信濃 櫻

ーー誰かの救世主になれたならーー


 「櫻、入りなさい 」

 「はい、お父様 」

 お父様の部屋はとても怖い。

 マホガニー製の艶やかなドアに銀をいぶした冷たいハンドル。

 ガチャリと音がして中に入ると、すぐに暖炉の暖かさが伝わって来る。

 ワインレッドの絨毯が敷き詰められ、歩くと少しふさふさしている。

 灯りは月の光と天井に吊るされたランプしかなくてとても薄暗い。

 私がいる扉の位置からお父様のいる机までおよそ10メートルくらいなのに、なかなか一歩を踏み出せないでいた。

 「どうしたんだ、入って来たのなら扉を閉めなさい 」

 お父様は私に背を向けたまま言った。

 「はっはい、すみませんお父様 」

 廊下側よりも暖かいはずのハンドルは何故だかとても冷たく感じた。

 ガチャリ

 扉が閉まると部屋はより一層暗くなって、机にあるアームデスクライトの暖色の光がお父様が持っている万年筆の影を絨毯に作った。

 その影はとても大きくてまるでお父様が私を遠ざけようと放った番犬のようだった。

 私は一歩一歩近づいてあと三歩でお父様にたどり着ける場所まで来た時

 「そこでいい 」

 と、言われた。

 「櫻は今後どうするつもりなんだね?」

 「わ、私は省大プログラムで鐵道省に...... 」

 するとお父様は私の話を遮って少し強い口調になった。

 「前にも説明したはずだ、鉄道業界に未来はない、そんなところに研修を受けに行くぐらいなら何もしないで大学に行きなさい 」

 私はその発言に反論したかった。

 でも出来なかった。

 怖い、お父様に反論するのが怖い。

 幼かった頃はよくお出かけに行ったり、鉄道を見に行ったりしていたけど、それはもう昔の話。

 「分かったのなら返事をしてくれないか?」

 私の目元には大粒の涙がポロポロと出始めていた。

 反論したいのに出来ない弱い自分が情けなかく惨めに感じた。


 『人の思いと願いを運ぶそれが鐵道だ!』

 私はその言葉を思い出してハッとした。

 そうよ!私はこの言葉を聞いたから鐵道省に入りたいって思ったんじゃない!

 あの状況を救ってくれた私の救世主にお礼を言いに行かなきゃ!

 再び私の心に炎がたぎった。

 この部屋を温める暖炉なんて比じゃないほど燃え上がった私を止めることなんて誰も出来ない!

 一度「すう」と息を吸い込み今までで一番大きな声を出して言った。

 

 「私は!鐵道で人と人とを繋ぐ救世主になりたい!」

 

 私は膝から崩れ落ち肩で息をした。

 額からも体からも汗が噴き出して止まらない。

 びっくりした......。

 私もここまで大きな声が出るとは思っていなかったから怖かった気持ちと言い切ったぞ!という気持ちが混ざって不思議な感覚だった。

 でもこの感覚はいいものなんだと直感的に思った。

 お父様は一瞬万年筆の動きを止めたけど振り向くことはなかった。

 そして一言

 「勝手にしろ 」

 と言った。

 私は震える足で立ち上がり部屋を出た。

 壁を左腕で支えるような体制のまま私は廊下で倒れた。

 薄れゆく意識の中、私は右手人差し指を天井に向けてこう言った。

 「出発進行 」

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