第3話 物の怪の記憶と現実

 目を開けたときは日が昇っていた。無事に朝を迎えられた。

 武彦がおそるおそる指に力をいれると、予想に反して普通に動く。まだ生きている。

 夕べの出来事は、多分夢だったのだろう。


 昨日は両親に連絡できなかった。心配して眠れぬ夜を過ごしたに違いない。

 きっとひどく叱られる。それでもいいから、早く帰りたかった。両親が恋しい。


 武彦は子犬の様子を見ようとしてソファベッドの足下に視線を落とした。

「あれ?」

 一緒に寝ていたスヌーピーの姿がない。ベッドの下、テーブルといすの影、カーテンの中。武彦はベッドから飛び出して部屋の隅々まで探したが、どこにもいない。


「スヌーピー……じゃあ、真夜中のあれは夢じゃなかった?」

 友だちにもう会えないと悟ったら、また涙が出てきた。


 武彦は泣きじゃくりながら、窓にかかるカーテンを開けた。外は雪で真っ白だったが、歩けないほどではない。

 意外にも太陽の下で見ると、ここは知らない場所ではなかった。


(逃げなきゃ。今がチャンスだ)


 武彦は大急ぎで着替えて、リビングの扉を開けた。

「うわあっ」

 昨日の女性が立っている。ドア越しに様子を伺っていたのだろうか。


「おはよう。夕べはよく眠れた?」

 優しい言葉とは裏腹に、腕を組んで見下ろす態度には威圧感があった。

 口元に笑みを浮かべているが、女性は瞬きもせずに武彦を見ている。

 大切な友だちのスヌーピーを連れていった。次は自分の番だ。武彦は恐怖のあまり少しずつ後ずさりする。


「あら、心細くなって泣いてたのね。かわいそうに」

 女性は屈み、武彦に目の高さを合わせた。

 目の前にいる人は、透き通るように真っ白な肌をしていて、唇だけが異様に赤い。それはさながら、雪の上に落ちた一点の血を連想させた。


 武彦は、母親に読んでもらった昔話を思い出した。

 雪のような肌をして、真っ白な着物を着たきれいな女性。氷のように冷たい息を吐き、人間を凍え死にさせる。

 体だけでなく心までも氷に被われ、里に雪を降らせる物の怪モノノケの話を。


「ゆ、ゆき……おんなだ」

 スヌーピーは殺された。逃げないと自分も殺される。

 武彦は隙を見つけて女性の横をすり抜けようと、一歩踏み出した。


「待って」

 すれ違いざまに武彦は腕を強くつかまれる。氷のように冷たい手だ。逃げるのに失敗した。

「放してっ」

 ふり切ろうとして暴れたが、子供の力は弱い。簡単に動きを封じられた。


 震える武彦をじっと見つめていた女性は、つかんだ手の力を緩めた。

「ひとりで帰れるの?」

 武彦はおそるおそるうなずく。すると女性は少し困った目で武彦を見て、やがて口を開いた。


「わかったわ。お行きなさい。でも、ここで私に会ったことは、だれにも話さないで」

「え、だれにも?」

「そう、家の人にも、友だちにも、

「も、もし話したら……?」


 女性はほんの少し考えるように口をとじる。そして独り言のように呟いた。

「そのときは、困ったことになるわね」


(困ったこと。つまり、話したら殺される?)


 雪女は、自分の秘密を漏らされないように、いつもどこかで武彦を見ている。この先ずっと雪女に見張られる。

 幼い武彦にとって、一生を監視されることは絶望的な未来を送ることと同じだった。


「お姉さんのことだれにも言いません。だからもう、帰らせてください」

 涙でくしゃくしゃになりながら頼んだ。女性はため息にも似た笑みをもらすと、武彦を放した。

 解放された武彦は、山荘を飛び出す。


 外は昨日の天気が嘘のように晴れていた。冬の陽射しは弱かったが、日が出ている間は雪女に襲われないような安心感がある。

「スヌーピー……」

 殺されてしまった友だち。幼い武彦には何もできなかった。

 子犬を思うとまた涙があふれる。手の甲で何度も拭いながら、武彦は一目散に走った。やがて子犬を飼っていた公園が見え、やっと家にたどり着いた。



  ☆  ☆  ☆



「これがおれの命拾いした記憶です。でも残念ながら恐怖心は覚えていません」

 話を進めながら、武彦の心は幼い日に戻っていた。

 当時は冬が来るたびに闇と雪を恐れていたのに、いつの間にかすっかり消えていた。

 人は知識が増えるにつれ、異形のものへの恐怖を失っていくのだろう。


 武彦はカーテンを閉め、ソファーに腰かけた。

「家の人には話したの?」

「いいえ。両親にはこれ以上心配かけたくなかったんです。もちろん友だちにも話しませんでしたよ」


 無事に帰宅した日、武彦は熱を出して数日寝込んだ。

 両親は気を使ったのだろう。快復後もどこで何をしていたのか、一切問い詰めなかった。


 今では武彦自身も、あれを夢だと確信している。

 雪路で迷ったとき、たまたま鍵のかかってなかった山荘に飛び込み、ひとりで夜を明かした。その夜に見た夢と母から聞かされた話がつながり、自分で物語を作ったに違いない。


「金縛りも雪女も、夢だったんです」

 世話をしていた子犬がどうなったのかも記憶にない。だれかに拾われたか、そもそもいなかったか。それも定かではない。


「現実じゃなかったってこと――」

 武彦は何気なく、ソファに座ったまま俯いているゆきに視線を移した。長いストレートの黒髪が落ちて、顔を隠している。


 それを見た瞬間、武彦の背筋に冷たいものが走った。

 部屋の気温が一気に下がる。吹雪の音が、静かな室内で大きく響いた。

「ゆきさん……?」

「……のね」

 地の底から響いてくるような低い声だ。


「とうとう話したのね。

 今までの親しみやすさは消え、刺すような冷気を放つものが目の前にいた。


 近寄りがたい存在に変貌しているゆき。

 いや違う。近寄れない。

 恐怖。畏怖。人外。


 武彦の中に潜む、原始的な感情が呼び起こされる。


「ゆきさん、冗談は……」

「だれにも話さないと約束を交わしたのに、おまえはそれを破った」


 雪のように白い手が、ゆっくりと伸びてきた。

 前髪の隙間から、ゆきの片目だけがわずかに覗く。妖しい光を放つ目が、悲しげに武彦を見た。


 全身が総毛立った。見据えられて動けない。禍々しい存在が武彦の動きを縛る。


 それは、異形のものに対峙した人間共通の感覚だ。

 本能が逃げることを命令するのに、指一本すら動かせない。冷たく光る刃を首筋に立てられたときの絶望にも似て、どうすることもできない。

 命の火が消える瞬間が見える。


 ああ、これこそが自分の求めていた感覚だ。


 死を目前にして抱いた――本当の恐怖心。

 そうか。

 幼いときに見たあれは夢ではなく、紛うことなき現実だった。


 水無瀬ゆきこそ、雪女。


 異形の存在は人の皮をかぶり、人間社会に紛れ込む。真の姿を隠し、牙をむく瞬間を待っている。

 そして存在に気づいたものは、命を奪われる。


「おまえさえ思い出さねば……おまえさえ口を閉じていれば、わたしはずっとここにいられたのに」

 懐疑主義者の武彦は、超常現象には否定的な立場を取ってきた。ましてや妖怪が実在するとは夢にも思ったことがなかった。


 だが現実は違う。世の中には科学で割り切れないことが数多くある。

 真実を知ったときが、命の果てるときだ。


 あのとき助けられたおかげで、今の自分がある。

 本来ならばあの場で失っていたかもしれない命だ。それを返せというのなら仕方がない。

 送れるはずのなかった人生だと思えば、諦めもつくのか?


 いや、ちがう、簡単には割り切れない。


 もっともっと音楽を作りたかった。曲にたくさんの夢をのせて、みんなに届けたかった。バンド仲間と一緒に全国をまわり、聴きに来てくれた人に自分たちの思い描く世界で過ごしてほしかった。


 声援の中で、思い切りベースを演奏したかった。


 それに気づいたとき、武彦の中で生への執着が芽生える。

「いやだ……」


 一度助けたのなら、そのままずっと生かしておけばいい。

 絶対に死ねない。こんなところで、こんな形で死ぬなんてごめんだ。

 おれは絶対に生き抜いてみせる!


「うわあっ。やめろおっ」

 理不尽に訪れようとする死に抵抗すべく、武彦は目を閉じて大声で叫んだ。



  ☆  ☆  ☆

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