調べていたら汗をかいてしまった。ここは息苦しいから、出来れば部屋を出てから書きたいのだが…」
私が出した要求に彼女は困惑したような表情を浮かべた。目線を逸らし、意図を探るように口に手を当てて考える動作をするが、少ししてからため息をつくと「いいですよ」と返事が返ってきた。
「では部屋を出ましょうか。少しコツがいるので見ていてください」
そういうと彼女は少し身を屈むと、その場で軽やかに跳躍する。
重力は常に地面に向かって働いている。しかし彼女の体は床には引かれず、そのまま天井に着地したのだ。
当たり前のように目の前で起こる魔法や超能力としか思えない光景に、私は目を疑った。
「さぁ、どうぞ」
天井を逆さに歩く彼女から手を伸ばされる。
これくらいで驚いていると身が持たなさそうだ。気持ちの整理は付いていないが、今は目の前の出来事をただ受け入れよう。
自分よりも小さな彼女の手を握った所で、持ち上げられるのか心配になり言葉をかけようとしたが、そんな物は杞憂だった。
「上手く受け身をとってください」
「受け身?」
彼女の手に力が入ったかと思うと、体を浮遊感が包み視界が一辺する。持ち上げられた体はまるで天井の扉に吸い込まれるように勢いが付き、そのまま扉を通り抜けると床に叩きつけられるようにして頭からゴロゴロと転がり落ちた。
脳天と背中。それに体の節々が痛む。
視界だけを動かし辺りを確認すると、そこはどこかの廊下であった。全体がアンティーク調の造りとなっており、番号が刻まれた金のプレートが付いた扉があり、壁には何かの絵画が等間隔に飾られ床には赤い絨毯が敷かれている。
先ほど抜け出した扉からは彼女の上半身が見えていた。
今がチャンスだ───。
痛む体を無理矢理動かし、私はその場から脱兎の如く逃げ出した。
建物の構造は分からないが逃げ足にはそれなりに自信がある。彼女が扉をくぐる前に少しでもこの場から遠ざかるのだ。
長い長い廊下をひたすら駆け抜ける。果てしなく地平線まで伸びているように見えるがきっと気のせいだろう。
「どこに行くのですか?」
「なッ!?」
十字の曲がり角から何故か後ろ側にいたはずのジョセフィーヌが現れる。驚いた私は反射的に通路を曲がり、彼女とは反対側の道へ足を進めた。
後方を確認するが追ってくる気配はない。確実に遠ざかっている。きっと今のは近道でもあったのだろう。それか従業員用の通路か何かだ。いくら物理法則を無視した光景を見せられたとしても、視界に捉えている限りは安全なハズだ。
顔を前方に向けようとした瞬間、足に何かが引っ掛かり、そのまま前屈みの姿勢でゴロゴロと転がり壁にぶつかった。
「廊下を走ってはいけませんよ。幽世方様」
逆さの視界に白と黒のメイド服が写る。そして先ほど聞いた女性の声。
顔を見ることなく、再び私はその場から逃げ出した。
「何なんだこの場所は!確かに逃げ切ったハズ!」
「ここは迷いの廊下です」
走りながら叫んだ疑問に、涼し気な顔で曲がり角から現れた彼女が返答する。先ほどと同じように反対側の通路に私は逃げた。
「な、なぜ先回り出来るんだ!」
「先ほどの部屋と同じように、この場所にもルールがあります」
進んでも戻っても曲がっても、彼女は私の行く方向から現れる。
まるで悪夢の中で殺人鬼から逃げ続けるような感覚だ。
「ルールを覚えれば先回りすることもたやすいことです」
そのルールが何かわからない以上、今はひたすら逃げるしかない。しかしルールと言うからには何らかの法則があるのだろう。
足を止めずに酸素が回っていない頭をフルに動かして考える。
「見落としているだけで他と違うものでもあるのか?」
そういえば先ほどから扉一枚も見かけない。それに絵画もだ。もしも床の部屋から出た場所が正解の通路だったとすると…。
再び十字路に差し掛かる。左右の状況は分からないが、前方には絨毯が敷かれているだけで何もない。
「いい加減にしてください」
案の定彼女は曲がり角から現れた。反対側の通路には何もないが、彼女が出てきたその先には…。
「ビンゴ」
最初に見た通路と同じ光景が広がっていた。
彼女も私が法則に気が付いたことを察したのだろう。目の前を通り過ぎる瞬間に足をかけようとしてきたが、ハードルを越えるように軽やかに飛び上がり回避する。
「さらば少女よ!ヒントをくれてありがとう!」
カラクリが分かってしまえば単純なことだった。天井に扉がある部屋も、物理法則を無視してはいるが天井に扉があるだけで他は何も変わらない。壁にある扉は偽物で、天井は本物というだけだ。この廊下だってそうだ。本物の通路は一か所だけで、そのほかは偽物だからループしているというだけなのだ。
この場所は地平線まで廊下は続いていないし、扉の番号も一つ一つが違う。
さて、彼女はどうしているのだろうか。横目で後方を確認すると、彼女はすれ違った場所から動いてはいなかった。しかしその表情は、先ほどのポーカーフェイスからは想像もできない程に満面な笑みを浮かべていた。だが私は知っている。いや、私の本能と勘が警報を鳴らしている。あれは笑ってはいるが、本質は怒りや殺意であると。
「…不味い。怒らせてしまったか」
何となくだが命の危険を感じる。背中にヒリつくような感覚があり、思わず喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。
早くこの場所から離れたほうがよさそうだ。前に顔を向けると同時に全身を黒い風が吹き抜ける。風は目の前で小さな竜巻のようになり、次第に人の姿を形成する。
「久しぶりに素直にムカついてますが、今ならサインしていただければ抑えましょう。さぁ、どうします?」
再び契約書と万年筆を突き付けられた。
正直かなり驚いている。ここが常識の通用しない場所だとしても、まさか目の前にいる人間が明らかに常識外の生物だとは思うまい。人以外の形になれるなど、人間ではなくいわば妖怪や怪物の類だ。到底ただの人間がかなうような相手ではないだろう。だが、面白い。私は今、心の底から楽しんでいる。目の前に広がる非日常に、私は酷く高揚感を覚えている。思わず口を手で覆うが、それは気持ちが高ぶったことによりにやけが止まらないからだ。
彼女の様子や口ぶりから察するに、前にも私は拒んだことがあるのだろう。ここで断ったら痛い目を見るかも知れない。だが、死ぬまではいかないと見た。
「すまないが、私はあきらめの悪い性格でね」
「よく存じております」
「なら話が早い」
サインを書かせたいのであればいくらでも方法があるはずだ。しかしわざわざ頼んでくるということは、何かしら私が自分でサインをしなければならない理由でもあるのだろう。なら後は簡単だ。話に応じずに逃げ回ればいい。
ここまで来る途中に折り返し式の階段があった。私は後ろを振り向き走り出した。
「少し痛い目を見てもらわないといけないようですね…」
彼女の周囲に風が発生し、水に絵の具を溶かすかのように体が崩れ黒い霧のような物が発生する。どうやら先ほどの状態になるには時間がかかるようだ。その間になんとか逃げ切ってみせる。
階段の手すりに座り滑るように踊りに流れ込み、そのまま残りの階段を一気に飛び降りる。両足で着地した衝撃が足裏から脳天まで伝わり、直後に骨が圧縮されるような痛みが伝わってきた。だが、今は痛みも疲れもどうでもいいくらいにこの状況を楽しんでいる自分がいる。
廊下の壁にはところどころに行先が書かれたプレートがつけられており、私はとある場所を目指していた。当然その場所とは、この建物の出口だ。
まっすぐ進み右に曲がり左に曲がり、時折何故か折り返して道なりに進む。ちゃんと目的地に着くのか心配になってくるが、流石に通路の案内として設置されている物が出鱈目ということはないだろう。
内心疑いながら道に従った先には、確かにプレートに『出入口』と書かれた部屋があった。
「よし、あそこから出られる!」
少しだけ名残惜しいが、さらば謎の空間よ。私は記憶がないなりに頑張って行こうと思うので、従業員集めはそちらで勝手にやってくれ。
ドアノブに手をかけようとした瞬間、踏んだ先の床がパカリと開き、咄嗟の出来事に反応できなかった私は、そのまま真っ暗な空間の中に落ちて行き…。視界が一変してどこかの部屋へと落とされた。
一面銀色の室内に充満する何かの料理の匂い。壁には調理器具が飾られ、すぐ横には野菜が入った段ボールが置かれている。考えるまでもない。ここは厨房だ。
天井を見上げるもそこに落ちてきた穴はなく、ただ蛍光灯の明かりが点いているだけだった。
そう簡単には脱出できないらしい。目の前にあったご褒美を取り上げられ、今までの疲れがどっと押し寄せてきた。しかしここで黙っているわけにもいかない。何とか重い腰を上げ立ち上がると、何かが顔の横を通り抜け壁に突き刺さった。薄い金属が細かく振動する音が耳に入り、細い木の持ち手と鋭く輝く包丁が目に入る。
「お前…」
鬼気迫るような低い男の声。恐る恐る目を向けた先には、いつの間にかコック服を着た大きな男が立っていた。手には牛刀が握られ、今にも襲い掛かって来そうな鋭い目つきでこちらをにらみつけている。
終わった。そんな言葉が頭をよぎる。しかしそう簡単にあきらめる私ではない。ここは穏便に済ませる努力をしよう。
「すまない。明らかに不審者ではあるがこれには事情があるんだ。決して摘まみ食いをしようとしていたわけではない」
「俺はなァ、お前がここで何を食おうがそんなことはどうでもいいんだ。厨房に入るのに手を除菌したのかァ?」
「すまない。それはしていない」
ブチッ、と何かが切れた音がした。私は服の首の襟を掴まれ、男から「出ていけ!」と声を荒げながら厨房から勢いよく廊下に追い出される。スイングドアがきしみながら閉まる音に振り返るもそこにはドアなどなく、不意に辺りが暗くなり、再び廊下に向き直るもそこはBARのような雰囲気の部屋となっていた。
全体的に暗く壁や床に敷かれた絨毯の色すら分からないが、何やらカウンターらしき部分だけは明かりが点いている。どこからか流れてくる音楽が室内に響き渡り、棚には見たことも聞いたことない様々な種類のボトルが並んでいた。
「これ以上厄介ごとに巻き込まれるのはごめんだ」
この建物自体に興味はあるが、調べるには命がいくつあっても足りない。それに、いつ彼女と八合うかもわからない。なるべく穏便に脱出したいところだ。
突然後頭部に当たる冷たい金属の感触。カチャリとどこかで聞いたことのある音が鳴り、反射的に両手を頭の高さまで上げて敵意がないことを後ろにいる誰かに示す。
「脱走者はっけーん。おとなしくしな」
今度は女の声が聞こえてくる。彼女ではないことに安堵しつつも、頭に押し付けられている物騒な物には嫌な予感しかしない。
「まて、話せばわかる」
「あら、ずいぶんと余裕そうじゃない。頭に当たってるの何か分かってる?」
「どうせ騒いでも現状は変わらない。それどころか今は会いたくない女性がいる。出来れば穏便に話し合いで済ませたいと思っているが…」
「アンタが契約したら穏便になるよ。どうする?」
また契約書の話だ。何故そんなに私をここにいさせたいのかは分からないが、いなきゃ不都合な事でもあるのだろう。気になりはするが今はそれどころではない。
「残念ながら記憶のない私にも人権はある。スカウトは嬉しいが自分で探すよ」
「あっそ。なら三秒数えるからそれ以内に書きな。じゃないと撃つ。はい、さーんにーいーち」
明らかに三秒ではない速さのカウントダウン。契約書もペンも持っていないと言う前に、引き金が引かれ後頭部から額に向けて破裂音の衝撃が走った。死んだ…と思ったがしぶとく生きている。額と後頭部に触れるも傷口や血の跡もなく、火薬が燃えた煙の臭いだけが鼻腔をくすぐる。
後ろを振り返った先には、赤い髪と瞳のバーテンダーの様な姿の女が、銃口から煙が出ている拳銃を持ち片手で口を抑えながら笑いを堪えていた。しかし私の顔を見て我慢できなくなったようで、抑えていた手を離して大きな笑い声を上げた。
「アッハッハッハッハッ!あー面白い。アンタのその顔見るの久しぶりだねぇ。元気そうでよかったよ」
「キミも私を知っているのか?」
「あぁ、そうだよ。でもこれは話しちゃいけない契約だからねぇ。アタシの名前くらいなら教えてや───」
どこからかピシッ、と奇妙な音が聞こえた。
「あーそんな時間なさそうだねぇ。ま、生きてたらまた会えるよ。じゃあねぇ!」
「おいまて。なんださっきの音は!」
また再び、何かのひびが広がるような大きな音がした。今のは聞こえてきた場所が分かる。カウンター側からだ。少し目を離した隙に先ほどの女性は消えており、いつの間にかカウンターの明かりもなくなっていた。
もう一度ひび割れる大きな音が聞こえる。その正体が今分かった。先ほどまで壁だった場所が大きな水槽となり、ガラスが割れていたのだ。
気が付いた瞬間に水槽が勢いよく割れ大量の水が部屋に流れ込んでくる。私は抗うことも出来ないまま水に飲まれ、どこかへと流され続けた。
息が出来ない上に服が水を吸って重くて泳げない。
人は死に直面すると相馬等を見ると言われているが、記憶がない自分にはそんなイベントはないらしい。あぁ、死ぬ前に一度分厚いステーキでも食べたかった。
叶う事なら、まだ、死にたくない…。
「承知いたしました」
聞き覚えのある女の声に、私の薄れかけていた意識は覚醒した。
見覚えのある天井だ。ゆっくりと起き上がって自分の状況を確認する。服は汚れておらず、体のどこにも不調はない。この部屋は…
「最初にいた部屋、か」
「そうです。ご無事でなによりです」
自分が寝かされていたベッドの真横に、いつの間にかジョセフィーヌの姿があった。彼女は相変わらず眉一つ動かさずにこちらを見ている。言い知れぬ不気味さを感じたが、今の私には逃げるような体力はもうない。だがそれはそれだ。自分が逃げ回った所為であんな目に遭ったのかも知れないが、それはそれとしてよく分からん契約を結ぶつもりもない。
「助けてくれたのかは分からないが、生憎私の返事は変わらない。出来ればもう関わって来ないでほしい」
「あぁ、そのことはもう解決致しました。サインは頂きましたので」
…は?何を言っているんだ?
訳が分からないという顔をしていたのだろう。実際に訳が分からないが、一枚の紙を見せられる。『以下の契約に同意致します。幽世方 楓』。書かれたばかりで乾ききっていないインクのサインと指紋が着いていた。
一体いつ書いたんだ?気絶していた間か?いや、それにしては筆跡が綺麗過ぎる。
「死にたくない、とおっしゃっていたので、正式に契約致しました」
契約書を見ながら小さく震える私を見て、彼女は目を細め、不敵な笑みを浮かべていた。
…といった経緯があり、私は幽世館の新人として働くことになった。体験した出来事以上に出鱈目なホテルである事をゆっくりとその身に思い知る事になるのだが、それはまた別の話である。
もしも現世、異世界、平行世界などの様々な場所で見かけた際は、どうかお気軽にお泊りくださいませ。
【異界神話体系 幽世館】 @raguna397
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